最近ようやっとこの「能動的弛緩」というテクニックをアーサナにおいて使うことができるようになってきた。
ヨガ経験者ならご存知の、シャバアーサナで意識的に筋肉の緊張をほどくあのテクニックだが、これを立位や座位などのアーサナに応用することに関しては頭で分かっているほど実践できてはいなかった。
アーサナを深めようとすると私たちは知らず知らずのうちに力んでいることが多い。とりわけヨガを始めたばかりのうちは「もっと前に曲げたい」「もっと伸ばしたい」などと考えてしまいがちなので、眉間にシワを寄せていたり歯を食いしばっていたるする初心者さんをよく見かける。たいていは表情だけでなく、全身の筋肉をピンと張りつめたような様子になっていて、そして何より肝心な呼吸が浅くなっているので見ているこちらも思わず肩に力が入りそうになる。
私たちはクラスに通い続けているうちに、眉間をリラックスさせ、穏やかな表情で、呼吸に集中してアーサナに取り組むことを徐々に心がけることができるようになるのだけれど、相変わらず頑張り過ぎている筋肉があるのは否めない。とりわけ普段からがんばり屋さんだったり、負けず嫌いの傾向が強い人はほとんど自動的にそうなってしまうようだ。
でも、私たちの体というのは当然ながら力をいれるばかりでは曲がったり伸びたりはしてくれない。もちろん力任せにある程度までは曲げたり伸ばしたりすることはできるけれど、それでは筋肉や関節を痛めかねない。言うまでもなく、それは私たちの望むところではない。
例えば前屈で「体がカタいからここまでしか曲がらない」というのはある。あるのだけど、ちょっとしたことで「その先」を体験できる。その「ちょっとしたこと」というのが能動的弛緩のテクニックである。「意識的に筋肉を緩める」といえば伝わるだろうか。
前屈では主にハムストリングの柔軟性が問われる。でも、ハムストリングを征服するという考えでは限界がある。「よし、おまえをを伸ばしてやろう」という私たちの征服欲をハムストリングはよく知っている。そして、私の経験上、ハムストリングはどうやらそれに対して抵抗を覚えるものらしい。以前紹介した『アシュタンガ・ヨーガ 実践と探求』の中でグレゴール・メーレ氏も征服欲のためにハムストリングが短く収縮すると述べている。
なので、座位の前屈(パスチモッターナアーサナ)を例にした場合、私はハムストリングに対し意識的に「無の態度」で臨んでみることにしている。「意識的な無の態度」というのは矛盾しているかもしれないけれど、要するに「努めて何も期待しない」ということ。ハムストリングに蓄積されている不要な感情を吐く息と共にリリースするようなイメージで上体を丁寧に前方に伸ばしていくようにすると、わずかだがアーサナが深まる。それは日によっては4~5センチ、あるいはほんの数ミリ違いの世界だけど、このわずかな違いが実は大きな違いなのだと直感的に気づいたのはつい先日のこと。
私はそもそも体がカタい方なのだが、日々の生活の中でイライラすることがあったり心配事があったりすると覿面にハムストリングの硬直として現れてくる。日頃の心の持ちようがいかに身体に影響しているかを捉えるひとつの目安になっている。
このように、「能動的弛緩」を行うことでアーサナのもう一歩先へ行ける。先へ行くことで今度は身体が心の有り様を変える。「もうこれで精一杯」というところで敢えて筋肉を緩めてみる。たったそれだけのことなのに、違いはほんの数ミリであっても、そこには精神的な余裕が生まれる。一歩下がって冷静に自分を見つめられるようになっている。
私の場合だけれども、このことによって自分にとって必要のない感情が手に負えなくなる前の段階で手放せるようになった。たまにうまくいかないこともあるにせよ、それは人との関わり合いの中でとても役に立っている。
ここまでアーサナを例に書いてきたけれども、実は実生活においても私たちは心に対して「能動的弛緩」のアイデアを活かすことができる。
仕事、勉強、家事、育児などの場面で常に頑張り過ぎている人は少なくない。「息抜きをすること=怠惰」のような考えが無意識に根付いてしまっているのか、常に自分を緊張状態に置いているという真面目な人はわりと身近にいるだろう。たまに緊張を解いて息抜きをしても、別にその人の誠実さや実績を損なうことにはならないし、何かに行き詰まった時にしなやかに対処できる応用力を養ってくれるかもしれないのになぁ、とのんきな私は考えているがどうだろう。
アーサナでも実生活でも、どのタイミングでどの部分を緩めれば効果的かは日々の試行錯誤の中で見出せるだろう。
但し、「ここ一番の踏ん張りどころ」でうっかり緩んでしまわないことも大切です。(笑)
ナマステ&シャローム
Nozomi
ヨガ経験者ならご存知の、シャバアーサナで意識的に筋肉の緊張をほどくあのテクニックだが、これを立位や座位などのアーサナに応用することに関しては頭で分かっているほど実践できてはいなかった。
アーサナを深めようとすると私たちは知らず知らずのうちに力んでいることが多い。とりわけヨガを始めたばかりのうちは「もっと前に曲げたい」「もっと伸ばしたい」などと考えてしまいがちなので、眉間にシワを寄せていたり歯を食いしばっていたるする初心者さんをよく見かける。たいていは表情だけでなく、全身の筋肉をピンと張りつめたような様子になっていて、そして何より肝心な呼吸が浅くなっているので見ているこちらも思わず肩に力が入りそうになる。
私たちはクラスに通い続けているうちに、眉間をリラックスさせ、穏やかな表情で、呼吸に集中してアーサナに取り組むことを徐々に心がけることができるようになるのだけれど、相変わらず頑張り過ぎている筋肉があるのは否めない。とりわけ普段からがんばり屋さんだったり、負けず嫌いの傾向が強い人はほとんど自動的にそうなってしまうようだ。
でも、私たちの体というのは当然ながら力をいれるばかりでは曲がったり伸びたりはしてくれない。もちろん力任せにある程度までは曲げたり伸ばしたりすることはできるけれど、それでは筋肉や関節を痛めかねない。言うまでもなく、それは私たちの望むところではない。
例えば前屈で「体がカタいからここまでしか曲がらない」というのはある。あるのだけど、ちょっとしたことで「その先」を体験できる。その「ちょっとしたこと」というのが能動的弛緩のテクニックである。「意識的に筋肉を緩める」といえば伝わるだろうか。
前屈では主にハムストリングの柔軟性が問われる。でも、ハムストリングを征服するという考えでは限界がある。「よし、おまえをを伸ばしてやろう」という私たちの征服欲をハムストリングはよく知っている。そして、私の経験上、ハムストリングはどうやらそれに対して抵抗を覚えるものらしい。以前紹介した『アシュタンガ・ヨーガ 実践と探求』の中でグレゴール・メーレ氏も征服欲のためにハムストリングが短く収縮すると述べている。
なので、座位の前屈(パスチモッターナアーサナ)を例にした場合、私はハムストリングに対し意識的に「無の態度」で臨んでみることにしている。「意識的な無の態度」というのは矛盾しているかもしれないけれど、要するに「努めて何も期待しない」ということ。ハムストリングに蓄積されている不要な感情を吐く息と共にリリースするようなイメージで上体を丁寧に前方に伸ばしていくようにすると、わずかだがアーサナが深まる。それは日によっては4~5センチ、あるいはほんの数ミリ違いの世界だけど、このわずかな違いが実は大きな違いなのだと直感的に気づいたのはつい先日のこと。
私はそもそも体がカタい方なのだが、日々の生活の中でイライラすることがあったり心配事があったりすると覿面にハムストリングの硬直として現れてくる。日頃の心の持ちようがいかに身体に影響しているかを捉えるひとつの目安になっている。
このように、「能動的弛緩」を行うことでアーサナのもう一歩先へ行ける。先へ行くことで今度は身体が心の有り様を変える。「もうこれで精一杯」というところで敢えて筋肉を緩めてみる。たったそれだけのことなのに、違いはほんの数ミリであっても、そこには精神的な余裕が生まれる。一歩下がって冷静に自分を見つめられるようになっている。
私の場合だけれども、このことによって自分にとって必要のない感情が手に負えなくなる前の段階で手放せるようになった。たまにうまくいかないこともあるにせよ、それは人との関わり合いの中でとても役に立っている。
ここまでアーサナを例に書いてきたけれども、実は実生活においても私たちは心に対して「能動的弛緩」のアイデアを活かすことができる。
仕事、勉強、家事、育児などの場面で常に頑張り過ぎている人は少なくない。「息抜きをすること=怠惰」のような考えが無意識に根付いてしまっているのか、常に自分を緊張状態に置いているという真面目な人はわりと身近にいるだろう。たまに緊張を解いて息抜きをしても、別にその人の誠実さや実績を損なうことにはならないし、何かに行き詰まった時にしなやかに対処できる応用力を養ってくれるかもしれないのになぁ、とのんきな私は考えているがどうだろう。
アーサナでも実生活でも、どのタイミングでどの部分を緩めれば効果的かは日々の試行錯誤の中で見出せるだろう。
但し、「ここ一番の踏ん張りどころ」でうっかり緩んでしまわないことも大切です。(笑)
ナマステ&シャローム
Nozomi
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます