ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

危険な末世観──息子への回答──

1982-10-07 17:33:20 | 雑文
危険な末世観──息子への回答──
全く変な時代になったものだ。わたしが小学6年生の頃、あるいは中学生になっていたか、ともかく、その当時、母から興味深く聞いていた話を、また中学3年の息子から聞かされようとは想像もしていなかったのだ。それを話していた母はもういない。しかし、あの時の熱っぽい語り口は今でも忘れることは出来ない。エゼキエル書やダニエル書、特にヨハネ黙示録の多くの謎めいた言葉や象徴を従横無尽に結び合わせて、宇宙の始まりから終末までの全歴史を説明するのであるから、夢多い生意気ざかりの少年には興味がなかろうはずがない。母は色々図表を描いたり、年表を並べて、夜おそくまで語り、息子は息を弾ませて開いたものだ。
わたしが聖書にはじめて興味をいだいたのも、それがきっかけであったと言ってもよいと思う。クライマックスは、なんと言ってもキリスト再臨のシーンとそれに続く千年王国物語である。ラッパの音と共に、栄光のキリストが天使に囲まれ、雲に乗って再来される、と言うのである。話がここまで来ると、生意気ざかりの少年の口からは一挙に様々の疑問が出て来る。すると、母は「そんな事、わたしにわかるはずがないじゃないの。それをつきとめるのが、あなたの課題なのよ。でも結局人間にはわからないことがたくさんあるのよ」と述べ、座が白けないうちに、話は最後の審判のシーンに続く。少年は素朴な疑問を圧殺し、むしろ神話化していく話の力に引き込まれていく。
そういう話を聞いた夜など、わたしは興奮して眠られないときもあったように記憶している。この種のレクチャーを何回かくり返し聞かされているうちに、わたし自身の方が母よりも、もっとうまく説得的に話せるようになったように思う。
こういう物語は決して全てが神話なのではなく、所々実にリアル(現実的)なのだ。だからおもしろいのである。例えば、黙示録の2章、3章に出て来る7つの教会などは、それらを時代的に並べて、初代教会から現在に至る全教会史にあてはめると、気味が悪い程ピッタリと符合する。そうなると、黙示録は「未来予言の書」ということになってしまうのである。
中学3年の息子から、ダニエル書、エゼキエル書、ヨハネ黙示録など、聖書の黙示文学について、むしろ専門的とも言えるような質問をされた時にはショックであった。しかし、その時にはまだそれは息子だけの例外的な関心かと思っていた。しかし、四日市聖アンデレ・センターに出入しているノンクリスチャンの普通の青年から「先生、聖書研究会を開いて下さい」と言われ、息子と同じような質問をされ、さらに同労の牧師たちに問い合わせたところ、いずれも、ほぼ同様な経験をしていることを知り、書店をのぞいて見ると、「ノストラダムスの予言」、「黙示録の大破局」、「惑星大予言」などなど、いかがわしい類書がキラビヤかに並べられているのを見て、わたしは思わずゾーとした。聖書が占星術や手相の本と同じように「未来予言の書」として読まれている。
なんとかして未来を予知したい、というのは人類のはじめからの願望である。そのために色々な試みがなされて来た。ある意味では自然科学も、哲学も、宗教もそのための努力の遺産であるとさえ言えると思う。他人より少しでも早く未来を予知するということは、それ自体非常な価値となる。時にはそれによって決定的な危険を回避することが出来る。また、時には人をだしぬいてぼろもうけをすることも出来る。
しかし、この事は同時に人間の歴史というものの本質を示唆している。人間の歴史は、ある程度の未来予測とそれに対する対応との綜合として形成される。従って、絶対的にこうなるという予知は不可能なのだ。
旧約聖書の預言者ヨナの悲劇はここにある。神はヨナに「ニネベの町を滅ばす」と町の人々に言わせた。ヨナはそんなに恐ろしいことを人々に語れない、と思い逃げまわったのであるが、ついに捕まり、ニネベの町で「四十日を経たらニネベは滅びる」と予言してまわった。ところが、それを聞いた町の人々は非常に恐れ、悔改め、それを見て神も予定を変更し、ニネベの町は滅びなかったのである。
人間の社会というものはそういうものなのだ。従って歴史的ということは必然的でないということであり、絶対的でない、ということ、つまり相対的であるという意味なのである。
ユダヤ人であるカール・マルクスも人類社会の経済構造を歴史的に分析し、誰が歴史を担うのかという点から、人類史の行方をかなり明確に予測した。マルクスの唯物史観というものは、人類史を「科学的」に把えるという点では、確かに金字塔と言われるに価する業績である。それはまさにユダヤ的伝統に立つ預言者約業績と言ってよいと思う。ところが、このマルクスの著書が優れていればいる程、それによって覚醒された人々は資本主義の発達によってもたらされた恩恵によくしていない人々(労働者)の生活改善のために献身的に働く、というようなことがなされる。ロバート・オーエンを先導とする社会福祉運動がそれである。こうなると、マルクスの予言はかならずしもそのままではあたらない、というような状況が生まれて来る。ヨナの悲劇はマルクスの悲劇でもある。
黙示録的終末論の危険性は、コンピューターによってでも把えられ得る大宇宙の運行状況と、人間の営みとしての歴史とが奇妙に組み合わされているところにある。大宇宙の運行はまさに必然の世界に属している。そのような必然的運行の中で、1999年の8月に地球のはるか上空で、惑星が十字の形に配列されるという。それが「大十字」と呼ばれるらしい。しかし、そのことによって何がもたらされようとも、それに対して人間は何も出来ない。
むしろ、わたしはこう思う。とてつもないスケールの大宇宙の運行を限られた人間の知識で把えると何か整然とした印象を受けるが、むしろ実際は、数限りないバランスのくずれにより、たえず破滅がくり返されており、現在わたしたちが知っている宇宙もたえず破滅の危機にさらされつつ、かろうじて保たれているのではなかろうか。その意味では、地球が今も保たれている方が不思議であり、奇跡であり、神の恵なのだ。
だからこそ、あえて言っておかねばならないことは、今や人類はこの宇宙の運行に何らかの影響を与えるかも知れない程の破壊力をもつエネルギーを手に入れてしまったという事実である。終末(人類史を終らせる出来事)は宇宙の彼方からやって来るのではなく、人類の手から出て来る可能性がでてきた。その意味では、大宇宙の破局というような終末的出来事も、もはや神話ではなく、さしせまった現実的である、ということは事実である。
だからこそ、このような課題を占星術的、黙示文学的、他律的なものとして危機感をあおり、青少年たちをまどわし、退廃的あきらめへと導く風潮は危険である。
(1982.10)

最新の画像もっと見る