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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/11/30~12/06

2014-12-06 08:14:46 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/11/30~12/06

2014日々の聖句 11月30日(日)
主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。(イザヤ40:13)
キリストの言葉:わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。(黙示録22:13)
私の黙想:
今日は教会暦の初日である。教会から新しい年が始まる。私たち人間にとって、この年がどういう年になるのか、ある程度予測を出来たとしても、全体については知り得ない。しかし神の中ではすべてがもう既に決定されているのであろう。もし、それを私が知り得たとして(『主の企てを知らされた」として)、今、私は何をどうしようとするのであろうか。実は何もできない。もし何かできることがあるとしたら、ただそれをすべて無条件で承認に受け入れるだけである。それだからといって、私の態度決定によって、神のご計画が変更されるわけではない。すべては私の内部での問題である。
今日の聖句、口語訳は面白い。「だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか」。どこが、どうなって、この翻訳の差が出て来たのであろうか。文語訳を参照すると、口語訳はほぼ同じ文章になっている。新改訳は更に面白い。「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか」。まるで大統領や首相の演説を誰が書いたのかというようなニュアンスである。フランシスコ会訳では一寸カーブをかけて「誰が主の霊を測り、その助言者として主に指図したのか」。裏で「指図した」者がいると言わんばかりである。まるで高級官僚の仕業だと言わんばかりである。勿論、ここでは、そんなものはいないということを強調しているのであるが、言葉としてはそういう含みがある。新共同訳は、そこら辺の事情を勘案した翻訳(解釈)なのであろう。ともかく、ここでのメッセージは、初めから終わりまですべて主がお決めになっているのだから、あんたの出る幕はないよ。年頭に際して、このことだけは肝に銘じておけ、ということであろう。

2014日々の聖句 12月01日(月)
主はあなたの呼ぶ声に答えて必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。(イザヤ30:19)
天使はコルネウスに言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」(使徒言行録10:4)
私の黙想:
今日の聖句の鍵は「必ず」と「直ちに」、特に「直ちに」がポイント。主は、私たちが「声を出したら」、「必ず」「直ちに」反応してくださる。ここで強調されている点は主の反応の迅速性である。フランシスコ会訳では「聞くやいなや」と訳されている。何故、そのことが可能なのかということが18節に述べられている。これは面白い。「主は(私たちの叫ぶ声を)待っている」という。主の方が「待っている」。フランシスコ会訳、新改訳では「叫び声」と訳しているが、その前に「泣くことはない」という言葉あるので、それほど大声でなくてもいいのであろう。小さな声でもいい。ただ一言「助けて」といえばいい。いや、「助けて」という言葉でなくてもいい。ただ「声」を発すればいい。何しろ、主の方が私たちの「声」を待っておられる。
昨日からアドベントが始まった。アドベントは「私たちが待つ」季節であるが、実は私たちが待つ前から主の方が「待っておられる」。18節は面白い。主が待っている相手は「主を待ち望む者」である。ここに「待つ」ということを挟んで、主と私たちとが互いに響き合っている。

2014日々の聖句 12月02日(火)
神を畏れる人は皆、聞くがよい、わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。(詩66:16)
パウロの手紙:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。(1テサロニケ2:8)
私の黙想:
「物語ろう」という訳が目につく。口語訳では単に「告げよう」、フランシスコ会訳、新改訳は「語ろう」、文語訳は「のべん」。「物語ろう」という訳語は旧約、新約を通じてここでだけ用いっれている訳語である。それほど特殊な動詞なのだろうか。ヘブル語では「サファール」、それほど特殊でもない。興味深い用例としてはエジプトの王が不思議な夢を見る。例の7年の豊作と7年の飢饉の夢であるが、その夢の意味がわからず「エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した」(創世記41:8)。この時の「話した」が同じ動詞である。もう一つの例は、モーセが十戒を与えられたいきさつを語る場面(出エジプト24:3)でもこの動詞が用いられている。新共同訳ではその場面では「(民に)読み聞かせた」と訳されている。あれや、これや考え合わせると、この動詞はかなり重要な場面での一定の長さのある演説を想像させる。いわゆる「歴史的演説」のようなものであろう。
今日の聖句でもヘブル語原文では15節までと分離して、16節の冒頭の「来たれ、聞け、私は語る」という厳かな宣言で始まる。
ここで変なことを思い出す。関西地方の盆踊りの定番「河内音頭」の冒頭の言葉である。
♫エーさては一座の皆へ、ちょいと出ました私は、
おみかけ通りの悪声で ヨホーイホイ
まかり出ました未熟者お気に召すようにゃ、読めないけれど、七百年の昔より唄い続けた河内音頭にのせまして、精魂こめて唄いましょ
ソラ ヨイトコサッサノ ヨイヤサッサ♫
この言葉で始まり、延々と「物語」が続く。それを聞きながら、その廻りを30分も1時間も、同じ動作で黙々と踊る。私は、この河内音頭に乗せて踊る、「盆踊り」が好きで、30分も踊っていると一種の忘我状態になる。ああ、私はまた、脱線してしまいました。
今日の聖句にはそのような雰囲気がある。

2014日々の聖句 12月03日(水)
主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。(詩28:7)
マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46~47)
私の黙想:
今朝はつまらないことを考える。新共同訳では「寄り頼む」「助けを得て」「喜ぶ」。口語訳では「助けを得たので」「喜ぶ」となる。文語訳では「寄り頼みたれば」「助けを得たり」「われ喜ぶ」、フランシスコ会訳、新改訳では「寄り頼み」「助けられた」「喜ぶ」。つまり何が問題かというと、文章として「寄り頼む」で一旦切れて、「助けられたので喜ぶ」という流れ(新共同訳、口語訳)と、「寄り頼んだので」「助けられた」(文語訳)。その結果として喜んだのか。あるいはこれら3つのことが、特に「因果関係」がないのか。まぁ、どうでもいいようであるが、信仰生活における日常性と特殊性との関係をうかがわせる。
「苦しい時(困った時)ときの神頼み」という言葉がある。普段は神のことなど全く意識していないが、自分では解決できないような困難に直面した時に神に祈るということを言った諺であろう。それはそれとして重要な事だし、そういう態度は決して否定されるべきではない。しかし、それよりももっと重要な事は普段から「神頼み」して生きている者にとっては、実はいかなる困難にお直面しても「おろおろ」しない。ただ、結果として「神さまがあの困難を乗り越えさせてくださった」のだということを経験した時、「私の心は喜び踊る」。その最高の模範がイエスの母マリアの姿勢であろう。実はマリアは「まだ」困難に直面していない。これから起こるであろう「耐え難き困難」を、もう既に「喜びたたえている」それがマリアの賛歌の凄さである。

2014日々の聖句 12月04日(木)
ボアズが農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。(ルツ2:4)
ヨハネの手紙:あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。(3ヨハネ15)
私の黙想:
今日の聖句の登場人物は旧約も新約も仰々しい。旧約はルツの再婚相手ボアズ、新約は謎の人物ヨハネ。しかし内容は単純に「挨拶」だけ。こういうのが聖句になるのか。ということで、今日の私の黙想は「挨拶について」。
家内が入院してまだ3日目だというのに私にはいろいろと大きな変化が起こっている。一つは朝、エレベーターに乗って郵便受けまで新聞を取りに行くこと。それとゴミを出すこと。ということになるとどうしてもマンションの隣人たちと顔を合わせることになる。そうすると挨拶をする。家内の方は4人部屋の病室でたまたま同室になった同室の他人と挨拶を交わし、いろいろなことを喋っているらしい。私と家内とのひそひそ話も聞こえるらしく、いろいろ話しかけてくる。
私も家内も突然、思いもしない人々と挨拶を交わすことになる。人間は「挨拶」なしでは「共に生きる」ということが成り立たない。こちらの気分、あちらの気分がどうであれ、顔を合わせれば挨拶する。この挨拶にお互いの全人格が凝縮されて何らかのメッセージが伝えられている。挨拶がなければ、無視ということになり、少々大げさに言うと「敵対関係」ということになるし、最初の挨拶で友好関係が始まる。
今朝の聖句のボアズと農民たちの挨拶は興味深い。これが初対面とは思えないが、両者の間に「主」が介入している。両者をつなぐ第3者として「主」がおられる。「主」が両者の共通の土台になっている。新約制の聖句の方でのヨハネの挨拶の共通の土台は「友人たち」である。勿論、ここでは「主にある友人」であろう。
見知らぬ者同士の挨拶も何ら形の共通の土台の上で成立している。そしてお互いに挨拶を交わすことによって、共通の土台が深まっていく。見知らぬ者同士の関係は挨拶であ始まり、挨拶によって深められ、豊に人生が展開する。

2014日々の聖句 12月05日(金)
ヨセフは兄弟たちに、「途中で、争わないでください」と言った。(創世記45:24)
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(エフェソ4:3)
私の黙想:
今日の聖句の背景にある物語は省略する。要するに事の真相が明らかになった後の起こる「責任のなすり合い」に対する警告の言葉である。
戦争責任、原発事故の責任、経済破綻の責任等々、人間の行為には必ず責任が伴う。たとえ結末が良かったとしても、そこに至る発端で起こった出来事に対する責任追及が始まり、それが新しい争いの原因となる。ヨセフはそのことを見通している。
この言葉を語るヨセフの視点は50:19~20に次のようの述べられている。<ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」>。
これが創世記における「ヨセフ物語」の歴史観である。私の黙想は飛躍する。これはイエスの歴史観に直結しているように思う。

2014日々の聖句 12月06日(土)
どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分ものである部族として贖われた民を。(詩74:2,新改訳)
イエスの言葉:陰府の力も私jの教会に対抗できない。(マタイ16:18)
私の黙想:
ローズンゲン(日本訳)に新改訳が登場したのは今日が初めて。なぜ新改訳なのか。新共同訳では「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を」となっており、口語訳では「昔あなたが手に入れられたあなたの公会、すなわち、あなたの嗣業の部族となすためにあがなわれたものを思い出してください」となっている。参考にフランシスコ会訳では「み心に留めてください。昔あなたが手に入れられた群れを、贖われご自分のものとされた部族を」。どの訳でも意味は明瞭である。ここでは、どの翻訳がいいのかということを問題にしているのではない。おそらく新改訳がドイツ語聖書に最も近い訳なのであろう。たしかに、新改訳が最もスッキリしている。
詩人は「神から見捨てられた」と思われる状況の中にある。ここで問題になっているのは「シオンの山」つまりエルサレムの神殿が「敵」によって破壊され、蹂躙され、廃墟になっている状況である。11~12節は悲痛な叫びである。「なぜ、手を引いてしまわれたのですか。右の御手は、ふところに入れられたまま。しかし神よ、いにしえよりのわたしの王よ。この地に救いの御業を果たされる方よ」(新共同訳)。
このような苦難の中にあって、「昔から(幼い頃から)、私はあなたものだ」と叫ぶ相手があることは幸いだ。

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