ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 12/30~01/05

2013-01-08 08:27:53 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 12/30~01/05
losungenj 2012.12.30(sun)
施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。(Prov3:27)
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(Jam1:22)
私の黙想:
今日の聖句、単純ではあるが侮りがたい。飛び抜けて重要なメッセージである。特に「あなたの手にその力があるなら」という言葉は具体的な迫力がある。

losungenj 2012.12.31(mon)
わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。力づけてくださるのはいつか、と申します。(Ps119:82)
わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励ましてくださるように。(2Thess2:16-17)
私の黙想:
イスラエルの「敬虔」とは、神が働くこと、神からの働きかけ(呼びかけ)を「待つ姿勢」に凝縮される。「主はこれまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております。』」(1Sam3:10)。
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(Lk1:38)
イエスはこの伝統の中で生まれ、育った。

日々の聖句(改めlosungenj)2013 01月01日(火)
主はこう言われる。「わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」(Isa45:23-24)
わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。(Eph3:14-15)
私の黙想:
新年早々「主は言われる」という宣言。そうだ、全ては「主は言われる」で始まるのだ。そして、世界は主が言われた通りになるのだ。
明けましておめでとうございます。今年も毎朝、ローズンゲンを通して「主が言われる」ことに耳を傾けたいと思います。

日々の聖句(losungenj 改め)2013 01月02日(水)
主を畏れることは知恵の初め。(箴1:7)
ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」(使10:34、35)
私の黙想:
本当の賢さ(知恵)とは、ありのままの事実をどれだけ深く沈潜しているかということに懸かっている。人間とは何か、社会とは何か、世界とは何か、私とは何者か。実は私の知識は過去の人類の歩み(経験)の集積であり、必ずしもありのままの事実をそのまま表現しているものではない。そこを徹底的に探求することによって初めて根源的知識(論理)が姿を露わにする。「主を畏れる」とはその時に見えてくる人間のありのままの姿に他ならない。
※この日から、ローズンゲンの掲載はFBのみとする。

日々の聖句2013 01月03日(木)
あなたたちのもとに寄留する者を、あなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱いなさい。(レビ19:34)
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(ヘブ13:2)
私の黙想:
個人レベルでいえば、いろいろな理由があるだろう。そういうことを問うても、仕方がない。問題は、今、自分たちと同じ共同体において生活している人々を同じ人間として取り扱うことだ。考え方もいろいろあるだろう。阿倍さんを支持する人もいれば、小沢さんの支持者もいる。オバマさんを偉いと思っている人もいれば、金さんを褒め称える人もいるだろう。宗教もそれぞれだ。個人的レベルでは思想・信教は自由なのだ。そこに差別があってはならない。

日々の聖句2013 01月04日(金)
災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。(イザ6:5)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。(コロ4:6)
私の黙想:
これが聖書の民における、神を見た者の正常な感覚。日本人にはこの「神を見る」という経験が理解出来ない。日本人においては、森羅万象の中に「神を感じる」という主体の感覚の問題であるが、聖書の民においては、主体は神の側にあり、神の前における自己とは「見てはならないものを見てしまった」という非主体的な体験である。「見たくて見る」ではなく、神の方から近づき、現れる。神から「身を隠す」(創世記3:8)という感覚こそが「罪の意識」に他ならない。

日々の聖句2013 01月05日(土)
聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。(箴20:12)
イエスは、聖書を悟らせるために彼ら(弟子たち)の心の目を開かれた。(ルカ24:45)
私の黙想:
この句の重点は「主が作られた」ということにある。つまり人間が外部から得る情報の入口はすべて神の賜物である。人間はそれらの機関を自由に使うことが許されている。何を見、何を聞き、何を受け入れるのかは人間自身の判断による。神はその点をご覧になっている。その点では、エデンの園の禁断の実と同じである。「女が見ると」、「賢くなるように唆していた」。

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