ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第19主日(特定21)(2018.9.30)

2018-10-02 13:58:57 | 説教
断想:聖霊降臨後第19主日(特定21)(2018.9.30)

最も大切なもの   マルコ9:38~48

<テキスト、超々訳>
◆逆らわない者は味方(9:38~41)
弟子のヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」。するとイエスは言われた。「やめさせる必要はない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えないでしょう。私たちに逆らわない人々は、私たちの味方なのです。はっきり言っておくきましょう。キリストの者という理由だけで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人にははっきり言っておくが、必ずその報いを受けることになります」。
◆罪への誘惑(9:42~50)
続けて言われました。「信じる者たちの中で最も小さな者を1人でも躓かせる人は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうであろう。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままでゲヘナに投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。<46>そして、もしもあなたの目があなたを躓かせるなら、それを投げ捨てなさい。片目で神の国に入る方が両目を持ってゲヘナに投げ込まれるよりましだろう。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。
(46節「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」は、底本に欠落。)

<以上>

1. やめさせようとしました。
イエスの弟子でもない者が、弟子のような顔をして「イエスの名」によって、説教したり病者を癒やしたり、悪霊を追い出ししているのを見て、イエスの弟子を代表してヨハネがイエスに言う。「言う」と言うより「言いつけた」。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38)。弟子たちのそのような態度を見てイエスは言う。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40)。ここでは、この弟子たちの言葉とイエスの言葉とが鋭く比較対照されている。
弟子たちにとって「イエスの名によって」ということは大変な名誉であり、特権であったと思われる。事実、彼らはイエスの名によって病を癒やし、悪霊を追い出し、イエスの名によって人々に説教をし、指導者として活動していた。この特権を手に入れるために彼らが犠牲にしたものも決して少なくない。そのことについて、弟子たちを代表してペトロは「「ご覧ください、私たちは一切を捨てて、あなたに従って参りました」(10:28)と言う。その通りであろう。だから、いい加減な連中が、いい加減な気持ちで「イエスの名」を用いて悪霊を追い出すというような行為をすることが許せなかったのだろう。 だからヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言うとき、意気揚々と、さぞ褒められると思ってイエスに報告したものと思われる。
ところが、イエスの反応は予想とかなり違った。「やめさせる必要はない」、とイエスは言う。この「やめさせる必要はない」という言葉は、むしろ「妨げてはならない」「邪魔をするな」という非常に強い言葉である。この言葉はイエスのもとに来ようとしている子どもを止めようとして弟子たちに「幼な子たちが私の所に来るのを邪魔しないように。神の国はこのような者たちの国なのです」(10:14)といわれた言葉と同じである。つまりイエスと民衆との間に入って民衆がイエスのもとに来ることを邪魔するな、という意味を含む。

2. イエスの考え方
このイエスの考え方を端的に示しているのが「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40)という言葉である。この言葉自体は、当時の社会において一般的に用いられていた格言であったのかも知れない。しかし、この言葉はイエスの考え方をもっとも明白に語っている。この言葉と対になっていると思われる言葉がマタイ福音書とルカ福音書に見られる。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタイ12:30、ルカ11:23)。マルコにとってはイエスの働きを妨げない者はすべて見方(=友)であるという理解に立ち、ヨハネもあるいは弟子たちは「わたしたちに協力しない者はすべて敵」という立場に立っている。マルコ自身はこのエピソードを語ることによって、もっと厳しく弟子たちこそイエスの働きを妨げている者であり、その意味ではイエスの敵であるとさえ思っているのかも知れない。

3. 原始教団において
ヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」と言う。このヨハネの言葉を原始教団の状況に置き直して読むと、いろいろなものが見えてくる。「イエスの名によって悪霊を追い出す」ということは、明らかに原始教団における出来事である。原始教団には「イエスの名」を唱えているが、「わたしたちに従わない者」が存在していた。つまり原始教団は必ずしも一枚看板ではなかった。
ペトロの流れを汲むいわば保守派やヨハネを中心とする「思弁派」、彼ら(イエスの弟子集団)から少しはずれたところにパウロを中心とする「国際派」など、いろいろな流れがあり、思想的にも多様であったということは今日では常識である。これらが主流派を形成していたと思われる。当然、これらの主流派の他にも「アポロ派」や、グノーシス哲学の影響を強く受けた派閥もあったことだろう。マルコなどはペトロの線を結ぶ線に立ち、つまり主流派に属しつつ、主流派に批判的な人物の代表者だったである。
ヨハネは「わたしたち」、「わたしたちに従う者たち」を強調する。この「わたしたち」とは明らかに主流派を意味し、「わたしたちに従わない者」は「わたしたちの敵」となる。わたしたちと敵とを区別するものがドグマ(教義)である。かくしてドグマはますます尖鋭化され、思弁化し、ドグマを共有する者とそれ以外の者との溝は深まり、正統派と異端とが生まれる。そこでは正統派も異端も共にセクトである。

4. 何が大切か
ここに一つの問題がある。弟子たちにとって何が一番大切なのかという問題である。一見すると、「イエスの名」を大切にしているように思われるが、果たして本当にそうなのか。弟子たちにとっては、「イエスの名」よりも「私たちに従うかどうか」、つまり「私たちのドグマ」がより重要なことになっていないだろうか。「イエスの名」をみだりに使うということを問題にしてるようで、実は「私たちのドグマ」のことの方がはるかに重要な問題になっていないだろうか。「私たちに従うならば」、たとえ「イエスの名」によって意味されている事柄が何であれ、OKである。「私たち」という枠の中に属しているか、どうか。属していなければ「敵」であり、属していれば味方である。ここに味方か敵かの大きな壁があり、その壁を支配しているのは「わたしたちのドグマ」であり、規律である。ここに教会という組織の権威が存在する。重要なものは「イエスの名」ではなく、「私たちの権威」である。〈現在のキリスト教界でも同じような議論がなされていることに注意〉
イエスはそういう弟子たちに対して、そんなものがそれ程重要なのか、と問う。本日のテキストにおいては、本当に重要なもの、身体の一部を切り捨てても守るべきものは何かということが語られている。「信じる者たちの中で最も小さな者を1人でも躓かせる人は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうであろう。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(42-43)。なんと厳しい言葉であろう。もし片手に問題があるのならば、その手を切り捨てろと言う。マルコはこの言葉と先の言葉とを並べることによって、明白な一つのメッセージを語る。つまり、あなたにとって決定的に重要なこととは何かなのか。あなたたちに従わない者が「イエスの名」を用いることはそれ程重要なことなのか。
イエスにとってもっとも大切なことは、「信じる者たちの中で最も小さな者を1人でも躓かせない」ということである。イエスの名によって実際に病気が癒やされたのか、悪霊が追い出されたのか、ということが重要なのである。もし癒やされていなければ、それはわざわざやめさせなくても自然になくなるだろう。しかし、もし本当に「イエスの名」によって癒しが繰り返されるならば、イエスの名はますます高められるだろう。それでいいではないか。イエスの名はすべての人に開かれている。洗礼を受けようと受けまいと、教会生活を続けようと離れようと、誰でもイエスの名によって祈ることは許されている。

5. 「信じる者たちの中で最も小さな者」(42)
42節の「信じる者たちの中で最も小さな者」という言葉は、二重の意味に用いられている。というよりも、本来用いられてきた意味を転用して用いている。この言葉は従来「弟子集団の中で最も小さな者」という意味で用いられてきた。つまり弟子集団の末端に属する者に対して、一杯の水を与えてくれた者に対して神は必ず報いてくださるという言葉である(41)。マタイ10:42などはそういう意味で用いている。従って、この言葉は本来は弟子集団あるいは「キリスト者」を意味する。しかしマルコはそれをここでは意識的に「信じる者」という意味に用いている。この信じる者とは弟子集団とかキリスト者という枠に縛られない広い意味である。ここではヨハネが批判し排除しようとして人々が「信じる者たちの中で最も小さな者」であり、彼らを躓かせているのが弟子たちを意味するという意味の逆転が起こっている。

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