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座談会「世界史的立場と日本」メモ2

2015-08-21 15:43:56 | 雑文

高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高による座談会の記録『世界史的立場と日本』(中央公論社)

第2回座談会 「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」 昭和17年3月4日

座談会は次のような発言で始まった。(以下、現代仮名遣いに改めている)
<註:これはあくまでの私の個人的なメモなので、全体を網羅していません。>
今回も、高坂氏の下記のような発言で始まった。

高坂:(前略)世界歴史の呼びかけが、新しい東洋の倫理を決定すると思われる。そこに世界歴史の哲学の倫理的な使命もある。この前の話のときにも、よほどその点には触れていたわけだが、何ぶん12月8日以前のことなので、特にこういふ風なものが、極く差し迫った問題にはなっていなかった。しかし今になってくると「南方圏の諸民族に対する態度というものが、のっぴきならない直接の問題になってきている。そんなような点も、前の座談会を読んでいただいた方の間で、多少、問題になっているし、我々ももっとその点はハッキリさせたらどうかという気がするのですがね。
またこの前には世界史学と世界歴史の哲学という話が出ながら、脇の問題に行ってしまったが、ああいうことをもう一遍考えてみたらどうだろうか。新しい倫理の問題とも関係するのだから。

これに対して、歴史家の鈴木氏が次のような発言をした。

鈴木:12月8日は、つまり我々日本国民が自分のもつモラリッシェ・エネルギーを最も生き生きと感じた日だと思うんですが。前の座談会で歴史の必然について議論が出て、結局必然というものは我々が手をこまねいて待っているところにあるのぢゃない、我々が主体的に動いていくところに初めて必然がある。つまり歴史的必然は主体的必然というか、実践的必然だということだったと思うんですが、そのことを僕は12月8日というものに於て特に痛感したのです。(139頁)


世界史的民族と倫理性

鈴木:現在、日本がやはりそういう世界史的使命を自覚してきた。その点いくらかヘーゲルの考えに似ているような点もあるけれども、実は違うのではないか。日本が東亜における指導性を持つことの根拠は、世界史的使命を自覚する、その自覚にあると思う。客観的に負わせられるのではなく主体的に自覚するのです。それがいわゆるモラリッシェ・エネルギーではないでしょうか。日本の歴史的倫理感であり道徳的生命力なのではないでしょうか。

西谷:僕も実はその点が大事だと思っていたんです。世界史的民族といっても、例えば現在の日本の場合は、歴史的に自覚的だということが根本的な特色だと思う。(中略)
ローマ人にしてもゲルマン人にしても、確かに世界史的民族ではあったが、世界史的民族としての自覚、世界に対する建設的自覚をもっていなかった。ところが日本はいま建設的位置に立って、そこに世界史というものの自覚をもつようになってきた。それは非常に特異なことではないか。

高坂 :同感だね。昔の世界史的民族は単に自己を世界大に拡張するだけで、他の主体を認めつつ、しかも世界の秩序を更新するという自覚はなかったと思う。そこに相違がありますね。

西谷 :さっきのモラリッシェ・エネルギーの問題に戻るが、東亜における倫理性というか、道義性というか、要するにモラリッシェ・エネルギーが具体的にはどういう風に現れるか、ということが一番の問題だね。それは根本では、支那事変の解決ということと結びついていると思う。つまり支那人の中華意識、どこまでも自分達が東亜における中心で、日本なんか自分達の文化の恩恵によって育ってきているのだという意識が、一番根本の問題ではないかと思う。その場合どうしても日本が現在大東亜の建設に於て指導的であり又指導的でなければならなかったという歴史的必然を、彼らに納得させ認識させるということが根本なのぢゃないか。そうなると今言った支那人の中華意識と衝突するが、支那自身というものが、列国の植民地に分割されないで済んだというのは、結局やはり日本の強国化、日本の努力によってだということを、支那人に自覚させる。つまり世界史の認識を支那人に呼び覚ます、それが彼等の中華意識を除いて大東亜の建設に日本と協力させる根本の道ではないか。そしてそこから大東亜におけるモラリッシェ・エネルギーの發現というか、そういうことも考えられると思う。なぜなら現在の日本の指導的役割というものは根本に於て日本のモラリッシェ・エネルギーによっている。支那の植民地化を遮ったのも日本のモラリッシェ・エネルギーだった。(後略)

高坂 :さっきモラルの争いだということをちょっと言つたのもそれなのだ。支那人は中華意識が非常に強い。これは支那の文化が優秀だということに対する優越感だ。東洋のアテネなのだ、日本というものは文化的に要するに支那の延長にすぎないと考えている。確かに日本の文化の中には、支那から相当受け入れた点があることは認めなければならない。文化という点では支那にもいろいろ優れた点がある。しかし支那人にどうしても理解してもらいたいのは、日本のモラルということ、これは決して支那からきたものではない。(161頁)


高山:模倣みたいなもので日本が偉くなったと思うのは大間違いだ。尤も日本人にさえそう考えてる人もあるにはあるが。

高坂 :単なる模倣性ではない。主体性における展開なのだ。

高山 :結局そういう支那人の考え方が満洲事変、支那事変に非常に密接な関係があると思う。支那分割を防いだのは日本なんだ。ところが支那分割を防いでいるのに、なぜ日本と支那とが本当に提携することができなかったのか。更に遡って見れば、日露戦争で日本がロシヤのアジア攪乱を防衛した。それ以来、日支はできるだけ早く、できるだけ親密にならなければならない運命に置かれていた。ところが結局、なぜ日本と支那が提携することができなかったのか。これは東亜の悲劇だと思うんだが、ここに世界史的に実に重大な問題があると思う。支那の方では日本の行動を欧米と同じ帝国主義的侵略と誤り解釈するようだが、ここに問題があるので、僕はそうは解釈できないと思う。一歩譲って帝国主義的侵略としてもなほ解釈できない問題が残る。それは日本がそういう態度をとりながら、なぜ支那分割を防ごうとしたかということだ。この日本の行動の二重性——極めて不明朗な二重性がなぜ生じたか。そこにいろいろの根拠があるが、そこに世界史的な根拠があるんで、こいつはよく研究する必要があると思う。ここが了解されないと日支の提携は難しい。それを単に帝国主義一点張りで考えるので誤るんでは、支那人は度し難いほど、世界史いうものの意識が欠乏しているというほかない。(170頁)


世界史と広域圏

高坂 :今までの歴史の考え方ということを、大雑把に言うのは危険だが、時代区分、時間的な区分には相当敏感にやっていた。ところが地城的な区分となってくると、それほどにも注意していなかったのではないか。それが現在の世界史の段階では、どうしてもグロース・ラウム——広域圏が問題となる。それについて僕はこう思う。大体今の東亜共栄圏の問題の中で、かなり重要な役割をもっている。支那問題にもそれがあると思う。従来、民族が歴史的主体として、世界史的問題を解決してきているわけだが、民族が自分自身の問題を解決した一つの著しい例が、国家を建設するということだったと言ってよい。国家を建設することによって民族は自分自身の問題を解決した。ところが現在に於ては、問題は一つの国家的民族のそれというより、民族相互の深い媒介の問題だと思う。それには他のいろいろの契機もありはするが、そこに従来の問題と多少違う問題が出来て来ていて、それがグロース・ラウムの問題、広域圏の問題を必然的なものにしているのではないか。そういう気がする。

高山 :少し疑問があると思うね。広域圏とか共栄圏とかの成立してくる歴史的必然性は、民族問題のみからだらうか。もっと経済的な問題からも・・・・。

高坂 :のみではないが、相当重要な契機をなしている。でないと歴史の主体性がぼやけてしまう。

鈴木 :広域圏という観念が、経済圏即ち経済自給圏の観念、自由貿揚に対するアウタルキー(自給)の経済理論から出てきたというところは確かにある。広域観念がまづ経済自給圏から出てくるということには、歴史的にも必然性があるんですね。自由主義経済が本質的に行詰ってきて、その末1929年から1931年の世界不況となった。世界不況というものの中から、資本主義の救済策として、あるいは資本主義の強化方策としてブロック経済ということが考えられてきた。まづ英帝国がそれをやった。1932年のオツタワ協定がそれで、あれだけの大きい資源と広い流通圏を持った帝国がブロックに閉ぢ籠もったのだから、世界の流通経済に大障碍を起した。これが世界の各国がアウタルーキーというもの、即ちそれぞれの自給圏を持とうという動きを刺載して35〜6年頃の段階にそういう議論が盛んになってきた。それは非常に大きい必然性があったと思うのです。日本でもやはり日・満・支経済ブロックがまづ考えられ、それだけでは自給性がないというので更に南方圏の問題が起ってきたという面は大いにあったでしょう。ともかく広域圏の基本概念には経済関係が根本をなしていたのが、あるいは寧ろ必然的なことであるかも知れない。しかしですね、そこにどうも民族観念や倫理観念が少し欠けすぎていはしないか。東亜共栄というものも、資源のみを考えるということではいけないので ・・・・。民族圏という観念、あるいは理論が欠けてやしないか。そこに欠陥があると僕は思う。各々その所を得しめるというのが空な言葉になってしまってはいけない。そういう点からみて民族に対する研究、学者の研究だけでなしに国民大衆的な理解が必要だし、また倫理性の理論がなくてはならないのではないか。

高坂 :全くそうだと思う。高山君の言はれたのもよく解るが、いま鈴木君の言っておられた経済自給という場合には、自給する単位、主体になるようなものを考えないと、自給という言葉の意味がハツキリしてこないと思う。自給の主体性なるものは何かというと、これはよほど民族的な意味相のものが入ってくると思う。尤も、それと共に「民族」というものの意味が変らなければならないのだが。(183頁)

「家」の倫理

高山 :今日の八紘一宇というのは『神武紀』に出てくる八紘為宇に新しい生命をもったものとして考えていくことは極めて意味があると思う。
そうなると「家」という問題に帰着する。家というものの倫理的な構造というものが、やはり親が子を育て指導するという風な意味で、人倫の倫理の最も根本的な原型をなしているわけだね。そういうところに八紘一宇と賢哲政治と所を得しめるということとが結びつく一番直接的な形があるのでなかろうか。もし、そういうことが言えるとするならば、家というものの構造——僕は単なる社会制度としての家族から区別するため、わざと「家の精神」といっているが——家の精神というものが非常に問題になってくるね。家の精神というものは勿論、家族の中に典型的に現れいるものをいうのだが、単に家族だけに限らなず日本の国柄というものの中にも、さらに、家族以外のいろいろな社会の中にも生きていると思う。
(中略)
そうすると、そういう家の精神が基本となって、教化とか啓発とかいうようなものを基礎とした倫理が考えられる。それは家の倫理だが、社会を構成する倫理ともなる。(中略)今日、盟主と言はれるようなものも、倫理の拡大されたものとなっていく。そうすると世界秩序の新しい原理とか精神とかいうものも、日本の精神に結びついているということが言えてくると思う。(228頁)


西谷:ただその際、大東亜共栄圏の新しい倫理と八紘一宇の理念というようなものとの連関を考えるとき、根本に、「家」といわれるものの意味がやはり一つ問題になるんぢゃないか。例えば「家」にも昔の家長的な形態のものもあれば、反対の極端には現在のヨーロッパなどに見られるような、よく言ヘば人格主義的、悪くいえば個人主義的な形態もある。つまり個人に先立って全体性としての「家」そのものが実体的に考えられて、個人に対する「家」の優位が家長の構成として現れている場合もあり、逆に個入が実体的と考ヘられて、家はその個人間の結合でしかない場合もある。

高山 :親子中心より夫婦中心だね。

西谷:そうだ。つまり家の形態も、国家と同様、全体主義的にも自由主義的にも成り立ち得る。それで「家」が本来如何なる本質のものであるべきかが問題となる。だから、八紘を宇と為す時のその「いへ」というものが、どういう構造のものでなければならないか、それは八紘一宇ということだけに一層問題となる。それは、日本だけの自己拡大という意味で日本が他の一切の民族を被うという風に解されることも可能だし、他方の極端には日本の指導性を少しも考えずに、極く表面的な意味での共存共栄、只の平面的な並存とも解され得る。ゲノッセンシャフ的な関係は非常に具体的だとは思うが、それでもなお日本の指導的な立場の問題が引掛ってくる。そこにつまり、八紘一宇ということが巌密にはどういう構造の連関を意味すベきかが非常に問題となるところがあると思う。

高坂 :それはやはり東亜共栄圏というようなものを考える場合に、それがこの世界史的な必然性に基いて現れてきているところの歴史的なイデー、歴史的な理念、あるいは世界史的な当為——どう言ってもいいが、とにかく非常に歴史性をもっているものだということを認めることが、この問題えの一っの解決の手掛りを与える所以ぢゃないか。 ただこの八紘を一つの宇と為すということは、それを抽象的に考えるとすれば、そこに親と子という闘係が成り立たない。親と子が考えられるときには、そこに歴史的な一つの順序のようなものがあって初めて親と子ということが言えるのだ。親と子では、同じ時間に在りながら、しかも歴史的現実に於ける位置が違ふ。そこに導くものと導かれるものの区別がある。東亜共栄圏を考える場合でも世界史的な時間に於ける位置づけというようなものの違い、そこから導くものと導かれるものとの区別が起ってくるのではないか。つまり八紘一宇ということは、各々をして所を得しめるということなのだが、その「所」というのには、歴史的な位置づけの意味がある。無論、「所」というのは一応空間的に解釈していいわけだが、それとともに、世界史的な意味での「所」なので、世界史に於て所を得しめるというような意味がよほどある。そこから言うとこういうような関係でずうっと押していけるものが東亜共栄圏の中にも見られるのではないか。これは必ずしも一方的に日本がただ広がっていくというようなものでもないし、そうかといって逆にすベてがただ平面的に並んでいるというような意味での一つの宇というようなものでもない。そこにある秩序なり組織なりをもったものが、東亜の全体として可能になってくる。そういったような新しい理念の下に、非常に多くの民族を一つに統合した共栄圏というような形のものは、過去の世界の歴史の中で恐らく考えられたこともないだらう。単なる個人個人の平等を考えるというような意味の理想は過去に於て抱かれたことはあるけれども、いろいろな民族をして所を得しめてくる、というような理想は、従来西洋に於てはなかったんぢゃないか。そこにも新しい東亜共栄圏の理念というようなものが、家という考え方とよほど結びつけて考えられている、というような点があると思う。

高山:ヨーロッパの家族は個人主義的立場のもので日本のとはよほど違ふ。個人主義的になれば親子中心から夫婦中心に傾いてゆく。しかしこの傾向を進めてゆけば、実は家族というものは解体してなくなる筈だ。男女が好き勝手にくっつく。生れた子供は親が育てないで国家の育児院が育てる。こうなっては「家」というものはなくなると言はねばならない。人間の種は絶えないだらうが、「家」はなくなる。しかしこんなことは望ましい社会状態ではない。(中略)
この「家」から親子開係を消し去るわけにはいかない。家はやはり親子という世代の違ったものからでき上る。それから兄弟というようなものでも、長幼という違いがある。男女の違いがある。勿論、夫婦というものは違った機能のものとしてある。そして、各々違った技能、職分、天分で、連った能力が与えられていて、しかもそれが一つの全体的な統一を完成するものとして各々調和する、単に同じものがアトミスティックに集まって加算的な総体をなすというのでなくして、違ったものが結びつきながら補足し合って一つの調和ある全体を造って行く。こういうことが「家」と言はれる限りの根本の原則になるので、やはり本当の和というものはそういう形のものでできるのではないか。(中略)
そうすると、ここから抽象的ではあるが、本質的なものとして倫理の一般的原則というものを考え得るようになる。そしてこれが種々の特殊な社会の特殊原理と共に、倫理的原則として拡充され、現実の社会を規制することができるようになると思う。そしてやがては民族間の世界新秩序の構成原理にも拡充されていくということが考ヘられるので、丁度世界史的な条件とそれからこういう倫理の根本原則とが本当に綜合されたところに、今日の新秩序を建設する具体的な原理があるのではなかろうか。(236頁)


文屋註:この回の最後の締め括りの部分は非常に危ない議論になっているので、匿名化することとする。

A:僕、一つ言いたいことがある。全然別な問題だが、大東亜圏を建設するのに日本の人口が少な過ぎる。何年かの後に日本が一億何千万人かにならなければやっていけない、ということが問題になるわけだが、その際、大東亜圏内の民族で優秀な素質をもった者を、いはば半日本人に化するということはできないものかと思うんだが。それも支那民族とか泰の国民とかは、固有の歴史と文化をもったものだから、これはやはり一種の同胞的な関係で、半日本人化ということはやれない。またフィリッピン人のように自分の文化というものは何ももたずに、しかも今までアメリカ文化に甘やかされてきた民族というものは、恐らく一番取扱いにくい。それに対して、自分自身の歴史的文化をもっていないが、しかも優秀な素質をもった民族、例へばマライ人なんか、よくく知らないが相当優秀な ・・・・。

B :インドネシャンでしょう。

C:そう、とにかくなかなか優秀な素質をもっているとも聞く。ハウスホーファーなんかマライ族を貴族的民族(アーデル・フォルク)と言っている。日本人にもその血が混入しているというんだ。尤も日本人は治者的民族(ヘルレン・フォルク)だろうがね。で、ああいう民族とか、フィリピンのモロ族とか——受け売りの知識だが、モロ族などもいいそうだ——そういう素質のいい民族を少年時代からの教育によって半日本人化するということはできないかと思うんだ。例えば高砂族なんか、教育されれば日本人と変わらないようになる、という話を聞いたが、どうかね。半日本人化というのは精神的に全く日本人と同じようなものに育てるという意味だが、それが日本人の数が少いということに対する一つの対策となると同時に、彼らの民族的な自覚、乃至は彼らのモラリッシェ・エネルギーを喚びおこす、そういうための一つの方策としてどうだろうと思う。全くの素人考えで突飛だが・・・。

D:日本人の数が少いからと言ってもいいんだが、——同じことなら寧ろ、現在の世界史的な使命を実際に担って遂行していくものの数が少いから、と言った方が何だか穏当ではないか。

E:僕もその方が正しいのではないかと思う。

F:また他民族に対する具体的政策も、それぞれの歴史的な段階に即してやらないと非常な誤謬を犯す危険があるから、よほど注意を要するね。要は、世界史的な所を得しめるということだね。

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