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断想:洗礼者聖ヨハネ誕生日の福音書

2016-06-24 08:39:20 | 説教
断想:洗礼者聖ヨハネ誕生日の福音書 
「この子に何と名付けよう」 ルカ1:57~80

1.洗礼者聖ヨハネ誕生日(6月24日)
日本聖公会の祈祷書において「誕生日」が祝日なのは、イエスの誕生日を除くと洗礼者聖ヨハネだけである。そして、この日については主イエスの祝日に準じていろいろと取り扱い方が違う。それほど重要視されているということである。
この日の福音書は通年でルカ1:57~80が読まれる。それもその筈、洗礼者ヨハネの誕生物語はここしかないからでしょう。
本日のテキストに入る前に、洗礼者ヨハネについての各福音書での取り扱いについて、簡単に触れておく。(ヨハネ福音書は視点が異なるので、ここでは触れない)。洗礼者ヨハネ自身が登場する場面は、マルコ福音書で2回(1:4~11、6:14~29)、マタイ福音書で7回(3:1~12、14:2~12)、ルカ福音書で5回(1:5~25、1:41、1:57~66、3:3~21、7:18~23)である。洗礼者ヨハネに関するイエスの言葉(mt.11:7~13、17:13 、21:25、mk.11:30、lk.7:24~28、33、16:16、20:4)。人々はイエスを洗礼者ヨハネの生まれ代わりだという(mt.14:2、16:14、mk.8:28、lk.9:19)。共観福音書ではイエスと洗礼者ヨハネとは切っても切れない関係として取り上げられている。特にイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという点は見逃せないであろう。(ただし、その点についてはヨハネ福音書では曖昧にされている)。
ルカ福音書における洗礼者ヨハネの取り扱いの特徴は、16:16に凝縮されている。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。マタイ11:13にもよく似た言葉があるが、マタイでは「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」とあり、要するに旧約聖書の有効期限を述べているだけであるが、ルカははっきりと洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者と律法の最後であると述べている。つまり、洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者と律法とに属し、その最後だとし、彼とイエスとの間に明瞭な時代区分をしている。
そのような視点に立って、ヨハネの誕生を語る。

2.洗礼者ヨハネの誕生物語
洗礼者ヨハネの誕生を語っているのはルカだけである。今日のテキストはルカ57節から80節まででかなり長いが、物語部分は57節から66節まででである。68節以下79節まではいわゆる「ザカリアの頌」で、この部分については別の機会に論じることとする。洗礼者ヨハネの誕生に関する物語は5節から25節、および39節から45節が前半で今日のテキストに選ばれている部分は後半部で、誕生の出来事そのものを扱っている。ルカはこの物語をどこから手に入れたのか、ということについては推測の域を脱しないが、ヨハネの死後、ヨハネの意志を受け継いだ弟子たちの集団の中で形成されたものであろうと思われる。
ルカはイエスの誕生物語を書くに当たって、イエスと関係の深かった洗礼者ヨハネの誕生物語を絡ませることによって、イエス集団とヨハネ集団との関係についての調整をはかろうとしたのであろう。
マルコはイエスとヨハネとの関係をいわゆる「先駆者」という位置づけで関係付けようとしている。マルコはイザヤの言葉を引用して、「あなたより先に使者を遣わし」(mk.1:2)と語り、「ヨハネが捕らえられた後」(1:14)、イエスは活動を始める。マルコにとって「福音物語」はヨハネの活動から始まる。マタイも、ほぼマルコの理解を継承するが、「先駆け」という言葉を避け、逆に、イエスの宣教のことば「悔い改めよ。天の国は近づいた」(mt.3:2、4:17)と同じセリフをヨハネの口に入れて、イエスとヨハネとの同一性を示唆している。なお、イエスの活動も「ヨハネが捕らえられたと聞きガリラヤに退かれた」(mt.4:12)と平行的、同時的な活動を暗示している。
その点でルカが、ヨハネの誕生をイエスの誕生の6ヶ月前に設定し、イエスの母マリアがヨハネの母エリザベトを訪問した際に、エリザベトの胎内のヨハネが踊ったという出来事を語っている点は面白い。その時、マリアの胎内のイエスは何も知らない。
エリザベトの受胎という物語はイスラエル史における最初の預言者サムエルの誕生物語を彷彿とさせる(1sam.1:1~22)。また、その時の「ハンナの祈り」(1sam.2:1~10)はイエスの母マリアの「賛歌」(lk.1:47~55)を思い起こさせる。つまり、洗礼者ヨハネは旧約聖書における預言者の「集大成」という意味を持っていると思われる。

3.ヨハネという名前
今日のテキストの物語部分は、誕生物語というより、命名物語である。「ヨハネ」という名前が特別なわけではない。おそらくヘブライ語では「ヨハナン」で、「ヤハウェは恵み深い」という意味で、ありふれた名前である。そう言えば「イエス」だってヘブライ語では「ヨシュア」でありふれた名前である。だから名前そのものに特別な意義はない。ただ、それが天使による告示であるということに意味がある。ルカは次のように書いている。

<以下、テキスト>ルカ.1:7b~25
彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」>
<以上>

(1) この物語を読んで、先ず気付くことは天使ガブリエルとザカリアの会話の部分が、創世記18章の3人の天使たちとアブラハムとの会話の部分に似ているということであろう。創世記の方ではその会話を妻サラはテントの中で聞いていて「ひそかに笑った」(gen.18:12)。その笑い声を聞いた、天使は「なぜサラは笑ったのか」と非難するが、ここでは天使の言葉を信じなかったのはザカリア自身であり、そのために話が出来なくなってしまう。そのとき天使は産まれてくる子供を「ヨハネ」と名付けなさい、と命じられた。そのことはエリザベトにだけ告げていた。
(2) さて、本日の物語はここからである。生まれた子供に名前を付けるのは父親の役目であるが、親類の連中はザカリアが口がきけないことをいいことに、勝手に父親の名前をとってザカリアと決めようとした。ところがエリザベトは断乎それに反対して子供の名前は「ヨハネ」でなければならないと語る。これは当時の習慣にはないことで、議論になる。だいたい、当時の男連中は女の意見など聞く耳を持たない。それでエリザベトは父親の意見を聞いてくれと主張し、書き板を手渡す。ザカリアはその板に「ヨハネ」と書いたという。その瞬間、ザカリアは喋られるようになった。それを見ていた近所の人たちは驚き、恐れを感じたという。

4.イエスとヨハネ
ヨハネがイエスの親戚であったこと、イエスより6ヶ月年長であったことは、ルカが独自の資料に基づいて言っていることで、もしルカがそれを述べていなければ、全く分からないことであった。6月24日が洗礼者ヨハネの誕生日(1:26)とされたのは、このことに基づいている。もっともこのことは12月25日がクリス待つということを前提にしている。
私たちは6月24日に洗礼者ヨハネの誕生日を祝うことによって、12月25日のことを思う。世の中の人が誰も気が付かない6月24日にクリスマスを思い、イエスの誕生を考える。神の働きは常にそうだ。人間が誰も気が付かない時に、神の働きは始まっている。ヨハネが生まれた時、人々は言った。「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」。人々は何かを予感していた。しかし、その予感の内容までは思いもつかなかった。しかし、その半年前、ちょうど12月下旬ころ、一人の乙女マリアがエリザベツのところを訪問したことを気にも留めなかった。しかし、エリザベトとマリアとはそこで起こったことを知っている。頭で知ってるというより、身体で知っていた。特にエリザベトは胎内のヨハネが踊ったことを知っていた。神の働きは常にそうだ。人間が誰も気が付かないときに、神の働きは始まっている。それを知っているのは、人々から子供を産めない女として馬鹿にされていた老婆であり、未婚の母となろうとしてた若きマリアだけであった。この間、ザカリアは口がきけなかった。神の秘密を知らされて男は黙るほかない。それはマリアの夫ヨセフも同じであった。おそらく、彼ら男連中はただおろおろするだけだったであろう。その意味では、ザカリアもヨセフも「女を守る」ということに専念せざるを得なかったであろう。それが彼らの使命であった。神の偉大な働きは女性を通して始まる。

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