ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 01/07

2013-01-08 08:13:45 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は咳をしながら教会にでかけましたが、礼拝が始まると不思議に咳も鼻水も治まり、無事終了。礼拝後の懇談も、帰宅後も、就寝中も今朝まで治まっている。まさに礼拝奉仕が病を癒したという奇跡物語。昨晩はNHK大河ドラマ「八重の桜」は録画して入浴、9時半就寝、熟睡し5時起床。体調快調(?)、チュン、チュン。風邪がぶり返したら神さまに恥をかかせることになるので、今日の午前中にクリニックに行って診て貰うこととする。
posted at 05:26:32

町田 勝彦 緊張感がいいんですよね。鼻ずまりも・・

文屋 善明 医学的にはその通りでしょうね。でも、神癒という信仰も良いものですよ。

町田 勝彦 医学はわかりませんが、自分で発見したものなんです。同僚に「だらしないから風邪引くんだ!」といったら、町田さんみたいな人はポックリいきますよと言われました。(^O^)

門叶 国泰 成程! 昭和30年代には、「風邪を引くなら土曜日に引け、緊張感が足りない」と怒鳴られたものです。年休を40日(2年分以上は失効)残しているのが自慢、保険証を一度も使わないと健保組合から記念品が贈られてきました。

文屋 善明 これまでの私の一生で、病気のため礼拝のご奉仕が出来なかったことは、定年退職直後に日曜日の朝突然腰痛に襲われたたった1回だけです。それは今でも忘れていません。

門叶 国泰 流石!

今日の名言:RT @CS_Lewis_jp:
人は、善良たらんと真剣に努力してみるまでは、自分がいかに悪い人間か、わからないものである。
<一言>善人ほど罪意識は深い。そこに宗教の矛盾がある。幸福を目指し宗教の門をくぐる人間は、ますます罪の自覚が深まり、不幸を感じる。
posted at 06:21:41

Satoshi Tanaka 罪と言うものの定義が曖昧である、もしくは多分に主観的な性格を帯びたもの、である以上、罪を感じること(すなわち罪意識)に絶対的な意味と言うのは無いのではないかと”感じら”れてしまうのですが。

文屋 善明 罪についての「絶対的定義」というものが無いというご意見には異論はありません。むしろ「絶対(者)」の前に立ったときの感覚というべきでしょうか。ここで私自身が一寸引っかかる点はルイスは「罪」という言葉を使わず「悪い人間」という言葉を使っていることです。

Satoshi Tanaka 先ほどの私のコメントの一番最初に加える言葉を忘れてしまいました。『文屋先生の罪意識に関して、わたしたちが良く陥ってしまう自己葛藤に同感いたします。しかし、よく考えてみれば~~~』

「昨日のツイート 01/06」をブログにアップしました。 http://t.co/IQe0UGIm
posted at 07:10:55

今週のこころ旅は、宮崎県。「心の風景」を求めて、高千穂峡、父と母の思い出の日南海岸、ビニールハウス二いれてもらう、都城盆地、西米良村のじいちゃんの家、3日でいいが33年勤務することになった大崩山の養護学校。
posted at 07:59:37

日々の聖句2013 01月07(月)
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言った。(ヨシュ5:14)
イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われた。(ルカ8:21)
私の黙想:
イスラエルの民が40年間の荒野で試練の後、初めて「約束の地」足を踏み入れた頃のことがドラマティックに描かれている。神による「民族の刷新」というこういうことであろう。今日の聖句は新しい指導者としてのヨシュア個人に対する神の姿勢が述べられている。ここで最初に命じられていることは「履き物を脱げ」である。荒野で靴を脱ぐということは自分自身の弱さを知ること、自分が立っている場所が荒野であるということを肌で感じること、その上で、その荒野が「聖地」であるということを自覚すること。

<補遺>
ダラダラと過ごした一日。今週からNHKの「こころ旅」が始まった。



最新の画像もっと見る