ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 6/13

2010-06-20 04:43:04 | ローズンゲン
6月13日(日)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。(1サムエル2:7)
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。(ヤコブ2:1)
わたしの黙想
人生の浮沈、貧富、幸不幸、功失敗はすべて神による。「だから」、それによってその人を推し量ってはならない。子どもが与えられていないということで、さまざまな悪口を言われてきたハンナに子どもが与えられた。そのとたん人々の評価は変わった。私は同じ私なのに。

6月14日(月)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。(創世記12:1)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。(ガラテヤ3:18)
わたしの黙想
今日の聖句、「出た」という感じ。この言葉こそ私の人生の全て。この言葉により聖職への道に入り、教団を移り、九州まで来てしまった。常に安定した生活から「離れる」。いや、「離される」。流浪の旅。しかし、それを貫くのは人生に逆らわないということ。

6月15日(火)
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。(出エジプト14:21)
信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。(ヘブル11:29)
わたしの黙想
手を差し伸べるモーセはまさかその行為によって紅海が割れると思っていたのであろうか。ただ両手を天に向け「神よ、何とかしてくれ」としか言えないのではなかろうか。紅海に向かって手を差し伸べる行為は、いかにも魔術的。「お手上げ」の方が信仰的。神は何をするのか不明。

6月16日(水)
わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの。(イザヤ63:1)
私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使徒言行録26:22)
わたしの黙想
イザヤ書63:1の「わたし」とは誰か、これが問題。

6月17日(木)
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)
わたしの黙想
信仰の神髄を文学的に表現すると、こうなる。これに対応するイエスの言葉はマタイ10:28 :体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

6月18日(金)
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世記1:27)
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(エフェソ1:4)
わたしの黙想
「神は御自分にかたどって人を創造された」という信仰に立てば、人間を調べれば「神の形」がわかるはずと考えるのが普通。神と人間との関係や距離は近いはず。キリスト教の神は遠すぎる。あまり遠すぎると「居ない」のと同じになる。

6月19日(土)
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。(詩編73:23)
キリストの言葉:わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 わたしと父とは一つである。(ヨハネ10:29-30)
わたしの黙想
父親の大きな力強い手につながれた幼子の「お手々つないで」のイメージ。遠い地平線に沈む真っ赤な太陽が背景だともっと美しい。理由はわからないが、この場合、父親と娘より、父親と息子の方が絵になる。ヒョッとすると、それは私自身の原風景かも知れない。

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