ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/02/26~03/04

2017-03-04 13:21:10 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/02/26~03/04

2017 日々の聖句 2月26日(日)
あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。(ネヘミヤ9:6)

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ1:4)

私の黙想:
「万物に命を与える」となると、反射的に、「その命とは何か」と問い返したくなる。「万物を生かす」と「万物に命を与える」とは違うであろう。この違いが分からないようでは話ならない。
口語訳では「(万物を)保たれる」であり、その他の訳は「生かす」である。「生かす」とはその存在が、存在理由を十分に発揮しているという状態である。死んでいたようなオルガンが修繕されて「生きた」というような状況を意味している。
神は万物を、その中には人間も含まれる、私も含まれる、を生かす方だ。万物は神によって生かされる。だから、万物は神によって造られたことを感謝し、伏し拝み、賛美する。そこには「罪」とか「懺悔」が入ってくる余地はない。
今週水曜日から大斎節が始まる。大斎節の黙想とは何か。「罪の懺悔」ではない。造られた、その目的に適う生活を送っているのかどうかを吟味する時である。一寸、足を止めて、この方向で間違いないか、ナビゲーターを見る期間である。もし、違っていたら方向転換し、修正する期間である。問題は、私は何のために作られたのか、何のために生きているのか、である。

2017 日々の聖句 2月27日(月)
主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。(詩33:4)

イエスの言葉:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

私の黙想:
そりゃそうだ。全ての考え、思想、論理の正しさの基準は「主の言葉」にあり、すべての出来事の真実は神の行為に基づく。そこがふらふらしたら、世界から正しさも、真実も失われる。問題は、それを言う人間の問題だ。誰かが「主も御言葉は正しく」と言った場合、その正しさはその人が考える基準に基づいている。それを正しいと保証する根拠はない。歴史の真実とは、今の人間が過去を振り返って決めていることに過ぎない。そこには過去も現在も含めて過ちがある。だから人間には「正典」が必要なのだ。正典がないとき、正しさを保証する根拠を失う。例えば、季語という言葉がある。季語はある意味で俳句の正しさの基準を示す。ところが、ある特定の語句が季語であるのか、ないのかを決める基準が明確でない。結局、過去の権威によるしかない。だから、誰かがこれは季語であるという場合、その正しさは膨大な『季語大辞典』のようなものに依存するしかない。

2017 日々の聖句 2月28日(火)
主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。(詩33:22)

イエスの言葉:あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)

私の黙想:
今日の聖句、ごくふつうの聖句。手紙の最後に記す祝祷のような文章だ。こういうのは、黙想する手がかりがつかめにくい。ただ、口語訳で面白い語句が現れている。「あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください」、この「たれて」、文語訳では「垂れたまえ」で、上から下に雨水が垂れている様子を示すことが用いられている。日本語の他の字では「滴る(したたる)」ということか。ザーッとシャワーのように勢いよく流れてくるのではない。ただ、「上にある」のではない。フランシスコ会訳では平凡に「下る」と訳されている。ペンテコステの日の出来事を、新共同訳はサブタイトルに「聖霊が降る」と書いている。この部分、本文には「降る」などという言葉は使われていないが、いかにも「降る」がふさわしい出来事である。しかし、ここはそういう激しい下り方ではない。まさに「垂れる」ことを願っている。静かに夜露が降りかかるように、その自覚がないのに、いつの間にか濡れている。ヘブル語原文でどうなっているのは、分からないが。

2017 日々の聖句 3月1日(水)
主はモーセに言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブル11:1~2)

私の黙想:
今日の聖句、これも原則はそうであるが、例外も結構あるようだ(創世記32:31、他)。存在するのに見えない、言葉を聞いているのに語り手が見えない。近代的に言うと、主観と客観との関係。主観的には見ているし、聞いているのに、客体が見えない。感じているのに、客体がない。これが聖書で言う「霊感」である。近代哲学は、これを否定した。否定しきれないものとして「物自体」を想定したのはカントである。従って、カント以後の認識論は霊感説に立っている。

2017 日々の聖句 3月2日(木)
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。(詩42:3)

”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。(ロマ8:23~24)

私の黙想:
当時の人々、パウロでさえ、「神のみ顔を仰ぐ」、「神の子とされる」、そんなことが現実になると思っていたのだろうか。「神の顔を見たら死ぬ」という文化の中で。そんなに「神の顔」を見たかったのだろうか。
今朝は思いっきり、関係のないことを思い起こす。私がまだ国民学校の児童の頃(当時は児童は「少国民」と呼び、小学校を「国民学校」と称していた。その当時の「国民」という意味は、天皇の国の民という意味であった)。各国民学校には「何とか殿」というのがあり、そこには天皇陛下の写真が安置されていた。そして祝日には(休日ではない)、全児童、教師が学校に集まり式典が執行された.その時、校長以下何人かの教師が、その「何とか殿」に恭しい足取りで向かい、天皇の写真、(当時それを「御真影」と呼んでいたと思う)を捧げ持って講堂まで運び、正面の幕の中に納める。式典長が「何とか」と叫ぶと、全員は最敬礼する。そして校長が恭しく幕を開け、御真影を拝し、幕を閉じる。その間、絶対に顔を上げてはならないと教えられていた。顔を上げて天皇の写真を見たら「死ぬ」と教えられていた。まぁ、そんな調子であった。一度は、正々堂々と顔を上げて天皇の顔を見たいものだと思った、というのは嘘である。子供であった私たちはこそこそと隠れて写真を覗き見ていたが、死ななかった。当時、天皇は神だった。天皇の家族のくつろいだ映像がテレビで見ることができるのは、ある意味で幸せなことである。今朝、なんの文脈もなしに、何故天皇は靖国参拝をなさらないのか。それなのに、天皇の「臣民」である、総理大臣が、天皇を差し置いて、靖国参拝をするのだろうか、何ということを考えていた。あそこには「天皇陛下、万歳」と言って死んだ人たちの「霊」が祭られているというのに。

2017 日々の聖句 3月3日(金)
ソロモンの祈り:あなたは(その僕)、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。(列王記上8:24)

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。(1ペトロ2:3)

私の黙想:
神殿落成の感謝の祈り。ここでソロモンが「わたしの父ダビデになさった約束」という約束の内容は、神殿完成ではない。むしろ、あの時、ヤハウェはダビデの神殿建造の願いを拒否されたのである。しかしダビデは拒否された神殿建造の計画を進め、建造作業そのものはしなかったものの、そのための資材と計画そのものは推し進め、その全てを後継者ソロモンに委ねたのである。ただ、ヤハウェがダビデに約束したことは神殿建造ではなく「ダビデ王国」の確立である。このほんの一寸したずれが面白い。ヤハウェの「思い」と人間の「思い」との微妙なずれ、このずれがその後の歴史を方向づける。ダビデ・ソロモンにおいては神殿建造がダビデ王国の確立を意味していた。そして、それはその通りであった。しかし、それは神殿の崩壊がダビデ王国の崩壊そのものとなる。しかしダビデ王国の真の確立は神殿の崩壊によって始まった。福音書が語る「神の国」は先ず神殿崩壊の予告から始まった。

2017 日々の聖句 3月4日(土)
主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留め(てください。)御救いによってわたしに報いてください。(詩106:4)

パウロの手紙:わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:16)

私の黙想:
今朝はかなり出遅れたので、その特権を生かして、門叶さんが参照していない岩波訳を紹介しておく。なかなか面白いです。「私を思い起こして下さい、ヤハウェ、あなたの民への恩顧をもって。私を心にかけて下さい。あなたの救いをもって」。これなら、「民(複数)」と「私(単数)」との関係が不自然でなくなり、落ち着きます。民全体への「恩顧」という基本的な関係に基づいて、私という個人へのご配慮を、よろしく」。神とキリストとの特別な親密性により、私というキリストを信じている私にもお恵みをください」。

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