ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

目的格が欠けている「待つ」とは、希望である

2008-12-18 20:02:53 | ときのまにまに
12月12日付のブログで、ベケットの戯曲『「ゴドーを待ちながら』が提起している問題の結びとして、「目的格のない『待つ』は成り立つのか」ということを考えた。その際、「何かを」待つのではない、ただ「待つ」という在り方、目的格のない待ち方が成り立つのかどうかという瀬戸際に、キリスト教信仰は立っている。言い替えると目的格が限りなく虚無に近づいてもなお「待つ」という姿勢を続けているところに現代のキリスト教信仰は立っている。具体的に言うと、再臨信仰の内容が限りなく無意味化している状況において、なおキリスト教信仰は有意義であるのか、という問題である。 . . . 本文を読む