自己満足的電脳空間

完全自己満足主義。テーマはない。自分の趣味・関心事を偏った嗜好と思考でダラダラと書き綴る自分のための忘備録。

横浜が初代大洋ホエールズユニフォームを復刻!

2018-12-06 00:05:00 | ユニフォーム・球場考察
横浜は2018年11月22日に球団創設から満69周年を迎え、翌11月23日から70周年目がスタート。新たな歴史の幕開けとなる2018年11月23日から2019年11月22日までの1年間を通じて「70th ANNIVERSARY PROJECT」と題したさまざまな企画を行う。

そのうちの一つが来年の3月10日に球団創設の地である山口県下関市でオープン戦の開催。

来年3月10日に山口県下関市にある下関球場(オーヴィジョンスタジアム下関)で行われるオープン戦で、球団創設後、初の開幕戦となった1950年3月10日に選手が着用していたユニホームを復刻。創設時のチームへの敬意を表し、復刻ユニを着用する。


1950年モデルの復刻ユニフォームを着用する#11 東克樹/#25 筒香嘉智/#19 山崎康晃

いいね、こーゆー先人への敬意の表れ。そして時代を感じさせてくれながらも今でも十分スタイリッシュなシンプルなデザインのこのユニフォーム!左胸に小さく「WHALES」の文字。今見ると少々地味なデザインだが、これは前年秋に来日したAAA級サンフランシスコ・シールズのスタイルを模写。このシールズスタイルは他球団も採用し当時の流行となった。


また、今回は球団創立後でもある下関でオープン戦が開催されることも大きな意義がある。下関市営球場は下関市向洋町の下関運動公園の一角に1949年(昭和24年)に落成、1950年に発足した大洋ホエールズの本拠地として1952年まで使用されていた。大洋は翌1953年に松竹ロビンスと合併し「大洋松竹ロビンス」(洋松ロビンス)となり、大阪球場とのダブルフランチャイズとなったが、主催試合は興行面からほとんどが大阪球場での開催となった。松竹が経営撤退し、再び大洋となった1955年に本拠地を川崎球場に移転してからも下関では大洋主催のオープン戦や公式戦がしばしば開催されてきたが、老朽化など設備に不備が目立つようになるなどしたため、後年は開催されなくなっていった。

この旧下関球場は老朽化のため1985年(昭和60年)をもって廃止となり解体。

旧下関球場

両翼88,4メートル、中堅115,8メートル

●公式戦 50~62年、65~71年、73~75年にセ・リーグ75試合、パ・リーグ3試合の計78試合が開催された


下関球場は、50年3月10日にセ・リーグ1年目の「開幕戦」が行われたことでも球史に名を残している。福岡市の平和台球場と2球場で同時開催。下関球場では2試合があり、地元のマルはホエールズが2-0で国鉄に快勝。中日は5-0で大阪に勝利。

開幕戦はマルはのエース今西錬太郎が完封勝利で客席を沸かせた。ユニホームの左袖に付いた球団名「(は)」は、林兼商店にちなんだ大洋漁業の社章だ。ただ、開幕直後にはチーム名を「大洋ホエールズ」に変更。この名前は長く親しまれた。

1953年に松竹との合併で大洋松竹ロビンスとなり、本拠地を大阪と下関とした。動員力を期待して大阪球場で32試合を開催。ナイター施設がなく当時の平日の動員力は約2000人程度しかなかった下関球場では2試合しか行われなくなった。1954年の洋松ロビンスを経て、再び大洋ホエールズとなった1955年に本拠地を川崎市の川崎球場に移転。下関球場はあるじをなくした。

既に下関から東京へ本社を移していた大洋漁業だが、同社の発祥の地である下関を重視。本拠地移転後も下関球場では年間数試合の公式戦やオープン戦を開催した。また、1950年代には米メジャーの球団などを招いた日米野球も人気を呼んだ。

1985年を最後に老朽化のために解体。跡地には下関市立市民病院が立っている。1988年に完成した新球場は下関北運動公園内にあり、1990年3月11日には近鉄の超大物ルーキー野茂英雄が、大洋とのオープン戦で「プロ初勝利」をマークしている。

※地図内にある豊楽園球場は西鉄の準本拠地的だった球場。

1951年に西鉄ライオンズが球団合併で誕生すると、福岡市の平和台球場だけでなく、豊楽園球場での公式戦開催の機運がさらに高まり、西鉄戦は6試合が開催。翌1952年には12試合(平和台球場は18試合)が開催。

現在より西側にあった小倉駅が現在地に移転することに合わせ、1957年を最後に取り壊しが決定。翌1958年に完成した小倉球場(現北九州市民球場)に役割を譲った。最後の公式戦は、1957年にV2を果たした西鉄「野武士軍団」のシーズン最終戦だった。

※他にもユニフォームのこと、球場のこと、ゴチャゴチャ言ってます(笑)