引き続き、奥州市江刺から。
この豊田館跡は、藤原三代の初代清衡公が平泉に移り住む前の館です。
また、この館跡から車で数分のところに五位塚遺跡というところがありました。
こっちは、清衡公の父親である藤原経清(つねきよ)公の墓所です。
藤原経清公は、前九年の役で、衣川の安倍氏とともに、
厨川の柵(盛岡市)で壮絶な最期を遂げています。
歴史にあまり詳しいわけではありませんが、
平泉文化は、自分たちの土地を守り、その地で暮らす人々の幸せを求め、
ひたすらに、平和な極楽浄土を目指した文化だと思います。
そうした考え方は、何となく、宮沢賢治のイーハトーブにもつながっているような気がしました。
そんなことを考えると、この五位塚遺跡から望む江刺の田園風景が、とても豊かなものに映りました。
でも、確かにそういう案内を読むと、また、その街が違って見える気はします。
興味あるので立ち寄りました。
経清は白符を使った事をとがめられて、のこぎり引きされたそうです。
で、白符忌?とかいう行事が中尊寺にありますっけ(確か盆前後)。
不確かですいません。
ではでは。
藤原経清は、もともと朝廷の官吏だったにもかかわらず、妻が安倍氏の娘でもあり、途中から安倍氏の方について戦ったんですよね。