ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 04/06

2014-04-09 17:28:37 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。終日、4月の聖書研究会の準備、大枠完了。「シャローム」に「シャローム」で答える意味。佐古純一郎の「大いなる邂逅」を読み直す。夕食後、蟹江敬三追悼番組「おとり捜査官」を見る。これから蟹江敬三と松下由樹との名コンビが見られないのはさびしい。11時半就寝。5時起床。体調快調、チュン、チュン。

佐藤 清一さん、細谷 民子さん、野間 悦三さん、他20人が「いいね!」と言っています。
posted at 05:21:08

文屋 善明
今日の名言:RT @N_Anti_Christ:
ただ一人の人間に対する愛は、野蛮というものだ。なぜならそれは、その他の全ての人間を犠牲にしてなされるものだからだ。神に対する愛も同断である。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
<一言>どういう意味なんだ。神を愛したら人を愛せないというのか。そんなことはない。神への愛は人への愛によって実践されるのだ。

濱 和弘さん、佐藤 清一さん、細谷 民子さん、他17人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。ニーチェは、神の死んだ(彼によれば)時代において、神のみを愛そうとする信仰者の盲目を、批判したのだと僕は思っています(^^;)

文屋 善明 彼の言う「神は死んだ」ということをそういう風に「図式的に」理解してはならないと思っています。そうではなくて、神のみを愛するという信仰が神を殺しているということがポイントであって、神のみを愛することによって身近な人間を愛さない人間の不毛さを述べていると思います。私の<一言>はもう一捻りもふた捻りもしているもので、「神を愛していたら人間も愛していることになる」とか、「神を愛する人間は愛するが、神を愛していない人間は死んだものとして蔑む信仰」を批判しているつもりです。ニーチェの言葉の前半部は人間の持つ愛の限界を語っている言葉で、そのままで真なのであり、ニーチェはそこに神という概念を挟むことによって冷やかしているのだと解釈し、「どういう意味なんだ」と先ず反論している姿勢を示していますが、決して反論しているのではありません。

清水 行雄 先生、わかりました。隣人への現実の愛が問題なんですね(こう断定してはいけないか^^;)

文屋 善明 ニーチェの根本的な姿勢は現実のキリスト教批判であって、決してキリスト教否定ではないというのが私のニーチェに対する視点です。だから「神は死んだ」ということで「神の死の神学」なんていうものも出てきましたが、ニーチェは「あなたたち(わたしたち)は神を殺している」という点を刺しているのだろうと思います。

糸原 由美子 「愛がなければ信仰はむなしい」ことを知らないというか無視して、信仰者と自任している人の多いことを思います。
posted at 06:16:29

「昨日のツイート 04/04 「(十字架上の七言)受苦日説教」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/8748e06e248f22da626180b318f48bf…
posted at 10:45:57

文屋 善明
お目覚めの花。「今日は主日ですね」「思い切って豪華に行きましょう」「大斎節なのに」「大斎節だからですよ」 (写真4枚)
文屋 善明さんの写真

矢野 寛子さん、安永 玲子さん、佐藤 清一さん、他36人が「いいね!」と言っています。

安永 玲子 しだにーで羽繕いいしてないなんじゃもんじゃって感じのオウムを見たこを思い出しました。

文屋 善明
2014日々の聖句 04月06日(日)
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。(箴言21:3)
みなしごや、やもめが困っているときに世話をするしこと、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)
私の黙想:
他のほとんどの邦訳が「正義と公正(公平)を行うこと」としている。「神に従う」としてしまうと、後半の「いけにえを捧げること」に吸収されてしまい、この聖句のポイントがボケてしまう。イエスは律法の専門家に「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(ルカ14:3)と問われた。社会倫理の実践が宗教的行為に優先する。これはいわば当然のことであり、何もイエスによってもたらされた革命的な教えでもなんでもない。この当然の論理の前に律法の専門家たちは沈黙せざるを得なかった。問題は程度問題にすり替えられる。ところが、ここでイエスは「自分の息子が井戸に落ちたら」と実例を挙げる。それは当然であろう。では、それが「牛」だったらどうする。もちろん、「牛」の持つ「価値」をどう受け止めるかという議論はあるであろうが、まさか「自分の息子」と「牛」とを比較して答えを求めているわけではない。要するに、社会倫理の重さという程度問題にすり替えることへの否定である。社会倫理はそれ自体として宗教的行為に優先する。今日の聖句では「よりも」という比較を意味する言葉が入っているが、これは比較の問題ではなく「主に喜ばれる」という宗教本来の目的の前に、社会的倫理のもつ宗教性が問われている。

濱 和弘さん、佐藤 清一さん、野間 悦三さん、他25人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんがBeloved Festivalさんの写真をシェアしました。

これが人間です。人と人との間にあるから人間なんです。
Ubuntu - I am because we are. ― Robert Callowayさんと一緒です。
写真: Ubuntu - I am because we are.

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10152012804743388&set=a.378983938387.159960.48649623387&type=1&theater

野間 悦三さん、金丸 勝彦さん、藤井 衞さん、他10人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんが服部 弘一郎さんの記事をシェアしました。
4月6日
読んでいて、まるでアメリカと日本の関係をと同じだな、と感じました。

平田オリザさんからの台湾速報 (内田樹の研究室) Gunosy(グノシー)
佐藤先生と入れ替わりで、四

http://blog.tatsuru.com/2014/04/06_0859.php

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