ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 10/05

2012-10-06 08:57:06 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。小泉義之『レヴィナス』読了。非常に分かりやすい。問題はレヴィナスの言葉と著者の言葉が混然としている点であろう。レヴィナスの主著『全体性と無限』をパラパラめくっている。岩波文庫で上下合わせて800頁を超える。A-Bibleの調子が悪いのでいろいろ触っている内に全部消えてしまった。それで新たに購入しようとしてお金を支払ったのに、ウンともスンともない。あ~あ。10時半に就寝。5時に起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 05:14:10

#losungenj 10.05(fri)
主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現された。(Ps98:2)
この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。(Act28:28)
posted at 05:25:02
#losungenj 私の黙想:
ここでいう「救い」とはイスラエルの民の救いであって、その事実が諸国民の目にもはっきりと「神に業」だということが明らかに分かるように起こったという。昨日のヨセフに対する神の配慮は見えない形で、ここでは見える形で神は働いている。神は変幻自在である。
posted at 05:34:15

今日の名言:RT @Bonhoeffer_jp:
信じるならば、第一歩を踏み出せ! その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである。(『キリストに従う』森訳47頁)
<一言>何を信じているかではなく、私自身が正しいと思っていることへの勇気、それがイエスの生き方に通じる。そこからしか「自分自身の人生」は始まらないではないか。
posted at 05:47:39

「昨日のツイート 10/04」をブログにアップしました。 http://t.co/sTvhkLvC
posted at 06:33:39

今日のこころ旅、JR小島駅から大歩危峡へ。手紙の主の見合いの場所だとのこと。阿波池田駅まで輪行。激しい登り坂だ。正平さん、苦しそう。ウワー苦手の高い橋だ。美味しそうなおでん。地域の郵便屋さんと一緒に写真を撮る。大歩危峡、いい所だ。
posted at 08:00:47

文屋善明 今日は火野正平さんのこころ旅の実況ツイートうまくいきました。

散髪屋に行ってきました。10分ほどで仕上がり。洗髪、髭剃りなしで、1000円。待たなくてもいい、早いがとりえ。それと、安いのが。
posted at 11:19:35

安永 玲子 夫は自分で散髪します 私も自分でおしゃれにカットします

安永 玲子 お道具は 100円ショップのギザギザカットの隙鋏と 毛をすくことのできる柄つきの剃刀です、 お試しを!(^^)

文屋 善明 髪の毛が散らばって、後始末が大変でしょう。

安永 玲子 お風呂でなさるといいのですよ^^

Christian Auron でも、愛想悪いよ。

清水 晴好 私も今から髪(&髭)をカットして来ます。もう35年間同じ人間に切って貰ってます。W

文屋 善明 あなたの髪を切っているのは植木屋さんですか?

浅井 荘子 あはは。ほんとうに。笑いました。(知らないのにすみません。)

清水 晴好 実は高校の同級生です。美容師学校の時に、一生面倒見るから練習させてくれと頼まれて以来、ずっと無料でカットしてくれています。W

安永 玲子 一生面倒!!!  熱いですね、その方の

清水 晴好 高校一年生からのつきあいですのでもう40年来の友人です。家も近いし、まぁ、一番の親友と言っても過言ではないでしょうね。W

浅井 荘子 それでは、どんな髪型にしても、親友が整えてくれて(笑い)、楽しい人生ですね。いいな~♡

文屋 知明 清水さん、いいですね!「かみの切れ目が縁の切れ目にならないように!」(^^♪

安永 玲子 清水さん いいお話を聞きできました、 なんだか幸せな気分がするのはなぜでしょうね、^^

清水 晴好 皆さんありがとうございます。

文屋 知明 水草さん、私は、いつも「カネ」の切れ目です・・・。「トホホ!」

FB『もしニーチェが短歌を詠んだら』025(63頁) 2012/10/05

自らを知るのではなく欲せよ たった一人の自分であれと
『人間的、あまりに人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第366節

<付記> ソクラテスは「己を知れ」といった。それで知ったらどうなる。みんなと同じ自分を発見して安心するのか。みんなと違う自分を知って嘆くのか。知ることよりも、「たった一人の自分であること」を目指して生きることの方がより重要だ。


今日の午後は思い切って、昨日読んで感動した文章を紹介します。私の読書メモです。文章はほとんど原文のままです。
著者は、まず、レヴィナスの次の言葉を引用します。
<私の子どもは異邦人である(イザヤ49)。私の子どもは、私のものではない。子どもは私であるからだ。子どもは私に無縁な私である。子どもは私の作品でも私の創造物でもないからだ。>

これに続く部分で、著者は親子関係について次のように解説しています。

人間個体は受精卵から発生し成長し老化して死んでゆく。人間個体とは、受精卵が全体として変容したものである。そこで、受精卵を一個の生物個体として数えるのと同じ意味で、人間個体を一個の生物個体として数えることにする。受精卵は一なるものであり、同様に、人間個体は一なるものである。受精卵は一なる全身であり、同様に、人間個体は一なる全身である。
ところで受精卵には性別はない。受精卵は内部分裂を繰り返し、しばらくしてから、体細胞と生殖細胞を分化させる。生殖細胞には、精子と卵子とがある。受精卵は精子と卵子の合体から始まったわけだから、受精卵を一個と数えるのであれば、生殖細胞は半個ないし半身と数えられる。とすると、受精卵が成長した大人の人間個体は、その内部に生殖細胞をかかえているから、人間の全身は、その内部に人間の半身を含んでいることになる。したがって、性別が発生する以前の受精卵が一なるものであるなら、大人の人間は半分なるものを含む一なるものであることになる。従って受精卵を1で、大人の人間を1(+0.5)で表示しなければならない。
つまり、人間の大人の個体を一なるものとして捉える伝統的見解は間違っている。人間個体の生存を、自己保存や自己組織といった概念で表象することも間違っている。

さらに、女性の妊娠と出産を考えてみる。妊娠前の女性は1(+0.5)である。妊娠直後の女性は、1(+0.5(+1)である。受精卵が生殖細胞を内部で分化した後には、妊娠中の女性は1(+0.5+(1+(0.5)))である。出産では、1(+0.5)の子を産んで、女性は1(+0.5)に戻る。つまり、人間の大人の個体を一なるものとして捉えることだけではなく、半身を含む一なるものとして捉えることも、女性個体のことを何ら考慮に入れていないことになる。

いずれにせよ、男性は、この過程を通して、1(+0.5)のまま変わらない。付け加えるなら、人間は老化して生殖機能が無能化するので、人は1に戻って死ぬことになる。

(この過程を通して)、何が繋がり何が切れているのだろうか。一なるものが繋がっていると考えてみることはできる。しかし、一なるものは、二つの半身の合体で生じることに注意しよう。しかも、半身はそれだけでは生きていけない細胞であり、およそ一なるものたり得ないことにも注意しよう。すると、一なるものであることは、一度は切れていることになる。人間個体は自己複製で増えるのではないことを忘れてはいけない。人間を生むのは男性ではないが、女性であるのでもない。人間を生むのは、あくまで、いまのところ、男性と女性である。人間がどこで生まれ落ちるのかといえば、男性と女性の間から、より精確には男性と女性とをたたみ込んでいる女性の胎内からである。人間個体は、体内から、生きているか死んでいるかさだかでない半身を体外に放り出して、二つの半身をして一つの全身を発言するのである。これは恐ろしく危険で複雑なやり方である。二つの半身を生かして合体させて一なる全身に仕上げる場所がなくては、可能にならないやり方である。その場所が子宮と胎盤である。(小島義之『レヴィナス』(NHK出版、89-91頁)
上野 博志 まさに中絶は殺人と同じだと思います。自殺者数とか交通事故者数は、よく新聞に載りますが、中絶された人間の数は、あまり聞きません。もの凄い数かも知れません。
17時間前 (携帯より) · いいね! · 1

水草 修治 上野さん。
Wikipediaによれば、「1955年に約117万件(全妊娠のおよそ2.5人に1人)、1965年に約84万件(全妊娠のおよそ3人に1人)、1980年に約60万件(全妊娠のおよそ3.5人に1人)、1990年に約46万件(全妊娠のおよそ3.5人に1人)、2000年に約34万件(全妊娠のおよそ4.5人に1人)となっている。」

これは厚生省に届けられ・・・もっと見る
9時間前 · 編集済み · いいね! · 1

野間 大路 ジブラーンの子どもの詩を思い出しました。
http://www.levha.net/gibran/the_prophet/on_children.html
『預言者』より「子供たちについて」 ハリール・ジブラーン www.levha.net
あなたの子はあなたの子ではなく いのちの、 いのちそのものへの憧れから 生まれた息子であり娘であり

文屋 善明 野間先生に専門家としてのご意見を伺いたいと思っています。神学における人間理解もこの点まで掘り下げて考える必要があると思いました。

<補遺>レヴィナスを読んでいて、イエスも、特にパウロもやはりユダヤ教のラビだったのだとおもわせられます。まだ、はっきりしていませんが、レヴィナスとパウロの類似点も面白い。何とはなく、キリスト者はパウロをキリスト教的な視点から読んでいるように思う。西欧哲学に対するレヴィナスの批判的な視点とパウロのギリシャ哲学に対する批判とをもう少し掘り下げて研究する必要がありそうだ。まぁ、私自身はそこまで手が出せませんが。

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