ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第18主日(特定20)(2018.9.23)

2018-10-01 17:08:24 | 説教
断想:聖霊降臨後第18主日(特定20)(2018.9.23)

沈黙   マルコ9:30~37

<テキスト、超々訳>
◆死と復活についての第2回目の予告(9:30~32)
イエス一行はその場を離れガリラ方面に行かれました。しかし、イエスは人に気付かれるのを避けようとされました。それは弟子たちに、「私は人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
◆いちばん偉い者(9:33~37)
そして一行はカファルナウムに戻り、家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのですか」とお尋ねになりました。彼らは黙っていました。途中で彼らの中では誰がいちばん偉いかと議論し合っていたからでした。
イエスが座り12人を呼び寄せて言われました。「いちばん先頭に立ちたい人は、すべての人の最後尾につきなさい。そしてすべての人に仕える者になりなさい」。そして、1人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「私の名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、私を受け入れることになるのだ。私を受け入れる者は、私ではなくて、実は私をお遣わしになった方を受け入れることになるのです」。

<以上>

1. 「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」(30)
今回の旅はいつもの軽やかで楽しい旅と少し違う。出発点はフィリポ・カイザリア近くの北部山岳地帯(8:27)、目的地はエルサレムである。イエスはエルサレムで「私は人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」(31)という。弟子たちにはこのイエスの決断というか、計画というか、目的がよく理解できなかったらしい。この少し前に弟子を代表してペトロがそういうイエスをとどめようとした。するとイエスは非常に厳しい声で、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)と怒鳴られた。従って、この旅は非常に重苦しい雰囲気に支配されていた。いうならば、弟子たちはわざわざ殺されるためにエルサレムへ向かうイエスの真意が理解できないでいた。しかし、それを勇気を出してその疑問を「怖くて尋ねられなかった」(32)という。
フィリポ・カイザリアからガリラヤ湖までの旅程は、直線距離にして約60キロ、当時の交通事情を考慮すると少なくとも1泊2日か、2泊3日の旅であったと推測される。彼らには旅館に泊まるほどの経済力ないので、当然野宿の旅であったはずである。この2~3日弟子たちはイエスと口をきかなかったことになる。しかも、この旅行は人目を避けての、いわば隠密旅行であった(9:30)とマルコは説明する。その理由はハッキリしない。イエスは弟子たちに考える時間を与えたのであろう。おそらくイエスは弟子たちの先頭を歩き、弟子たちはイエスからかなり離れてぞろぞろと歩いていたに違いない。そして弟子たちはイエスに聞こえないように何かボソボソと話しあっている。イエスを見捨てて逃げ出す相談でもしているのだろうか。
多くの弟子たちがイエスに躓き離れていったときに、イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と言われ、12人の弟子を代表してペトロが「先生あなたから別れて、誰の所に行くというんでしょうか。あなたは生命についての言葉を持っておられますし、私たちはあなたが神の聖者であるということを信じてきましたし、またそう確信しています(ヨハネ6:68~69)と答えたというのは、ヨハネ福音書の記事で、マルコはそういうことを記録はしていないが、実はこの場面こそ、そういう状況である。イエスに従うということは、常にイエスから離れるという危機を含んでいる。

2. カファルナウムにて
彼らがカファルナウムに着いたとき、2、3日続いた重苦しい沈黙を破ったのはイエスであった。イエスの方から弟子たちに口を開いた。イエスが開いたのは口だけではない。心も開いた。イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」(33)と尋ねている。マタイ福音書(18:1~5)にもルカ福音書(9:46~48)にも、イエスのこの言葉は見られない。まさにこの言葉には弟子たちに対するイエスの愛が感じられる。言葉をかけるということは、言葉の内容が問題なのではなく、口を開くということが重要である。弟子たちは旅の間中イエスから一定の距離を持って、ひそひそと話し合っていた。いわばイエスに対する内緒話である。イエスは弟子たちの内緒話に興味を持っているのではない。どうせ、ろくな会話ではない。案の定、弟子たちは、まともに正面から話しの内容を聞かれて返事ができなかった。返事ができるような話の内容ではなかった。「誰がいちばん偉いか」などという自分たちでも、考えてみると恥ずかしい内容であった。彼らの沈黙を見て、イエスは大体のことはのみ込めたのであろう。

3. 「彼らは黙っていた」
この旅の間中、彼らの考えるべきテーマはイエスの受難ということであった、はずである。この受難ということと「誰がいちばん偉いか」という議論とはどういう関係にあるのだろうか。実は、ここに深いつながりがあったと思う。マルコがそのことを意識して、これら2つの記事を並べたのであろう。
問題の根拠は弟子たちがイエスの受難ということについてしっかりと理解していなかったということである。怖くて尋ねられなかったテーマである。問題不消化のまま、彼らは彼らなりに一つの「理解」を持った。つまりイエスの受難予告は、文字通り死ぬことではなくて「死ぬ覚悟で」という意味に理解する。イエスは今、死ぬ覚悟でエルサレムに向かう。エルサレムにおいて何が起こるのか。このことについて、マルコは当時の弟子の気持ちを代表させてゼベダイの子ヤコブとヨハネの言葉として「栄光をお受けになるとき」(10:27)という言葉を記録している。つまり、弟子たちはイエスはエルサレムにおいて「栄光を受ける」と思っていたようである。しかし、それを本当に手に入れるためには「命をかける」ほどの困難があるだろう。従ってイエスは「栄光か、死か」という大きな賭に出ておられる。そう考えた上で、弟子たちはイエスに賭けていた。「誰がいちばん偉いか」という議論の土台はここにある。イエスにはそれが見えていた。

4. 「いちばん先頭に立ちたい人は、・・・・」
そこで「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」。この言葉の中に、その時の雰囲気やイエスの気持ちが美事に表現されている。まずイエスが座る。おそらく地面に、あぐらでもかいたのだろう。そして、弟子たちにも座るように勧める。弟子たちはイエスを囲むように車座になったことだろう。この情景には一種の親しい雰囲気がある。いきなり、「いちばん先頭に立ちたい人は・・・・」などと話し始めたとは思われない。おそらく、いろいろ世間話がなされたことだろう。そして、結びの言葉としてイエスが語られた言葉が、「いちばん先頭に立ちたい人は、すべての人の最後尾につきなさい。そしてすべての人に仕える者になりなさい」であったと思われる。
この「いちばん先頭に立ちたい人は、すべての人の最後尾につきなさい」という格言そのものは、福音書の中でもここ以外に4個所見られる。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ19:30、マルコ10:31)。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16、ぶどう園の労働者のたとえ)。「後の者で先になる者あり、先の人で後になる者もある」(ルカ13:30)など。表現は多少変化が見られるが、類似した格言が異なった文脈において用いられている。いずれの場合も、「仕える者になりなさい」という言葉がないので、おそらくこの格言に「仕える者になりなさい」という言葉を結びつけたのは、イエス自身かあるいは編集者マルコであろうと思われる。
「先の者が後になり、後の者が先になる」という格言ならば、「下がれば上がる」とか、「押して駄目なら、引いてみよ」とか、その他いろいろないわゆる通俗的な人生訓であり、人生のいろいろな場面で多様な意味を付加して用いることができる。ところが、その最後に「仕える者になりなさい」という言葉が付加されることによって、この格言は自由な格言からイエスの生き方を示す言葉となり、弟子としての心得を語るメッセージとなる。この「仕える者」とは文字通りには「奴隷」という意味であり、その対極にある「先の者」とは支配者である。「あなたたちは決して支配者になってはいけない。むしろ奴隷となれ」。これがイエスのメッセージである。
弟子たちは、イエスがエルサレムに行くということは時の権力者・支配者を滅ぼし、支配・被支配の関係を覆すために行くのだと思いこんでいる。つまり今は権力者たちから見れば奴隷のような存在であるが、その時には支配者になる。権力闘争とか、革命というものの本質は支配者と被支配者との交代にすぎない。「先の者が後になり、後の者が先になる」という言葉に、「仕える者になりなさい」という言葉がなければ、この格言はそういう風に理解できる。たとえばマルコ10:43「あなたがたの中で偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」という言葉などはそういう誤解を生む可能性が大いにある。しかし、ここでイエスが語っていることはトップになるためにビリになれと教えているのではない。むしろ、ここでの重要点は支配する者には絶対なるな、ということであり、メッセージの中心は支配・被支配の構造そのものの否定ということである。もし、現実の世界において、どうしても支配・被支配の構造に組み入れられるような状況になるならば、いかなる体制にあろうとも常に「支配する者」になるよりは、むしろ「支配される者になれ」というのがイエスのメッセージである。

5. 子どもの手を取って
ここに突然、子どもが登場するのはおかしい。ここで語られている文章も文脈上不自然である。おそらく別な場面でのイエスの行為をここでのメッセージを説明するために結びつけたものと思われる。私は今までこの場面でイエスが子どもを登場させることの意味が十分に理解できなかった。どうも、ちぐはぐな気がしていた。しかし、今回この場面を繰り返し読み、考えている内に、私が今までここに登場する子どものイメージが違っていたのではなかろうかということに気が付いた。
ここに登場する子どもというイメージは、現代日本の子どものように甘やかされ、わがままいっぱいに育てられている「可愛い子ども」のイメージではなさそうである。むしろ戦争や災害による難民の子ども、エイズにより深刻な差別状況におかれている子ども、その他社会のひずみをまともに身に受けて、生きるか死ぬかという線上にある子どものイメージでとらえなければならないのではなかろうか。つまり大人の世界における支配・被支配という構造をそのままに受け、民族的にも、経済的にも、完全に支配されている存在、大人の世界に完全に従属し、二重にも三重にも支配され、そのひずみをすべて身に受けているのが子どもたちである。戦争が起これば、命を失い、命以上に大切な家族や「心」を奪われる子どもの数は兵士たちよりも多い。それが現実である。
現代の豊かであるとされている日本においても、幼児虐待やいじめが深刻な問題になっているが、常に子どもは虐待の対象にされる存在である。殴られても殴り返すことができず、少しでも殴られる回数を減らすために、歯を食いしばって抵抗せず殴られる。右の頬を殴られたら、左の頬を自分の方から向ける。不条理な横暴に決して刃向かわず、抵抗もしない。それが虐待を受けている子どもの姿である。それが、ここで言う「後の者」であり、「仕える者」である。とすると、イエスがここで仕える者という言葉で表現しようとしているすべてが一人の子どもの姿の中に凝縮していることが明らかになる。イエスはそういう意味での「仕える者」になるためにエルサレムに向かう。虐待を受ける者になるために生き、虐待を受けて死ぬ。
イエスは支配される者と共に生き、死ぬ。これがイエスの凄さである。それは無駄であり、犬死ににすぎないと考えるのは常識である。その意味でイエスは常識を越えている。子どものようになること、子どもを受け入れ、子どもと関わり、子どもを護るということはそういうことなのではないか。イエスは徹底的にその道を進まれた。そのイエスを神は受け入れられた。

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