ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

教会暦について

2016-12-13 08:35:27 | 雑文
教会暦について
1997年12月から2001年11月までの間に、いろいろなところで書き散らしていた教会暦についての雑文をまとめて一つの文章としました。
(12月)
●教会の1年は「降臨節(アドヴェント)」から始まります。だいたいは11月の終わり頃か12月の初め頃から「降誕日」(12月25日)までの4回の日曜日、礼拝の祭色には紫色になり、聖餐式では「大栄光の頌」を歌いません。「アドヴェント」という言葉のもともとの意味は「来臨」、つまり「救い主がこの世に来られる」ということを意味し、アドヴェントの期間は「来臨を待ち望むこと」が主題となります。キリスト教では、神への信仰の本質を「待つ」ということに見出しました。神もわたしたちを待っているし、わたしたちも神を待っている。そこに愛があり希望があります。
●クリスチャンホームではクリスマスに向けて、お部屋の掃除や、飾り付け、ツリーやプレゼントやケーキ作りをいたします。この期間の特別なカレンダーがアドヴェント・カレンダーと呼ばれ、1日1日、日めくりをして、クリスマスを待ちます。
●クリスマスといえば、ケーキと言われます。しかし、ケーキにもいろいろあります。日本ではイチゴの入ったクリームケーキが一般的ですが、ドイツでは「シュトーレン」、フランスでは「ブッシュ ・ド・ノエル」と定番化されています。ブッシュ・ド・ノエルは薪の形から、赤ちゃんを寝かせている暖かいお部屋を想像させます。シュトーレンは、その形が産着に包まれた赤ちゃんの姿に似ていることから、クリスマスのお菓子になったと言われています。ドイツではアドヴェントが始まると各家庭においてシュトーレン作りが始まり、クリスマスに家族そろって食べます。各家庭において作り方や内容に変化があり、「おふくろの味」として、子どもたちの心に残るとのこと。2月か3月ごろまでもつので、寒い冬の間のお菓子ともなります。
●21日は「使徒聖トマス日」です。が、「疑い深いトマス」とあだ名が付けられました。しかし、12月21日は12使徒の一人聖トマス日です。聖トマスは主イエスが復活されて弟子たちに最初に現れになったとき、あいにくその場に居合わせず、主イエスが復活されたことを信じませんでした。そこで「疑い深いトマス」という不名誉なあだ名を頂戴しました。しかし、1週間後、再び主イエスが弟子たちに現れたとき聖トマスも居合わせ、そこで初めて主イエスの復活を信じました。信じてからの聖トマスの活躍はめざましく、ペルシャ地方や遠くインド方面まで足を伸ばして伝道したとされ、現在でもインドでは使徒聖トマスによってキリスト教が伝えられたと信じられているとのことです。
●24日はクリスマス・イブです。世の中ではイブを誰と過ごすかということがテーマとなっているようです。
●ローマでは、農業神サターンの祭り「サトゥルナリア」が12月21日から31日まで行なわれていた。この祭では饗宴、性的放縦、贈答品の交換、「幸運の贈り物」などの風習があったようである。特に12月25日は冬至で「太陽がよみがえる日」として、祭のクライマックスであった。この習慣がローマの軍隊が進軍する地方へと広められ、ヨーロッパの各地に伝播したものと思われる。
●初代キリスト教の指導者たちは、キリスト教がヨーロッパ各地に広められたとき、この「サトゥルナリア」の祭を主イエスキリストの降誕と結びつけ、「キリストの祭(クリスマス)」が成立したといわれる。キリスト教でも救い主は「義の太陽」とされていたのでこの結合にはほとんど抵抗はなかったものと思われる。
●クリスマスの日付は、キリスト教初期には一定しておらず1月6日、3月21日(春分)、12月25日など、様々であったが325年のニケア公会議で12月25日ということで統一された。しかし、ニケア公会議の決定に反対するギリシャ正教会では今でも1月6日がクリスマスである。ローマ教会では、(東方教会と調整するために?)1月6日を「顕現日」とし、12月25日から1月6日までを特別な「12日間」といたしました。これがクリスマス・シーズンです。
●クリスマスから、最初の「殉教者聖ステパノ日」(26日)、「福音記者聖ヨハネ日」(27日)、「聖なる幼子の日」(29日)と祝日が3日間続きます。聖なる幼子というのは、主イエスの誕生の際、暴君ヘロデ王の疑心暗鬼により幼子イエスの身代わりになって殺戮された幼子たちのことです。
(1月)
●教会暦では、1月1日はクリスマスから数えて7日目で、ユダヤの習慣では新しく生まれた子どもに名前を付けた日ということで、「主イエス命名日」と呼ばれています。日本と同じように、ユダヤでも生後7日目に新生児に命名する習慣があり、イエスの場合もそのようになされたものと思われます。この「イエス」という名前はギリシャ語ですから、ユダヤ人であったイエスがこういう呼ばれ方をされたはずはありません。むしろ、イエスという言葉のヘブル語形である「ヘシュア」もしくは「ヨシュア」と呼ばれておられたと想像されます。この言葉の意味は「ヤハウェ(神という意味)は救い」であり、モーセの後継者ヨシュアと同名でした。この名前はごく普通の名前でユダヤ人の家庭では男の子にこの名前を好んで付けたようです。ちなみに小生のクリスチャンネームもまた「ヨシュア」です。
●ギリシャより東の東方教会では、1月6日が「キリストの誕生日」とされ、ローマより西の教会では「顕現日」といわれ、「東の博士の訪問」を記念し、キリストが世界にご自身の本質を顕になされた日とされる。シェイクスピアの作品に「12夜」と題するものがあるが、12月25日から1月6日までの12日間を指し、この期間がいわゆる「降誕節(クリスマスシーズン)」です。
●教会の暦では元旦を「主イエス命名日」と呼びます。この日がクリスマスから数えて7日目にあたり、ユダヤでは新生児の名前を7日目に付ける習慣があったことによります。
●ギリシャより東の東方教会(日本では「ハリストス正教会」と呼ばれている)では、1月6日が「キリストの誕生日」とされていますが、ローマでクリスマスが12月25日に定着してからは、この日を「顕現日」と呼ぶようになりました。この日は「東の博士たちの来訪」を記念し、キリストが世界にご自身の本質を顕にされた日という意味です。
●1月25日は、「使徒聖パウロ回心日」です。「かいしん」という言葉には「回心」と「改心」との二つの漢字が当てられますが、「改心」の方は単に悪い心を改めることを意味するのに対して、「回心」の方は宗教的な意味を持ち、生活全体の「方向転換」を意味します。今まで価値あるものと信じていたものの「無価値」を自覚、告白し、「新しい価値」「神への道」へと進む決断をすること、それが「回心」です。使徒パウロは次のように告白しています。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)
●ある人物を記念するのに、その人の「回心日」を取り上げるということは非常に珍しいことです。それ程、使徒パウロの回心という出来事がキリスト教の歴史にとって重要な意味を持っているということでしょう。回心前の使徒パウロはサウロという名前でした。その頃の彼は、キリスト教にとって最も恐ろしい迫害者であり、組織的な迫害の理論家であり、戦略家でもあったと思われます。その日も、キリスト教に対する弾圧のためにダマスコという町に向かっていました。その途上、突然「光のようなもの」が彼を打ち、彼は地上に倒れ、視力を失いました。そのとき、彼は天からの声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。「あなたは誰ですか」という彼の質問に答えて「わたしはあなたが迫害しているイエスである」という声を聞き、キリスト教へと回心いたしました。彼の回心はその後のキリスト教に計ることができない大きな影響を与えた。それまで理論を持っていなかったキリスト教が「理論」を持つようになったのも、その影響の一つである。

(2月)
●クリスマスから数えて40日目にあたる2月2日は「被献日」です。ユダヤの習慣に従って、聖母マリアもこの日に幼子イエスを神殿に連れて行ったものと思われます。要するに日本でも行なわれる「宮参り」です。「被献」というのは「献げられる」という受身の意味で、すべての子どもは「神から与えられた」ということ、また同時に親たちは子どもの「自分たちのもので」ではなく、神のものであるという信仰を確認するという意味が込められています。味わい深いことだと思います。●クリスマスから始まる一連の祝斎日(祝日と斎日)は「被献日」で終わり、2月25日からは「復活日(イースター)」に向けて諸行事が始まります。2月25日は「大斎始日」と称し、この日から復活日までの46日間(日曜日を除く40日間)が「大斎節」であり、聖堂には花を飾らず、祭壇は紫色の布で覆われ、信徒たちは克己・節制に励みます。欧米ではこの期間肉を断つ習慣があり、そのために大斎節に入る直前、肉をたらふく食べて、酒を飲み、踊り廻り、どんちゃん騒ぎをするのがカーニバル(謝肉祭)の由来です。
●今年の大斎節は2月28日(水)から始まります。大斎節とは主イエスが復活された日を基準にそれに先立つ46日間です。今年は2月28日(水)から4月15日(日)までです。この期間に日曜日が6日あり、それを除くとちょうど40日間になります。この40日間が「禁欲の期間」です。
●キリスト教は基本的には「禁欲」ということを否定する立場に立っています。イエスご自身も他宗教の人々が断食している期間なのに、断食もしないので、人々から「大食漢だ、大酒飲みだ」と批判されています。(ルカ7:34)また、使徒パウロも「食べないからと言って、何かを失うわけではなく、食べたからと言って何かを得るわけではない」(コリントⅠ8:9)と言っています。従って、キリスト教の立場としては、宗教的行為としての「禁欲」はあまり意味があるとは思えません。ただ、際限なく膨張する「過剰な欲望」という現代社会の病根に対するキリスト教からのメッセージとして「禁欲」、あるいは「信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道です」(テモテⅠ6:6)ということは声を大きくして語らねばならないと思います。特に、これからの社会を担う子どもたちに対して。

(3月)
●教会暦で厄介なことは「復活日(イースター)」の日付が毎年変わることです。従って「復活日」に関連する祝斎日は毎年移動します。これを「移動祝斎日」と呼びます。
●イースターへと向かう暦の流れとは別に、もう一つクリスマスへと向かう暦の流れが3月から始まります。それが「聖マリアへのみ告げの日」(25日)です。クリスマスから逆算してまる9ヶ月前に天使ガブリエルが乙女マリアに現れ、主イエスの誕生を予告いたしました。この日からさらに逆算して7日前の19日はマリアの婚約者で主イエスの「父親」となった「聖ヨセフ日」です。新しい年のクリスマスへの思いはここから始まります。
●「復活日」の直前の週を、教会では「聖週」と呼びます。この週の木曜日が「聖木曜日」で、最後の晩餐と呼ばれる食事がなされました。この晩餐こそ、教会における重要なサクラメントである聖餐式が制定されたとされ「聖餐式制定日」とも呼ばれます。また、この席で主イエスは弟子たちの足をお洗いになりました。その出来事を覚えて「洗足日」とも呼ばれます。
●この週の金曜日が、「受苦日(聖金曜日、なぜか英語ではGood Friday)」です。この日の午後3時、主イエスは十字架刑により苦しみの中、亡くなられたとされます。主イエスは、十字架上で自らの苦しみをのりこえて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
●キリスト教信仰の出発点は、「復活」という出来事にあることは間違いありませんが、その「復活」という出来事がどういう出来事であったのかということになると、あまり明白ではありません。
●ほとんどの証拠は信徒たちの「復活した主イエスに出会ったという証言」で、唯一の物証というべきものは「空虚な墓」ということなります。大きな石によってふさがれていた墓の中から死体が無くなったという事実には当時の権力者たちも困ったようで、墓の番人に多額の金を渡して、「弟子たちが夜中にやって来て、われわれの寝ている間に死体を盗んで行った」と証言させた、とされています(マタイ28:11-15)。
●復活日。これは教会では最も重要な祝日。この日が、毎年移動するのは、主イエスさまが十字架刑により処刑された日はユダヤの陰暦によって計算されているためで、復活日は「3月21日以後の満月の次の日曜日(日曜日が満月場合は次の日曜日)」とされているからである。
●聖ヨセフ日。3月19日。1990年版祈祷書発行後に加えられました。

(4月)
●4月には復活日関連の諸祝斎日の他に「福音記者聖マルコ日」(25日)があります。聖マルコは初期のキリスト教会におけるいわゆる「二代目」の信徒で、聖ペテロの弟子であったとされています。マルコとの母親マリアはかなり裕福で、彼らの家が聖ペテロたちの隠れ家になっていた可能性はかなり高い。後に、聖パウロと共に伝道旅行に出かけるが、その折には聖パウロと衝突し別れてしまうというエピソードもある。
●4月25日は福音書記者聖マルコ日です。マルコは初期のキリスト教会におけるいわゆる二世代目の信徒で、ペテロの弟子であったとされています。マルコの母親マリアはかなり裕福で、彼らの家がペテロたちの隠れ家になっていた可能性はかなり高いものと思われます。パウロが颯爽と登場したとき、彼に魅かれたのか、彼と共に行動し、伝道旅行にまでついていったりしています。ところが、旅の途中で、勝手に帰国してしまう気まぐれさもあり、彼の評価をめぐって、パウロとその盟友バルナバとが激しく対立する場面もあります。
●「復活日(イースター)」から「聖霊降臨日(ペンテコステ)」までの7週間を、教会では「復活節」と呼びます。礼拝の祭色は喜びを示す「白」です。日曜日の早朝、復活なさった主イエスは40日間、日曜日毎に復活の身体を弟子たちに示し、食事をなさいました。この食事のとき、「エルサレムを離れず、前に言っておいたとおり、父の約束されたものを待ちなさい」という謎めいた言葉を語ります。
●復活日から数えて6週目の木曜日、日数にして40日目、主イエスは120人の弟子たちが見ている前で「天に」昇られました。これが「昇天日」です。主イエスが天に昇られて、姿が見えなくなったとき、呆然としていた弟子たちは、主イエスのあの謎めいた命令を思い出し、エルサレムで「約束されたもの」を待ち、祈り続けました。ちょうど10日目、弟子たちは「聖霊を受ける」という不思議な経験をいたしました。それが教会の始まりとされています。
●昇天なさる直前、主イエスは弟子たちに「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と述べられました。その言葉を受けた弟子たちは、あらゆる困難を乗り越えて、文字通り全世界に出かけ、キリスト教を広め、教会や学校や病院を建て、キリストの証人になりました。日本にキリスト教が初めて伝えられたのは、天文15年(1549)、スペイン人神父、フランシスコ・ザビエルによる。

(5月)
●教会暦では、5月1日は「使徒聖ピリポ・使徒聖ヤコブ日」です。聖ピリポはペテロと同郷のおそらく同じ漁師仲間であったと思われます。彼は、何のエピソードもなしに、ただ主イエスから「わたしに従いなさい」と呼びかけられただけで弟子になっている。ところが、その直後に、友人ナタナエルに会うと、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と述べている。ところが、ナタナエルは「そんなはずがない」と反論すると、何の理屈も言わず、ただ「来て見なさい」とだけ語る。この出来事はピリポという人物が「非凡の凡」であることを示している。何も特別なことはない。しかし、中心点は見事に突いている。その後、彼については福音書の中に3回記録されているが、いずれも主イエスのご生涯の中で「決定的瞬間」とされる場面である。
主イエスの弟子には二人のヤコブがおり、それぞれ「大ヤコブ」「小ヤコブ」といわれるが、これはおそらく年齢差によると思われる。大ヤコブのほうはヨハネと兄弟で12弟子の間ではかなり重要な役割を果たしているが。ここで取り上げられているのは小ヤコブの方で、主イエスの在世中は目立たない存在であったが、教会の成立後は使徒聖ペテロと並んで「教会の柱」として活躍した。
●5月18日(日)は聖霊降臨日という特別な祝日になります。復活日(イースター)から数えて50日目にあたり、「ペンテコステ(50日目という意味)とも呼ばれます。神の霊が「鳩のように」人々の上に降り、キリスト教会というものが誕生したと、言われています。祭壇には聖霊が信徒たち一人一人の頭の上に「炎のようにとどまった」ということを思い起こすために赤色が用いられます。

(6月)
●マザーグースの中に「聖霊降臨日が晴れると豊年、聖霊降臨日の雨はワインを祝福し、聖霊降臨日がじめじめするとクリスマスが盛大になる」という歌があります。英国では、教会暦がそれ程人々の生活に密着していたということでしょうか。
●6月11日は「使徒聖バルナバ日」です。聖バルナバは12弟子の中には数えられませんが、教会が成立したごく初期の段階から教会に加わり、彼は全財産を教会のために奉げ、使徒たちから「慰めの子(バルナバの意味)」とニックネームで呼ばれていたようです。おそらく、迫害の中、悲しいことばかり起こる中で、明るく振舞い、多くの人々を慰め、励まし、力になっていたのだと思われます。当時の教会を恐れさせた最も激しい迫害者・サウロが劇的な回心を経てクリスチャンになったとき、多くの信徒たちはパウロ(サウロがクリスチャンになってからの名前)を信用せず、敬遠しているときにバルナバだけがパウロを受け入れ、孤独のパウロに友情の手を差し伸べ、教会の柱として尊敬されていた聖ペテロや聖ヤコブに紹介し、信徒たちの集会に案内した。その結果、パウロは教会史上最も大きな働きをすることができた。このようなバルナバに対して聖書は「立派な人物で、聖霊と信仰に満たされていた」(使徒言行録11:24)と最大級の賛辞を捧げている。
●教会暦によりますと、6月24日は、「洗礼者聖ヨハネ日」です。洗礼者聖ヨハネは、イエスより6ヶ月前に生まれたといういことで、この日がそれにあたります。
●クリスマスのちょうど6ヶ月前にあたる6月24日は、「洗礼者聖ヨハネ日」です。洗礼者聖ヨハネは主イエスより6ヶ月前に生まれたということで、この日がそれにあたります。彼の母親エリサべトは聖母マリアの従姉で、洗礼者聖ヨハネと主イエスとは幼い時から又従兄弟として仲良く育てられたものと思われます。主イエスの母マリアが主イエスを身ごもったとき、エリザペトを訪れたことがある。その時、エリザペトの胎内の子どもが踊ったといわれています(ルカ1:44)。成人してから聖ヨハネは「荒野の声」と呼ばれる預言者となり、人々に「悔い改める」ことの大切さを語りました。何もかも、「やさしさ」が支配される現代において、「悔い改め」ということの意味を問い直したいものである。
●6月24日はクリスマスのちょうど6ヶ月前にあたる。教会ではこの日を洗礼者聖ヨハネの誕生日とする。聖ヨハネの父親ザカリアは地方の祭司(無給・当番制)で、たまたまその年の祭儀の当番に当たっており、その務めをしているさい中、聖所の中で天使が現れ、子どもの誕生が告げられる。この夫婦には子どもが与えられず肩身の狭い思いをしていたが、すでに妻エリサベトは高齢で子どもを産めるような年齢ではなかった。主イエスの母マリアは処女であるにもかかわらず妊娠したという衝撃のあまり、悩みを分かち合うためにエリサベトを訪れる。その時、エリサベトの胎内の子どもが踊ったと言われている。老いたエリサベトは若いマリアに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と述べる。
●6月29日は「使徒聖ペテロ・使徒聖パウロ日」です。聖ペテロは主イエスの生前からの第一の弟子で、教会創立の際のトップリーダーでした。少し軽薄なところもあったようですが、主イエスに対する忠誠心は第一でした。
聖パウロは学識・教養において抜群のリーダーで、当時のユダヤ思想やギリシャ哲学に対応するキリスト教思想の基本的な枠組みのほとんどは彼によって形成された、と言っても過言ではないでしょう。
●使徒聖ペテロは主イエスの弟子になる前はガリラヤ湖で漁師をしていました。主イエスの説教に感動して弟子になったと思われます。弟子の間では最年長ということもあって,もっとも重要な役割を果たしていたようです。弟子入り前の名前はシモンと呼ばれていましたが,主イエスに「ペテロ」と命名されましたが,その意味は「岩」で,主イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てるのだ」と説明されています。
●ローマ・カトリック教会の総本山である「サンピエトロ寺院」は聖ペテロがネロ皇帝によって殺された場所に建てられました。「サンピエトロ」とは聖ペテロのラテン語読みで、いうなればバチカンの聖ペテロ教会です。
●使徒パウロはいわば2世代目の指導者で教会の思想的体系を形成した人物です。この二人を並べて祝うということには特別な思いが込められているように思います。二人の関係は必ずしも「師弟関係」ではなく、むしろ対立的でした。しかし、教会は「ペテロかパウロか」ではなく、「ペテロもパウロも」という選択においてなされたというところに神の深い意志を感じます。

(7月)
●7月22日は「マグダラの聖マリア日」です。彼女は、遊女であったと言われていますが、彼女は主イエスが復活されたとき、墓の側で最初にお会いした人物として、ヨハネ福音書の20章では描かれています。彼女の報告を聞いて、ペテロとヨハネは墓に駆けつけますが、彼らはそこで主イエスにお会いできていません。恐らく、そのときペテロやヨハネはマリアの言葉をまともには受け止めていなかったようですが、その後彼ら自身も復活された主イエスにお会いし、マリアの言葉の真実性を受け入れたと思われます。ただし、その後の教会の歴史はペテロやヨハネ等男性の弟子たちの指導のもとに展開いたしましたので、マリアの最初の証言者としての名誉は無視されてきました。
●日本聖公会で最近まで用いていた祈祷書(1959年改訂版)では、この祝日は小祝日でしたが、新しい祈祷書(1990年版)では使徒たちと同列に置かれました。いわば、マグダラの聖マリアの復権です。それにしても、復活の主イエスが最初に顕現された人物が女性であるということは注目に値します。

(8月)
●8月6日は「主イエス変貌の日」です。主イエスの変貌とは、3つの福音書に共通して取り上げられている大切な出来事で、主イエスがペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの3人だけを連れて山に登って祈っておられたときの不思議な出来事です。彼らの目の前で祈っておられる主イエスの姿が突如神々しく輝き出し、旧約聖書に登場する重要人物モーセとエリアが現われ、主イエスを中心として三人が親しく話し合っている光景が見えたという。それを見たペテロは感動し、ここに祈りの家を建てましょうと提案した。この出来事は主イエスという人物の本質を弟子たちが垣間見た事件として教会の歴史の中で大切に記憶されている。この事件以後、主イエスは十字架への道を歩き始める。それは実に厳しく、弟子たちにも理解されない道であった。主イエスはこの事件の直後、ここに同席した3人の弟子たちに「今ここで見たことを決して誰にも話してはいけない」と戒められた。おそらく主イエスの本質は、人間の言葉で語ろうとすると、ただ誤解を生み出すだけなのだ、ということを主イエスはよくご存知だったのかもしれない。
●2000年後の同じ8月6日、広島に原爆が炸裂した。まさにこの日こそ、人類が初めて核爆発の悲惨さを体験した日です。何という歴史の皮肉、主イエスの光り輝く神性が垣間見られた記念すべき日に、人間の悪魔性が暴露された。
●8月15日は「主の母聖マリア日」です。「主の母聖マリア日」はカトリック教会では「聖マリア被昇天日」とされる。人間が生まれたままで天に上げられるという伝説が生まれるということは、その人に対する最高の栄誉である。旧約聖書でも「神と共に歩いた」とされるエノク(創世記5:24)と預言者エリア以外にはなく、また新約聖書では主イエスだけである。聖公会では聖マリアの被昇天ということを不問にして、1990年の祈祷書以後、それまでの「聖母マリア安息の日(小祝日)」から格上げされ、「主の母聖マリア日」(大祝日)となった。
●聖母マリアは「母の中の母」です。新約聖書の中での聖母マリアについての記述を読むときに、「母の涙」「母の喜び」「母のやさしさ」「母の強さ」等、母であることのすべてが教えられています。主イエスが12才の時、両親には理解できない出来事があり、母マリアはわが子イエスを叱った。それに対してイエスは両親に反抗的な態度を示した。両親はイエスの気持ちが理解できなかった。どこにでもあるような親子の関係であった。しかし、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)。理解できないわが子を丸ごと納めてしまう母の心の偉大さが、ここにある。
●男でも女でも、すべての人間にとってその人格形成に最も大きな影響を与えるのが「母親との関係」です。その子どもが褒め称えられれば同時に母親も褒め称えられ、その子どもが罵られれば、その母親も罵られる。運命といえばこれほどハッキリした運命もない。それはイエスと母マリアとの関係においても例外ではありません。「イエスの名」が賛美されればされるほど、母マリアの名も崇められました。遂に、母マリアは「神の母」とまで言われ「神格化」されました。これは明らかに「行き過ぎ」です。プロテスタント教会は母マリアの神性を否定いたしました。しかし、その高潔な人格まで否定したのではありません。やはり彼女は「イエスの母」です。というより、彼女が「イエスの母」になることを受け入れたのです。天使から「イエスの母」になることを予告されたとき、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えています。(ルカ1:38)つまり、これから産まれてくる子どもを「神からの賜物」として受け入れる、ここに「母」という存在のあり方の典型がある、ように思います。この謙虚な決断抜きには「マリアのような母」にはなれません。
●8月24日は「使徒聖バルトロマイ日」です。

(9月)
●9月21日は、「福音記者使徒聖マタイ日」です。聖マタイは新約聖書の最初に出てくる「マタイによる福音書」の著者です。主イエスの弟子たちの中でもマタイは非常にユニークである。弟子入りする前、彼は税務署員であった。現在では税務署員という職業は立派な公務員であるが、当時のユダヤ社会では一種の税金取りたて請負業で、しかも税金を納める相手が植民地支配をしている宗主国ということで、被支配者たちからは一種の「裏切り者」「売国奴」として民衆からは蔑視されていたようである。その蔑視と引き換えに彼らは財をなしたものと思われる。ある日、マタイはいつものように職務についているとき、主イエスから弟子にならないかと声を掛けられ、即座に主イエスに従ったとされる。ところが、主イエスは徴税人をも弟子とするということが問題にされたが、主イエスはそんなことを問題にもされなかった。教会が成立した後、マタイ福音書を著し、その後、エチオピア、ペルシャ、マケドニア地方で伝道したと伝えられている。エチオピアの国王のひとり娘イフジェニア王女はマタイの生き方に感動し、華やかな王宮生活を捨てて、質素な修道生活に入ったとされる。
主イエスの弟子になる前は、税務署に勤務していた公務員(?)でした。文書を書く技能が認められて福音書記者になったようです。聖マタイは、使徒聖ペテロに対して「あなたはペテロ(岩の意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語られた主イエスの言葉を後代に残したことで有名です。
●9月29日は「聖ミカエルおよび諸天使の日」です。聖ミカエルは天使軍団の隊長格の天使で、特に神の子たちをさまざまな災害から守る天使とされます。教会暦の中に、今も生きている(天使は死なない)と信じられている天使たちを記念する祝日があることは非常に面白い。聖書の中には有名無名の多くの天使たちが登場します。主イエスの誕生のときに活躍したのは「天使ガブリエル」です。ここに名前があげられている「天使ミカエル」は天使の中でも「天使の軍団の長」と呼ばれています。聖ミカエルは天使軍団の隊長格の天使で、特に子どもたちを様々な災害から守る天使とされています。現代は子どもたちにとって非常に危険な状況です。戦争や災害があると最も被害を受けるのは子どもたちです。子どもたちを災害から守ることは大人の責任です。
●天使というと、日本人はいかにも「天使らしい翼のある美しい女性」を想像しますが、聖書ではむしろ力強い男性のようで、イメージとしてはお寺の門に立っている仁王像を思い浮かべると良いと思います。翼があるのか、ないのかということについても、聖書に登場する天使たちのイメージは一様ではなく、「天使ケルビム」の場合は翼が6つあると言われています。悪魔サタンは「堕落した天使」であるという伝説がありますが、聖書の中にはそういう叙述はありません。

(10月)
●10月の祝日は、「福音記者使徒聖ルカ日」(18日)と聖ルカは「ルカによる福音書」の著者で、伝説では医者であったとされます。彼にあやかって、東京にある聖公会系の大病院は「国際聖路可病院」と名付けられています。
●聖ルカは「ルカによる福音書」および「使徒言行録」の著者としてよく知られていますが、彼のことについて初代教会の大指導者聖パウロは「愛する医者ルカ」と敬愛の思いを込めた紹介をしています。病弱だったと思われる聖パウロがかなり強硬な伝道旅行を続けることができたのも、聖ルカの協力があったればこそと思われます。彼の著作の文体、内容から見てかなりの教養人であったと思われますが、彼は決して表に立とうとはせず、常に「裏方」に徹し、使徒言行録でも一度も自分の名前をあげず、必要なときには「わたしたち」という表現で控えめに触れています。
◆10月18日は福音記者聖ルカ日です。聖ルカは医者であったとされます。しかし、彼の医療活動についてはほとんど資料はありませんが、初代教会の大指導者使徒パウロは敬愛の情をこめて「愛する医者ルカ」(コロサイ4:14)と紹介しています。
●10月28日は「使徒聖シモン・使徒聖ユダ日」です。聖シモンと聖ユダの2人はあまり目立ちませんが、主イエスの12弟子のメンバーです。聖ユダは主イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別人。
●使徒聖シモンと使徒聖ユダは主イエスの親戚であったと思われます。しかし、彼らはそのことによって主イエスとの特別な関係を強調することもなく、常に控えめな弟子でした。主イエスはカナという村で親戚の結婚式に招かれ、水をワインに変えるという奇跡を行ないましたが、その時の家の主人が聖シモンであったという伝説もあります。聖シモンと聖ユダは後に共同してペルシャ地方に布教したと言われています。
◆10月28日は使徒聖シモン・使徒聖ユダ日です。彼らは主イエスの親戚であったと言われています。彼らが12人の弟子に含まれているということは非常に重要です。他人からは尊敬されても、身内から軽蔑されるというのが世の常ですが、主イエスは最も身近な人々からも尊敬され、弟子になる人物がいたという事実は見なおされる必要があると思う。他の弟子たちの間で、主イエスが王座につくとき誰が主イエスの右に座るか、左に座るかというつまらない議論をしているとき、彼らはそういう議論には乗りませんでした。彼らの祝日が使徒たちの祝日の最後に置かれているのもなかなか奥ゆかしい。
●どのような立場に立とうと、1517年10月31日の出来事はその後のキリスト教の展開の中で無視できない大きな事件であった。出来事そのものは静かで、ささいな事に見えた。一人の修道僧がヴィッテンベルグ城の礼拝堂の扉に一枚の紙を貼っただけのことであった。これが世にいう95ヶ条の提言である。これを貼った人物がマルチン・ルターである。ラテン語で書かれた提言はわずか2週間のうちに独訳され全ドイツに知れ渡り、諸領主、騎士、市民から支持された。提言の内容は、その翌日、つまり「諸聖徒日(11月1日)」に販売開始予定の「免罪符」の神学的根拠を問い、批判するものであった。「免罪符」とはすでに亡くなった先祖たちの罪の許しに関するもので、ローマ教皇としては聖ペテロ大聖堂の建築資金を集めるための手段であった。95ヶ条の提言がきっかけになって、ローマ・カトリック教会を2分する宗教改革運動が始まり、プロテスタント諸教会が成立した。ドイツから始まった宗教改革運動の波は英国にもおよび、ローマ・カトリック教会から独立した英国教会(聖公会)が成立した。

(11月)
●11月1日の前夜は、当たり前のことですが、10月31日。教会暦では11月1日は「諸聖徒日」で、そのイブ(前夜)は「ハロウィーン(Halloween)」です。ハロウィーンの日は、子どもたちはカボチャの中身をぬいて目鼻口をくりぬき、その中にロウソクを立てて、ランタンを作り、夜、怪物の衣装を着けて近所の家を訪ね歩き、「Trick or treat?(いたずらか、それともおやつか)」という決り文句を言ってお菓子をもらいます。
このお祭りは古代ケルト人の秋祭で、これから寒い冬を迎えるにあたって、収穫を奪いにくる悪霊を追放し、穏やかな冬を迎える行事であったようです。子どもたちが悪霊の役目をするというところに面白さがあります。
古代ケルト人は元々東ヨーロッパの一つの種族で、多くの諸種族がローマ帝国に従属して行くなかで、ローマ帝国に組み込まれることを拒否し、何度も衝突しながら、西ヨーロッパに移住し、辺境の地アイルランドまで追い詰められたと思われます。このケルト人の反ローマ精神がローマ・カトリック教会の支配から分離独立した英国国教会(聖公会)の精神基盤であったと推測されます。
●11月の祝日は、1日の「諸聖徒日」と30日の「使徒聖アンデレ日」です。諸聖徒日というのは英語では「All Saints Day」といい、意味するところは「すべての聖徒を記念する日」です。キリスト教会では逝去した信徒をその個人的な命日と共に、諸聖徒日にも覚えて祈ることになっています。
●11月1日は「諸聖徒日」です。英語では「All Saints Day」といい、意味するところは「すべての聖徒を記念する日」です。そこには有名な聖徒も含まれるし、無名の聖徒も当然含まれています。16世紀の宗教改革のとき、英国ではローマ・カトリック教会と分かれて聖公会という教会が生まれました。このとき、英国聖公会ではプロテスタント諸派と同様に多くの「聖人の日」を教会暦から削除いたしました。その頃、いわゆる「聖人の日」は192日以上あったとされます。当時、ヨーロッパでは聖日に労働すると「たたり」があるとされていたために、人々は聖日には労働を休み、遊んでしまうということで生産性は著しく低下したと言われています。プロテスタント諸派ではこの点を考え、すべての「聖人の日」を廃止してしまいましたが、聖公会では「聖徒の日」を「聖書に根拠を持つ日」にしぼり、その他を「諸聖徒日」としてまとめました。今日では、多くの教会でこの日をすべての逝去者を記念する日として守っています。
●11月30日は「使徒聖アンデレ日」です。聖アンデレは主イエスに最初に弟子入りした人物で、彼の紹介によって使徒聖ペテロも主イエスの弟子になったとされる。彼は主イエスの弟子になる前は漁師であり、今でもヨーロッパの漁師たちは彼を守護聖人としています。また、海外伝道にも熱心で、ロシアの人々は彼が最初の布教者であったといい、スコットランドの信徒たちも彼を国の保護者とし、「聖アンデレの十字架」を国の紋章としています。「聖アンデレの十字架」というのは、彼が殉教したとき、十字架を斜めにしたX型の十字架に磔にされたことにちなみ、X型の十字架を「アンデレクロス」と呼びます。日本では清里の清泉寮の赤色のアンデレクロスが有名である。ちなみに、大阪の桃山学院大学の広報誌も「アンデレクロス」と命名されています。
●日本の「勤労感謝の日」(11月23日)は、第2次世界大戦前は「新嘗祭」と呼び、天皇がその年の新しい産物を祖先に供え、その年の稲の収穫を喜び、神々に感謝をささげ、次の年の豊作を祈願する日であった。この儀式は現在でも天皇家および全国の神社で行われている。この祭儀が「勤労感謝の日」となったとき、誰が誰に感謝するのかあいまいになってしまった。
日本の教会では11月の第4日曜日に収穫感謝礼拝を奉げるところが多い。これは多分にアメリカの収穫感謝日(11月第4木曜日)の影響を受けている。
1620年、イギリスの国教会(聖公会)による弾圧を受けたピューリタン(清教徒)たちは、自由の天地を求めてアメリカ大陸に船出した。男78名、女24名は2ヶ月をかけて大西洋を渡り、秋の終わり頃新大陸に上陸した。この地方は土地もやせ、農業の経験もない102名は、土着のインディアンたちに助けられて、翌春には種をまき、秋に初めての収穫を得ることができた。彼らはその喜びを記念して、インディアンたちの行為に感謝し、豊かな収穫を与えてくれた神に収穫感謝の礼拝をした。
キリスト教会での「収穫感謝祭」のもともとの意味は、雨を降らせ、日を照らし、豊かな収穫の恵みを与えてくださった神に感謝を奉げる祭です。収穫を神に感謝するという祭はどの民族にもあり、旧約聖書ではぶどうの収穫を感謝する祭、大麦の収穫を感謝する祭など多彩です。アメリカでは、建国にまつわる一つの出来事により、特別な意味が付加されました。
1607年頃、当時、英国国教会(聖公会)に圧迫されたピューリタン(新教徒)と呼ばれた人々は、信教の自由を求めてオランダのアムステルダムやライデン地方に逃れました。しかし、ここも安住の地ではなく、さらに自由の天地を求めてメイフラワー号という船に乗ってアメリカ大陸を目指しました。男子78名、女子24名、計102名の人々が2ヶ月もかかって大西洋を渡り、1620年の秋、「新大陸」に到着しました。この人々がアメリカ独立の礎石となった「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人々です。
しかし、この地方は非常にやせた土地で、翌年の夏までに半数の人が死んでしまうような過酷な日々でした。彼らの大部分は都会出身の、いわゆる知識階級の人々で、農業についても開墾についても、ほとんど知識と経験とをもっていませんでした。やがて、遅い春がきたとき、冬の間に親しくなった近くにいた先住民のインディアンたちが、とうもろこし、えんどう豆、小麦、大麦の種を分けてくれ、播き方を教えてくれたのです。
そして、秋が来て最初の農作物を収穫した時、彼らは教会に集り、感謝の礼拝を捧げ、またお世話になったインディアンたちを招いて、感謝祭の食事をいたしました。とうもろこしや小麦のパン、カボチャのパイ、野生の七面鳥のロースト、それに野生のつるこけもものゼリー状のソースなどを添えてのご馳走であったとのことです。1864年、リンカーン大統領はこの出来事記念して11月の第4木曜日を国民の祝日と定めました。

最新の画像もっと見る