Jimmyの旅行放談

私は海外旅行が好きで、これから色々体験談を流して皆さんのご意見をお伺いいたしたいと思います。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」  P 37

2005年07月31日 18時25分18秒 | Weblog
各ダンサーそれぞれ皆異なった衣装をまとい生演奏の
音楽に合わせてリズミカルに踊りをこなしていた。

余談1.

今日は、視点をチョッと変えて日本の宝塚歌劇団のこと
が脳裏をよぎったのでお話してみたい。

考えてみると、今でも恐らく女の子に生まれたら年頃に
なると1度くらいは宝塚歌劇団に入団したいなという憧
れを持つ女の子は多いのではないかと思うのである。私
は男性なので、分からないが小学校高学年の頃、クラス
に一人位はそう念願していた女性徒がいたようだ。

注)写真よりも、タイトルをクリックしてみてください。
  丁度適当なサイズで写真が中央に位置されて見やす
  いようです。

            今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P36

2005年07月30日 06時55分33秒 | Weblog


フラメンコ 6.

写真はフラメンコショー、男女入り乱れての優雅な
踊り風景である。

たしかに、手さばきもしなやかで、踊りもうまいと
思うのだが、とてもあの迫力ある強烈で野性的な
フラメンコショーの面影とオーバーラップして私の
イメージと合わなかったのは残念至極である。

ここに、第1印象の重要さが感ぜられるのである。

                 今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P35

2005年07月29日 07時11分33秒 | Weblog
フラメンコ 5.

フラメンコショーの初めは、 バックミュージック
を背景にソロの独唱だった。

それは、物語のある音楽でミュージカル調でやや日
本の能楽と通ずるものがあった。その歌の意味が分
からなかったのは残念だった。
                          
独唱が終わると、いよいよ、フラメンコショーが始
まる。

ダンサーは圧倒的に女性が多いが、勿論男性のダンサ
ーも混じっている。

あとで、曲も踊りも全てがアドリブで進行されてい
たというのだが、真相はどうだったのか、私にはわか
らなかったのだが…?
       
今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P34

2005年07月28日 05時28分20秒 | Weblog


フラメンコ 4.

写真は、観客席の風景である。

大体、一つのテーブルに6人がけで、劇場内には
300人以上の観光客が詰めかけていた。

場末のショーハウスの約10倍以上もあるスペース
だ。

観光客は、思い思いの期待を弾ませながらワインの
グラスを片手にしてステージに釘付けになっていた。

            今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P33

2005年07月27日 10時57分57秒 | Weblog


フラメンコ 3.

私が、フラメンコ・ショーを見るのはこれで2回目だ。

最初に見たのは同じスペインのバルセロナの場末で見
た本物のショーだった。案内されたのは地下1階で観
客も大体4or50人も入れば満員だった。 
観光客は勿論、ヨーロッパ方面、アメリカ人、日本人
数名で、東南アジアからは一人もいなかった。
ステージは小さいが前は半円形で踊り子もせいぜい全員
で7or8人位だったと思う。座席も自由に空いた席へ座れ、
早い者勝ちだ。早速、日本人観光客は急いでかぶりつ
きに陣取った。

1列目の前列に座った観光客は、踊り子の裾が観客の
頭や顔に触れる位だから一体感がひしひしと感じられ
るのだ。しかも、踊り子が舞台で手拍子といっても、
私たちがするのとは違って、館内の隅々まで響き渡る
ような音でさまざまなリズムを刻みながら踊り、舞台
を鋭く蹴るとその強い音と埃が立ち込めるのだが、そ
の快感は今でも忘れられないものになっている。しか
も、ギターリストは、男性一人だけがダンサーのそば
で踊り子の熱烈な踊りに合わせて汗だくで弾いていた
ように記憶している。たまに、弾く手を休め、その代
わりに踊り子のリズムに合わせて手拍子を打っていた。
男性でもあり、プロだからその手拍子はうまく特に強烈
だったと、記憶している。

さて、今回のフラメンコショーは国立劇場で、全く観
光客用にショーアップされていて、本物の場末のショー
を体験した私にはすっかり期待が外れてしまった。

でも、まあ、2時間のショー・タイムを楽しむこと
は出来たのだから無理は申すまい。
しかし、これからスペインの本格的なフラメンコショー
を初めて見たい方は通訳を介して地元の方と良く相談の
上、場末のフラメンコショーをお探しすることをお勧め
しますが、皆さんはどちらをお選びになるでしょうか。

また、元に戻りますが、この国立劇場では舞台装置も完
備されていて、舞台も上下に昇降機を使ってプログラム
に合わせて使用されていた。

写真は、本格的な管弦楽団をバックミュージックにして
先ず民謡の披露である。

                       今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P32

2005年07月26日 14時54分38秒 | Weblog


フラメンコ 2.

中へ入ると、すでにショーは始まっていた。
                        
ステージ近くのテーブルに案内されると、ウェイター
がワインのボトルを2本持ってくる。

さて、フラメンコだが、その起源を調べてみると、
スペイン南部のアンダルシア地方に定住したジプシー
の音楽が、もともとその土地にあった民俗音楽と融合
して形成されたようである。

その原型は歌と手拍子だけだったようだ。

その後ギターが加わり、さらにスペインの民族舞踊が
加わり、また観光客用にショーアップされて現在の形
になったようだ。

                 今日は、ここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P31

2005年07月25日 05時40分00秒 | Weblog

 
フラメンコ 1.

お待たせしました。今日は、スペイン2大芸術の一つ、
「フラメンコ」のお話に移りましょう。

写真は、国立劇場でフラメンコショーが開催されている
正面玄関前だ。

看板にはお昼の部だろうか、アカデミー助演男優賞に
選ばれたTOMMY LEE JONESの公演宣伝の看板が見える。

フラメンコショーは夜の10時頃から始まるのが普通だ。

料金は、ドリンク付きで一人日本円で約6,500円だった。

           今日は、ここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」  P 30

2005年07月24日 01時09分28秒 | Weblog

ゲテモノ食い体験続き: その3.

ゲテモノ食いで私は思い出すのですが、戦時中よく蜂の子、
イナゴ、蚕のさなぎくらいは食べた経験がある。

今でも、米軍基地内のカミソリ(食料品売り場)には、皮
を剥いだ蛙の腿肉が売られています。
私も、たまにそれを揚げ物にした天ぷら料理を食べる機会
がありますが、料理法によっては結構おいしい料理なので
ある。
なにも言われなければ、ちっとも違和感は無い。

私は食べたことがありませんが、ニューヨークの一流レス
トランではアリ(蟻)やウジ虫の揚げ物などがある、と聞
いています。

これで、ゲテモノシリーズはおしまいにしておきます、有
難うございました。
            今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P29

2005年07月23日 00時38分33秒 | Weblog

ゲテモノ食い体験続き: その3.

写真は食前酒として赤ワインのボトルを注文して二人で乾杯
した時の風景である。

余談だが、全国的にスペインはワインの産地だから、かなり
安く、同じスペイン産のワインがフランスで買うと2倍もす
るのにはビックリしたことがある。食事もスペインは割りと
安かった。

「ゲテモノ食い」と言えば、今の天皇陛下が皇太子時代に静
養先の長野で地元の珍味が食べたいと所望され当時農業試験
場で試験的に作っていた蝉の蛹(さなぎ)の缶詰を出したら
「なかなか美味」だったと感想を申された、と言うお話があ
ったことを御存知でしょうか。
                今日はここまで….。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P28

2005年07月22日 00時06分01秒 | Weblog

ゲテモノ食い体験続き: その2.

そのレストランの名前を書き留めなかったので、
レストランの名前を御紹介できないのが残念で
すが、写真はその中の風景である。

お昼時間だったが、誰一人お客がいなかった。
中は豪華では無いが清楚な中にも清潔で静かな
雰囲気だった。

さて、メニューも無いので、私たちが持ってい
たガイドブックの絵の写真を見せてやっと私た
ちが何を食べたいかがようやく分かったようだ
った。

それは、牛の金玉料理だった。

30分近く待って出された料理はオムレツ風の
大皿の中にオムレツの真ん中に牛の金玉料理が
乗っかっていた。

最初は、ちょっと恐る恐るフォークをさして、
ナイフで一味分切り取って口にした。
ところが、これがコリコリしていて味も中々
うまかったのである。

勿論、全部平らげたのは、言うまでもない。

                    今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P27

2005年07月21日 00時15分20秒 | Weblog

ゲテモノ食い体験:その1.

今日から、スペインの2大芸術と言われるフラメンコと
闘牛のうち、フラメンコショーを紹介する予定でしたが、
今日、アルバムを見ていたら「アブラハム宮殿」見学の後、
電車でマドリードへ帰る際、かなりの時間があり、グラナ
ダで面白いレストランを発見してゲテモノ食いの体験を
した時の写真が3、4枚出てきたので、是非記録に残し
て置きたいと思い、後戻りしますが、しばらく御勘弁く
ださい。

私たちは、「アブラハム宮殿」見学を終えた後は、翌朝
出発してグラナダ駅へ向かう。
電車はグラナダ駅を夕方出発するのに、昼前10時半頃
にはグラナダ駅へ着いた。そこで、 ランチを取ること
にした。

ここで、ガイドブックの案内からゲテモノ食いを体験する
レストランがあることをキャッチしたのである。
好奇心も手伝って、そのレストランを探すことになったが
駅付近には無さそうで、市電に乗車して街の外れまでやっ
て来た。

ところが、マドリードでは英語が少しは通じたが、グラナ
ダは地方なので中々英語が通じず2時間位もかけて隅々探
した挙句、苦労の甲斐あって遂に見つけることが出来たの
である。
ジェスチャー・ゲームではないが、身振り手振り、絵を描
きながらやっとのことでゲテモノ食いのレストランを射止
めたのである。

それは、グラナダ駅から西方かなり離れた街外れにあった。
                                
今日の写真は、御覧の通り、右は劇場のような建物と左側
の石つくりの建物の間の狭くて細い路地を入ったところに
そのレストランはあった。

                今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P26

2005年07月20日 00時32分03秒 | Weblog

写真は壁面世界地図でコロンブスがアメリカ大陸発見後、
サンタマリア号の帰港地、ポルトガルのリスボア
(リスボンのポルトガル語)付近を示す壁面地図である。

結構、見学者は真剣に当時に思いを馳せて見守っていた。

余談であるが、日本人がマドリードを観光する時はほ
とんどこの公園には寄らないが、北南米から来る観光客
にとってはプラド美術館と並ぶ観光ポイントになってい
るようで、たくさんの観光客がここで次々とバスを降り
てくるのです。
                    今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P25

2005年07月19日 06時36分16秒 | Weblog

 写真は、壁面にコロンブスがアメリカ大陸発見の航路
を示し、到着したメキシコ湾のキューバ付近を中心にし
た地図を表示したものである。

 ところで、コロンブスがアメリカ大陸発見の航路を調
べてみると、おおよそ次のようである。
 
 コロンブスは、1492年8月3日早朝、スペイン・アンダル
シアの港町パロスを旗艦サンタマリア号ほか三隻で出航し
た。
  
 そして、復路も同じ大西洋を使って帰港地はポルトガ
ルの首都リスボン(ポルトガル語ではリスボアと呼ぶ)
であったようだ。

 さて、コロンブスがアメリカ大陸発見のときに使ってい
たこの船の名前、サンタマリア号であるが、実物の2倍の
大きさで復元された観光船が海遊館(かいゆうかん)のと
ころで乗船できるのをご存知でしょうか。
                                  
 海遊館というのは、大阪湾にあってかなり大きな水族館
である。 私は2度行ってきました。
 
 まだ、その観光船、サンタマリア号には乗船していませ
ん。

 コロンブスが使ったサンタマリア号は、当時としてはか
なり大型の軍船で、カラック船と呼ばれ甲板の両側には大
砲も並べられていたようである。

 航海中苦闘の物語は皆さんも御存知だし、不必要だから、
省略します。

                    今日はここまで…。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P24

2005年07月18日 00時02分38秒 | Weblog

 写真は、コロン広場にある人工の滝風景である。

 コロン広場の西側には広場の地下に入れるように
なっていてそこには劇場もある。

 写真中央右側の人工の滝は、上から水が滝のよう
に落ちてきて涼しい雰囲気をかもしだしている。

 夜にはライトアップされてとても綺麗だという。

「Jimmy の旅行放談は、今度は何処へゆくのだろうか?」 P23

2005年07月17日 00時24分28秒 | Weblog

  写真は、コロン広場である。
 この広場は、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのを
記念して建設されたものである。塔の上には白いコロンブ
スの像が見える。

 今日は、イタリア人(ジェノバ出身)のコロンブスが何
故この他国であるスペインのマドリードに彼のモニュメント
が建立されているのか、少々考察をしてみたい。

 先ず、コロンブス(1446年?-1506年5月20日)は、イタリア
のジェノバ出身の探検家・航海者・商人・ヨーロッパ人
(キリスト教徒、大航海時代として初)として初めてアメリカ
州海域へ到達した。彼は死ぬまでたどり着いた場所をアジア
だと信じて疑わなかった、という。

 今のところ、コロンブスの前半生は明らかでないが、1478年
からポルトガル海図作成に従事、フィレンツェの天文学者
トスカリネリに影響され、東方航路は大西洋を西航することで
可能であると主張、スペイン女王イザベラの援助とあいまって、
実現に移されたようである。

 ただ、問題の核心はこれからである。それはコロンブスが
ユダヤ人であったという説があるのである。そのことが、かの
ユダヤ追放令とコロンブスの航海の関連の根拠だと、いう研究
者がいた。私もこの意見に大いに関心を持つ一人である。
 
 コロンブスは探検家である。彼は大西洋横断によるインドへ
の航海計画を持っていたが、資金には困窮していた。丁度その
時、東方貿易の新航路を求めていたスペイン女王イザベラが
コロンブスへ多額の援助をしたこととあいまって、その実現に
移された訳である。

 それにしても、その実現の根底にはユダヤ追放の波が探検家、
コロンブスの心を強く動かしたものと私は思うのですが、皆さ
んはどうお考えでしょうか。

 古今東西を問わず、私たちの身の周りには宗教というものが
根深く大きな影響をもたらしているものだなと感ずる今日この
頃です。

               今日は、ここまで…。