伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

介護に疲れて…

2020年12月15日 | 日常生活・つぶやき
私的なことを書きます。
恥を曝すことになるが、それでも書いてしまう。




しばらくは何もする気になれなかった。
このことを書く気にもなれなかったが…。

今までブログに書いていたことも、もしかして、上の空で書いていたかもしれない。
心ここにあらず、ただ上っ面だけをなぞっていたような感じで。



認知症の母を施設に入所させた。

それまでは、まるで戦いをしているようだった。地獄のようだった。
つらくて何もかも投げ出したい、
この生活から逃げ出したい、と何度も思った。



言葉にすることが出来ないくらい苦しく、つらくしんどかった。
身内はもっとひどい人がいる、あそこはもっと大変だ、と言ったが、
他の人は関係ない。
しんどい思いを今、しているのは私だ。
やっとやっとの思いで毎日を生きているのは私なのだ、
と叫びたかった。


何度も泣いた。
母の前でも泣いた。
けれど、私が泣くと母は逆上し、「なんで泣くのや!」と激怒した。
母の前では決して泣いてはいけないと思った。
歯を食いしばって我慢した。





まだ今の日々に慣れない。

もう、リモコンを棚の上に隠す必要もなくなり、
ティッシュペーパーを隠す必要もなくなった。
電話も隠さなくてよくなった。
トイレの電気を一晩中つけておかなくてもいいし、
トイレにスリッパを置いてもよくなった。

びくびくしながらお風呂に入る必要もなく、
落ち着いて歯を磨けるようになり、
暗闇の中を音を立てないようにこそこそと2階へ上がる必要もなくなった。
私は自由になった、
地獄は終ったのだ…。



始めの頃は死んだ方が楽だと何度も思った。
泣きながら、道を歩きながら、死んだ方がいいと思った。


母の症状が進んで来るにつれ、
早く死んでくれ
と、…思うようになった。

思ってはいけないことを思うようになった。



もっと症状が進むと、そう思う余裕すらなくなった。

私が娘だということを忘れた。
単純な名詞も分からない。
意味の通じないことを言い、会話が成立しなくなった。
テレビを見ても、何を言っているのか分からないと言う。

右手指が麻痺していて、お箸が使えなくなった。
左手で手づかみで食べようとする。

「それは止めて!」と悲鳴を上げると逆上して、
ご飯茶碗を逆さにして、ご飯を全部ばらまいた。
おかずも手で掴んで、私に投げつけた。
手に噛みつかれ、凄い力で爪を立てられ、髪の毛をすごい力で引っ張られた。

それで、フォークで私が食べさせるようにした。
自分が食べるのは後回しの上、何を食べているか、食べた気がしなかった。




症状が進んだこの秋ころ、一人で歩けなくなった。

うちの家はベッドではなく布団なので、布団から起きて立つことが出来なくなり、
支えて立たせるようになった。
布団から起きられないので、お尻で這いずりながら、
いざりながら移動した。


夜中に一人でトイレに起きても立てないらしく、
紙おむつ(リハパン)を穿いていても、布団を濡らすようになった。
畳も濡れていることがあった。

それで急いでおねしょシーツを通販で買い、
4ヶ所を安全ピンで止めた。

そうしないと、母はなぜか敷きパッドをめくり、外す癖があったからだ。


始めの頃はリハビリパンツを穿いていても、自分でトイレへ行っていたので、
汚れることはなかった。
最近になって、毎日穿き替えなくてはならなくなった。

夜中、自分でトイレに行けなくなり、我慢が出来なくなっていたらしい。


それでも何とか自分で行こうとしていた。
夜中の2時ころ、4時ころ、5時ころ、お構いなしに、どしんと音がする。
そうすると、2階で寝ている私も目が覚め、下へ降り、
トイレで立たせて用を足させた。
昼も、椅子から立ち上がることが出来ず、私が立たせ、
トイレのたび支えながら歩かせた。


夜中もゆっくり寝ていられなかった、
もともと睡眠障害があったので、まだましだったかもしれない。…


介護をしているという意識はなかった。
世話をしているだけだった。

けれども少しずつ、症状が進んで来て、私は疲れて来た。
料理をする気力がなくなり、総菜を買って済ませるようになった。
味噌汁さえ作る気になれなかった。
もう味噌汁は両手でも持てなくて、
お椀を持たせるとこぼしてしまい、カーペットを汚したせいもある。




週に4回デイサービスへ行っていたが、
一日家にいると、
「しんどいしんどい」「ねえねえ、ねえねえ」
「何でやろう」「どうしたんやろ」「分からん分からん」
「何かないか、美味しいもの」
その繰り返しで、一日中お尻で歩きながら、同じことばかりを言う。
相手をするのに疲れ果てた。


とくに「ねえねえ、ねえねえ」と何度も言われるのはきつかった。

食事をしたすぐあとなのに「何か(食べるものは)ないか」と何度もしつこく言う。
満腹中枢がやられているのだろうとある人は言った。
何も食べるものはない、と言うと、戸棚を食べ物ではないものまで漁った。
机にある台ふきまで口に入れようとした。



そしてケアマネージャーに泣きつき、11月ころから週に6回、
日曜を除いて毎日デイサービスへ行くようにしてもらった。

それでも朝と夜は苦痛だった。
日課だった朝の散歩もとうに出来なくなっていた。




我慢できなくなったのは5月ころで、そのころはまだ母は自分で歩けたが、
ふとしたことで逆上して暴れた。
ものすごい形相で引っ張られ、殴りかかられた。
このままだと自分も相手を蹴り倒すと思った。


ケアマネージャーに相談して、あるサナトリウムを紹介してもらった。
けれど、すぐには入所できない、3、4か月待ってもらうと言われた。


…それから半年以上経って連絡が来た。
その間に認知の症状は進んでいて、
毎日が針の筵のようだった。

我慢の日が続いた。
我慢出来ない時もあった。


デイサービスへ行っている時は、自分の時間があったが、
ぐったりして何もする気になれなかった。
パソコンを開いて、ブログを見ることが息抜きだったのかもしれない。


デイサービスへ送り出すのも一苦労だった。
今日はしんどいからやめる、
どうしても行かないといけないのか、
いやだ、行きたくない…今日は止める、


ケアマネは本人はそう言っても、
やはり行ってもらう方がいい、
あなたの身が持たないからと、
ある時から…6月ころから、
ヘルパーさんに来てもらえるよう、手配してくれた。


ヘルパーさんはとても上手に母の機嫌を取り、
上手にデイへ送り出してくれた。
それでだいぶ助かった。
6月から半年、それがなかったら耐えられなかった。


それでも朝、洗濯や掃除をしている時、毎日気が気でなかった。
いつ母が椅子から立ち上がろうとするか。
一人で立とうとすると、立てずにこけてしまうから助けないとならない。

掃除で忙しくしている時、必ずねえねえ、ねえねえと呼ぶ。
私の姿が見えないと不安になるらしい。

自分が椅子に座ったまま、何もしないことが気切ないのだろう。


けれど落ち着いてお風呂の掃除も出来ないことに、私は疲れ果てていた。



そして12月7日、
その日が来た。


それから、急に私は自由になった。
認知症が発覚してから5年が経っていた。
苦しみしかなかった悪戦苦闘の日々が、やっと終わった。



もうびくびくしながら暗い部屋を抜き足差し足で歩かなくてもいい。
机にテレビのリモコンを置いたままにしておいてもいいのだ。


施設から、預れないという連絡がこないか、今もびくびくしている。…


自由になって何をしてもいい。
散歩も出来る。
それが望みだった。




残った私の感情は、後ろめたさだ。

母を邪険に扱い、邪魔者のように思って来た。
その自分の気持ちが、後ろめたい。
その気持ちが抜けきれない。


ヘルパーさんたちは優しくて、いつも励ましてくれたり、
慰めてくれた。

もうじゅうぶんにあなたは親孝行をした、
頭が下がります…など、


いや、そうじゃない。
私は母を邪魔だと思っていた。
早くいなくなってくれと、
早く目の前から消えてくれと、
一刻も早くこの現状から逃げたいと、
そればかり思っていた。


その後ろめたさと罪悪感を、これからはずっと引きずりながら、
私は一人生きていくのだ。



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