ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降誕日(2017.12.25)

2017-12-23 06:27:11 | 説教
断想:降誕日(2017.12.25)

真の光 ヨハネ1:1~14

<テキスト、私訳>
序詞「ロゴス讃歌」<1:1~5、9~10a、14a>

  始めに ロゴスがあった
  神の  ロゴスであった
  ロゴスは 神であった

  神のロゴスが 始まり
  神のロゴスにより 万物は生成されたる
  神のロゴスが 万物の根源である

  ロゴスは 生命である
  生命は  人の光
  光は   闇の中で輝き 
  闇は   光に勝てない

  真の光が ある
  真の光は すべての人を照らす

  真の光が 人の世に来た
  真の光が 人の世にある
  世界は 光によって生成された

  ロゴスが 人となった
  ロゴスが 人間と共に生きている
  私たちは その栄光を見た

著者による挿入:1:6~8
ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです。

編集者による挿入:1:10b~13


<以上>


1.「言葉」「真の光」
ヨハネ福音書は、先ず何を語るよりも先に、「初めにロゴス(言葉)があった」と宣言する。そのことについて、何の説明も、根拠付けもなく、ただ「初めにロゴスがあった」と宣言する。そして、全てのことは、このロゴスに始まり、このロゴスに依存して存在する、という。
全く同じように、ヨハネ福音書は、クリスマス物語を「真の光が あった 真の光は すべての人を照らす」という宣言で始める。クリスマスの物語とは、全ての人を照らす真の光についての出来事であり、この光こそが「本当の光」なのであって、私たちが普通「光」と言っているものは、むしろこの「本当の光」を指し示すための説明に過ぎず、また「この光」こそ、初めに宣言されたかの「ロゴスそのもの」であり、そのロゴスが人となり、「ロゴスが、人間と共に生きている」、そして「私たちはその栄光を見た」というのがヨハネ福音書の宣言である。
クリスマスとは、ヨハネがいう「本当の光」を迎え、出会い、私たち自身が光に変えられるための「お祭り」なのです。

2.光の本質
「光とは何か」、私たちが普通考えている「光」とは、光ではないのか。私たちは、光について知っているのか。「光とは一体何なのか」。よく考えてみると、私たちは光に囲まれ、光によって生活しているが、光そのものを見たことがない。私たちは光に照らし出されている光以外のものを光によって見ている。もしも、ここに光以外の何物もなかったら、私たちはここに光があるということを、知ったり、見たりすることができるのか。
聖書によると、「神は『光あれ』と言われた、すると光があった」というところから、天地創造が始まった、とされる。考えてみると、この言葉は意味深長である。ここでは、暗闇でさえ、光から創り出されている。光とは他の全ての存在と並ぶ一つの存在なのではなく、全ての創造物が光を元にして創り出されたのである。光によって、全ての被造物が存在へと呼び出される。光によって、山は山となり、海は海となり、木は木となり、花は花となり、人は人となる。光の中で、私たちは光を見るのではなく、山を見、海を見、木を見、花を見、あなたを見る。光の中で、私たちは光自体を意識せず、あなたを識別し、自分自身を意識する。

3.古代人の「光体験」
この様な光の理解の背景には古代人の「光体験」あるいは「暗闇の体験」が反映しているように思われる。彼らにとって暗闇とは恐ろしい世界であり、何もかもを呑込む死の世界であり、魑魅魍魎の世界である。昼間あれほど明るくさえずり、私たちの心を慰める小鳥たちも、暗闇の中では、死の使いのようにただ不気味にガサガサと羽根を鳴らし、山の獣も闇の中では悪魔の使いのように目を光らせて、私たちを不安の世界に誘い込もうとしている。山も川も、木も花も、暗闇に呑込まれ、今は存在しないかのようである。
しかし、朝、朝日が昇る前、あたりはだんだんと明るくなるにつれて、全ての存在は暗闇の世界から解放されて、生命を取り戻す。光によって、山は山となり、海は海となり、木は木となり、花は花となり、人は人となる。光の中で、私たちは光を見るのではなく、山を見、海を見、木を見、花を見、あなたを見る。光の中で、私たちは光自体を意識せず、あなたを識別し、自分自身を意識する。

4.現代人の知恵と無知
ところが、人間は人間の知恵により、光を支配しようして、人間が自由に出来る光を作り出した。人間は人間が作り出した光によって、暗闇を支配し、自己の醜さを隠すことが出来るようになった。否、出来るようになったと思っている。
ヨハネは恐ろしいことを言う。
 「真の光はすべての人を照らす」(ヨハネ1:9) 。
 「光がこの世に来たのに、人間たちは光よりもむしろ闇が好きなんです。というのはその人間たちのやっていることが悪いので、暗い方が都合がいいんでしょうね。つまり、悪いことをやっている連中は、光が嫌いで、光のあるところには近寄ろうとしないものなんです。なぜなら明るいところに来たら自分たちのやっていることが全部暴露され糾弾されるからです。でも、真埋を実践している人たちは光のところに来ます。なぜなら自分のやっていることが神の意志に基づいているということに確信があるからです」(原本ヨハネ福音書3:9~21)。
しかし、真実のあなたに出会い、あなたの実態を白日の元にさらす「本当の光」がある。
 聖書は恐ろしい書である。光などという客観的な事柄を語っていると思うと、いきなり私たちの内面に触れる様なことをグサット語る。しかもそれが私たちの真実にピタット当てはまるから恐ろしい。私たちは、真の光が来ることを待っているのだろうか。私たちは、本当に私たちの心の本当の姿が照らし出されることを喜んでいるのだろうか。むしろ、私たちが心の中で考え、願い、期待していることが、隠され、人々の目には見えないということで安心しているのではないか。
クリスマスを迎えるとき、実は私たちは、私たち自身のあからさまなる姿と向かい合うのである。クリスマスとは、単に未だ幼かったときの自分の、純真であった自分の姿の思い出にふけり、今の自分に目を塞ぐときではない。むしろ、現実の自分、現在の私、在るがままの自己の姿を省み、真実の光に照らされて、本当の自分を取り戻す時なのである。

ロゴスが 人となった
  ロゴスが 人間と共に生きている
    私たちは その栄光を見た

最新の画像もっと見る