ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第2主日の旧約聖書

2017-01-13 08:07:55 | 説教
断想:顕現後第2主日の旧約聖書(2017.01.15)
主の下僕として生きる  イザヤ 49:1~7

<テキスト>
1 島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置きわたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3 わたしに言われたあなたはわたしの僕、イスラエルあなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4 わたしは思ったわたしはいたずらに骨折りうつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせイスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主は
6 こう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせイスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
7 イスラエルを贖う聖なる神、主は人に侮られ、国々に忌むべき者とされ支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て。

1. 顕現後第2主日について
顕現後第2主日の主題は何だろうか。この日に読まれる福音書から考えると、A年はヨハネ1:29~41、B年は同じくヨハネ1:43~51、C年はこれも同じくヨハネ2:1~11で、3年ともヨハネ福音書が読まれている。それらを読むと一つのテーマが見えてくる。それは生のイエスが人々の前に姿を現し、その中で特に弟子たちと出会ったということが浮かび上がってくる。その出会いにおいて弟子たちはイエスの中に何らかの光を見る。おそらくイエスも彼らの中にの何かを見たに違いない。つまり人格的な出会いが起こった。
そのとき弟子たちはイエスの中に何を見たのだろうか。おそらく弟子たちにとってはそれはないかわからなかったであろう。出会いとはそんなものである。出会いとは偶然に、突然に起こる。その段階では福音書の描くイエスと弟子たちとの出会いもすべてが偶然であり、突然である。ところが、出会う前と出会った後とではその人の生活が全く変わってしまう。その段階では、相手がどういう人物であるのかわからない。にもかかわらず、出会ってしまったことを消し去ることができない。相手の真の姿はその後の関わり合いにおいて徐々に見えてくる。
今日の福音書を見ると最初の2人の弟子はそれまでの師、洗礼者ヨハネから「彼こそ神の小羊」だと告げられて、イエスについて行っている。しかも、それを確かめるために、イエスがどこに住んでいるのかを見に行く。そしてその晩イエスが住んでいる場所に泊まり込み、明くる日には弟子になり、「私たちはメシアに会った」と話しかけている。まぁ、おそらくそう断定できるようになるのはもっと後のことであろうが、少なくともそのように感じる何かを感じたのであろう。イエスの日常に触れてそう直感した。その直感の正体は何か。すべては謎のままだ。その何かが顕現後第2主日の主題である。そのことについて本日の旧約聖書の日課が何かを語っているのかもしれない。そういう予想を付けてイザヤ書49:1~7を読む。

2.イザヤ49:1~7
ここは先週の主日に読んだ第1の「主の下僕の歌」に続く、2番目の「主の下僕の歌」(1~6)である。先週も触れたように、「主の下僕」とは誰か謎のままであるが、ここで言う「わたし」とは主の下僕のことである。ここで歌われている内容は主と下僕との密接な関係である。その関係の親密さは尋常ではない。主の下僕は公募して、試験して、面接して選ばれるのとは全然違う。主の下僕となるべき人物は「母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」(2節)と歌う。主ご自身が下僕となるべき人物を母の胎内にいるときから選ばれた。ここで一寸道草を食う。パウロは自分の召命について「母の胎内にあるときから選び分かたれた」(ガラテヤ1:15) という。従って、その人物が主の下僕であるのはのは、彼自身の能力でもなく、功績でもなければ、彼がそれを望んだからでもない。そういう人間的なことがすべてなされる以前に、主ご自身が彼を選んだ。5節にはもっとすごいことが語られている。単に選んだだけでなく、「母の胎内で御自分の僕として形づくられた」とまで言う。彼の頭だけでなく、体も骨も、手も足も、彼の身体も心も精神もすべてが神の働きのための道具として作られている。しかも、その作り方は尋常ではない。産まれたその子は、「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」(2節)育てたという。つまり彼は強力な武術者として育成されたのである。そのようにして育てられた主の下僕は「あなたによってわたしの輝きは現れる」(3節)と因果を含めておられる。ここでの鍵の言葉は、「主の御手に隠され」「矢筒の中に隠され」ている。これらを総合して考えると、ここで描かれている主の下僕のイメージは「主の懐刀」である。普通、懐刀とは主人公の身辺をうろうろ動き回る用心棒、あるいはSPではない。普段はほとんど姿を見せず、本当に危機的な状況において、表に出てきて主人公を守る非常に優秀な「切れ者」である。

3. 弟子たちが見たもの
この出会いの場で、弟子たちがイエスという人物とイザヤ書の「主の下僕」とを結びつけたはずはない。しかし、イエスの中に何か不気味な力を感じたのであろう。この人は今までに会った人々とは全然違う。この人は何かを秘めている。それは今まで想像もしなかったようなとてつもない何かである。ひょっとしたら、この人はあの伝説の人、世の終わりに登場すると信じられ来たメシアかもしれない。しかし、まさかメシアが私たちのような普通の人間の間に現れるとは信じられない。メシアだとしたらあまりにもみすぼらしい。要するに何者かよくわからないが何かを秘めている、と感じていたらしい。これを別な見方で言うと、偶然に「宝の山」を発見したという感じであろう。よくわからないが、この人に付いていって損はない、という確信。今、このチャンスをパスしてしまった非常に重要なものを失うことになるだろう。

4.主の下僕の使命
もう少しイザヤ書が描く主の下僕の姿について考えてみる。イザヤが語る、主の下僕は「人に侮られ、国々に忌むべきものとされ、支配者の僕とされた」(7節)。これが主の下僕の生き様である。ここでの「支配者の僕」とは、主の下僕が文字通り「この世の支配者たちの奴隷」のように扱われる。母の胎内から選ばれ、特別に育てられた主の下僕が、この世の支配者たちの奴隷となる。このアンバランス。それをどう理解したらいいのだろうか。
一寸主題からそれるが、キリストの受肉についての初代教会の信仰告白が残されている。それによると「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、下僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6)と言う。パウロが引用したおかげで残された貴重な資料である。ここでキリストは「神の身分」出会ったキリストが「下僕の身分」になってと言われている。しかし、福音書を読んで、実際にイエスが下僕になったという叙述は見られない。せいぜい、裁判の際に、あっちこっち引っ張り回され、最後には処刑されたという。つまり、神の身分であったキリストが受肉して人間になったということを「支配者の僕とされた」というイザヤ書の「主の下僕」の歌を受けてこの信仰告白は成り立っている。明らかに初代教会ではキリストであるイエスはイザヤ書「主の下僕」だと信じているのである。だからイエスの苦難は主の下僕の苦難である。特に主の下僕を「苦難の下僕」として詳細に描いているのが「主の下僕の第4の歌」(イザヤ52:13~53:12)である。(「主の下僕の第3の歌」はB年の特定19で、第4の歌の後半の部分はB年の特定24で取り上げられている)
その主の下僕に対して、神は使命を与える。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。ここでは2つのことが命じられている。1つは明らかに、バビロンからの解放と祖国への帰還であり、もう1つは「国々の光」として、救いを全世界にもたらすという使命である。

4. 国々の光
さて、本日の特祷から見ると、この第2の使命が最も重要なポイントである。「どうかわたしたちを導き、全人類の救いのもとである主に、すべてをゆだねさせてください」。つまりヤハウェなる神はその主の僕を「国々の光」(6節)として用いて、「その救いを地の果てまでもたらす」ということである。ここに本日のテキストの最も重要なメッセージがある。
この言葉をどう受け止めるのか。誰か他の人を想定して、あの人が主の僕であるとか、この人が主の僕でないだろうかと詮索するのであろうか。いろいろな理由を挙げて、少なくとも、わたしは主の僕ではないと考えるのだろうか。主の僕とはイエスのことであるとして、上手にこのメッセージをはねのけるのだろうか。
少なくとも、パウロはこの言葉を自分自身のこととして受け止めている。次のように語る。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:15,16)。明らかに、パウロはイザヤ書のこの言葉を念頭に置いて、自分自身のこととして語っている。
果たして、主の下僕に対する神の命令を、他人事として「理解」して済むことだろうか。実は、パウロ以前に、イエスもこの命令を自分自身のこととして受け止め、そのように生きたのではなかろうか。いやそうに違いない。そしてそれは私たちにとっても私たち自身のこととして受け止めるべきなのではないだろうか。 つまりわたしたちが「主の僕」であり、主の救いを地の果てまでもたらす「国々の光」として「神の懐刀」である、と神は宣言される。わたしたちは神の期待に十分に応えたい。

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