ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第19主日(特定23)(2017.10.15)

2017-10-13 13:24:50 | 説教
断想:聖霊降臨後第19主日(特定23)(2017.10.15)
涙をぬぐう神 イザヤ25:1-9

<テキスト>
1 主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。
あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
2 あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。
永久に都が建て直されることはないであろう。
3 それゆえ、強い民もあなたを敬い、暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。
4 まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、
暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、
5 乾ききった地の暑さのようだ。
あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる。
6 万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7 主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、
8 死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。

<以上>

1.この主日の福音書
この主日の福音書は、マタイ22:1~14で、ここでは王が王子のために開催した婚宴での出来事がのべられている。王が招いた人びとが何だかんだと理由を付けて婚宴に出席しない。それで王はそれらの人びとを滅ぼした、という。実に乱暴な話である。それで王は家来たちを町に向かわせ誰でもいいから集めてきて宴席を満たせと命じた。家来たちは命令に従って人びとを集めてきたが、王は婚宴の席に出て来てみると町から集められた人びとの中に一人だけ礼服を着ていない者がいるのを見つけて、怒り、その人を追い出してしまったという。話はもっと残酷であるが、ぜんんたあいとしても無茶な話である。教会でこれを説教する場合には、上手に残虐なところは誤魔化して美しい話に仕上げるが福音書では酷い話になっている。
さて、今日の福音書と旧約聖書とではどんな関係になっているのだろうか。共通点らしい点は両方とも王が主催する宴会だと言うだけである。

2.イザヤ25:1~9
今日の旧約聖書は、神は世界の弱者のための砦になってくださるという詩である。強大国は栄え、弱小国は強大国の餌食にされて滅ぼされる、というのが常識的な歴史観である。ところが、現実の歴史を見るときに、かえって強大国が滅び弱小国が栄えるということが起こっている。それを詩人は「驚くべき計画」(1節)だという。2節にはその状況が具体的に描かれている。「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた」。この異邦人の館とは強大国の占領軍の施設を意味しているのであろう。日本で言えば、アメリカ軍の基地のようなものであろう。強大国が滅びる一つの象徴として「基地」が撤去されることを述べている。叙述は実に具体的である。3節が面白い。現実の歴史ではそういうことがしばしば起こるから、威張り散らしている強大国でも、本当のところは神を怖れ、盛大に神を祭り、讃美をしているのだという。
4節〜5節では神が強大国から弱小国を護り、弱小国の砦になってくださるという。「核の傘」などという言葉があるが、強大国の軍事力に依存し、奴隷化されるということで、それで本当に安心できるのだろうか。詩人はいう。不法者国家の乱暴を防ぎ、本当に安心できるのは、「神の傘」なのだ。
6節以下の部分では、弱小国のために開かれる神のパーティの情景が描かれている。まさに詩23編のが高らか歌うように「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」(詩23:5、口語訳)という情景である。

3.歴史観
さて、ここの文脈で注目すべきことは、これを語る文章がすべて「過去形」であるということである。ここで述べられている「都」がどこを指すのか具体的に特定できない。しかし、そんなことが重要なのではない。現在、誰でも「堅固な都」であると信じているその「都」が人間が住まない廃墟になり、二度と再建されることはない、と語られているのである。つまり現在のことを過去形で語っている。
イエスが、豪壮なるエルサレムの神殿の建物を指さしながら、「一つの石も、ここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタイ24:2)と嘆かれた情景に似ている。イエスもまた、「終末に日」の視点から現実の神殿を見て、語っておられる。これがここで「過去形」が用いられている理由である。こういう見方を「終末の先取り」という。私たちも現実を見るときに、こういう視点から見る必要がある。こういう見方をすると、現実が全く違った風景となる。

4. イスラエルの現実
預言者は常に歴史の彼方、歴史が向かう方向から現実を見ている。はっきり言って終末から現在を見る、これが預言者の視点である。すると今まで見ている現実が全く違った姿として見えてくる。確かに、イスラエルは弱小国家である。外国の勢力が侵入してくると抵抗する力もない。従って、民衆の生活は苦しく、貧しく、苦難に満ちている。少し、天候が荒れるとたちまち民衆の生活は破壊されてしまう。それが現実である。しかし、終わりの日から見ると、神が「弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰」(4,5節)であることが分かる。歴史の上から消えてしまいそうで、決して消えない。むしろ、今豪勢な連中が歴史からは消えていく。これが歴史の真実である。現実を現実からだけ見ているとそれが見えない。しかし、歴史を終わりから見るとその現実がはっきりと見えてくる。
9節の「待ち望む」という態度は、この視点に立つことを意味している。終末論とは、今の視点から将来を望み見るのではない。むしろ、将来の視点から現在を見るのが終末論である。預言者イザヤはかつて「待ち望む」ということについて、このように語る。「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける」(イザヤ8:17)。今は主の御顔は見えない。見えないから無いのではない。主が御顔を現した将来から、今を見ると、主のみ顔は隠れている。つまり、顔を隠しておられる主が見える。信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することで」(ヘブル11:1)である。

4.「涙をぬぐう」
この詩の中でとくに私たちの目を惹く言葉が9節の「主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」という言葉である。この「涙をぬぐう」という言葉を読んだとき、もう一つの言葉を思い出す。ヨハネ黙示録に「涙をぬぐう」という言葉が2回出てくる。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(7:17)。もう一つは21章の「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものはは過ぎ去ったからである」(21:4)。この言葉は終末の日についての、最も美しく、最も完成された表現である。ここにも「涙をぬぐう」という表現がある。「涙をぬぐう」とは一つの(悲しい)状況が終わり、新しい状況が始まることを意味している。神のことを「涙をぬぐう方」、暖かい神、心優しい神、おそらく私たちの涙をぬぐう神は、そのとき同時に涙を流して居られる神であろう。神をこのように描いているのは聖書においてもイザヤ書とヨハネ黙示録だけであろう。

《大丈夫今の苦しみ報われる、我らの主は涙をぬぐう神》

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