ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

どなたか、教えてください 「原子爆弾」という言葉

2010-08-14 14:40:09 | 小論
実は、一寸した必要があって、恩師松村克己の敗戦当時の日記を読み直していて、一つの疑問が出て来ました。というのは、1945年8月の6日から15日までの日記において、広島・長崎への原爆投下のことについて、何も触れられていないのです。当時、戦局には人一倍、関心があるはずなのに、記述が非常に少ないのです。8月6日(月)の日記には以下の記述が見られます。
<昨夜は寝についてから4時間余、警報は鳴りつゞけてゐた。西宮に来たらしい。今朝は節子の許より便あり。津で2度罹災、生命だけは助つたという。>
7日、8日、9日の3日間は戦局について全然触れず、普段通りの生活。10日(金)には、ソ連が宣戦布告したことについて以下のように記しています。
<管理委員会は、昨日の報道、ソ連の対日宣戦布告と満洲国境攻撃、今後の見通しに専ら話しが傾く。>
11日(土)には、<夜、浜田(與助)氏訪問。9 時半帰宅。時局につき憂を語りつゝ、不敗の姿勢を如何にして樹立せんかと語り合ふ。>
12日、13日、14日と戦局についての記述は見られません。
敗戦当日の15日(水)の日記は下記の通りです。
<朝畑を2時間。9時登校。昨夜は昼間に続いて警報しきりなり。今朝6時半頃寮の上にて空襲、敵機ビラを撒く。和平交渉の行はれつゝあることが察せられる。
正午、陛下御自らラヂオを通して国民に詔書を賜ふ。今朝の伝単は真実を伝へていた。8月8日、帝国政府は最後の一線、国体護持の確保を保留してポツダム宣言を受諾する用意ある旨を通告。11日、四国を代表してアメリカは此の保留を確認する旨を通告。玆に陛下は原子爆弾の惨禍等に見る国民の無辜の犠牲を是以上忍びずとして、聖断を以て昨日の御前会議に降服の事を御決定。今日国民に対し、今より始まるべき新しき事態に於ける別な意味の戦いに対して覚悟を促されたのであった。聖慮、聖恩無量。如何にしても此の大御心に答へ奉るべく、皇室の為にはどんな苦難にも堪えて戦い抜くべき誓ひを新にする。終局はほゞ考へられたやうに来た。併し不思議な気がする。今より何をなし、如何に生くべきか。静かに祈り考へねばならぬ。>
この日記で注目すべき点は、敗戦という事実を「終局はほぼ考えられたように来た」という言葉です。この言葉をどう理解すべきか。これは今後の課題です。
さて、今日この日記を取り上げた問題はこの日の日記に「原子爆弾」という言葉が出てくることです。天皇自身の言葉では「新に残虐なる爆彈を使用」という表現でした。あの不鮮明な玉音放送を聞いて、これを「原子爆弾」だと判断できたのは何故か。当時のマスメディアは広島に投下された原爆を「新型爆弾」と呼び、一般国民には「原子爆弾」という言葉は知らされていませんでした。にも関わらず、松村は8月15日に「原子爆弾」という言葉を用いています。何処から、どういうルートで松村はこの表現を得ていたのだろうか。松村は少なくとも8月15日以前に「原子爆弾」という言葉を知っていたことになります。この謎をどう解くか、だれか教えてくれませんか。問題は、松村個人のことではなく、原爆を「原子爆弾」という表現は、いつ、どうのようにして一般化していったのか。一部の人々には、ひそかに流れていたのではないでしょうか。先日、朝日新聞の関東地方版では、トルーマン大統領のアトミック・ボム宣言を翻訳する際に「原子爆弾」という言葉を使ったという記事があったそうですが、私にはそれ以前からすでに「いわさ」としてかなりの人々に広がっていたのではないだろうかと想像しています。
ついでに8月18日の日記も紹介しておこきましょう。
<8月16日(木)晴  国内今の処平穏。昨夜は久し振でゆつくりと休む。今朝は元気である。8時登校。道に橘君と会ふ。自分とは逆に、工場の転換を目の前にして沈んでゐるかに見えた。失業者対策は道徳的問題と並んで最重要な課題となろう。(中略)1時半より総長の告示あり。平凡なり。2時すぎ終了。(後略)>

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