ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 05/05~05/11

2013-05-16 08:56:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 05/05~05/11

日々の聖句2013 05月05日(日)
あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。(詩4:4、口語訳)
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェ4:26)
私の黙想:
聖書の教えによると、怒ること自体は罪ではない。でも一日を超えて怒り続けると罪になる。たとえ怒りの原因が続いていたとしても、怒る側は怒ったままで夜を過ごしてはならない。明日の朝、まだ怒りの原因が続いていたら、改めて怒り直す。たとえその怒りが前日より倍加しようと構わない。2つのことが教えられる。怒りの原因を作っている側に改善のチャンスを与えること。日を超えて怒ることは怒る側の精神に害を与える。喜びは常に、怒りは一日だけで。

日々の聖句2013 05月06日(月)
賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。(出23:8)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教えています。(テトス2:11-12)
私の黙想:
人を裁く立場にあるすべての人々への単純率直な警告。色々な「賄賂」がある。研究費、地域開発費、宣伝広告費、パーティ会費、献金だって賄賂になる。賄賂は出す人間も受け取る人間も相互に相手を卑屈にし、馬鹿にし、人格を歪める。私が心配するのは、彼らの子供のことであり、家族のことである。

日々の聖句2013 05月07日(火)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。(ヨシュ1:8)
イエスの言葉:わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタ7:21)
私の黙想:
この「律法の書」とは直接的には申命記を意味するのであろう。後半の「そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」という言葉はいかにも申命記的である。神が神であるというだけで、神を絶対に信じ、神の言葉(命令)に徹底的に従う。そのためにはたとえ神が与えて下さった「愛しする一人子イサクさえも献げるという」アブラハム的信仰とはかなり異質である。神はその信仰を見てアブラハムを義とする。イエスの信仰はアブラハムの信仰に直結している。そこには申命記的信仰の入る余地はない。私たちはアブラハムを信仰の父とする。ロマ書4章を読み直す。

文屋 知明 [イエスの信仰はアブラハムの信仰に直結している。・・・」いいね!

門叶 国泰 文屋先生:「申命記的歴史観」の限界を打ち破ったのが「十字架」、その「新しい契約」をイザヤ・エレミヤは預言した。イエスは旧約の成就である、との考えは如何でしょうか。

文屋 善明 私が頭の中で想像していたことは、申命記的信仰の継承者としての後期ユダヤ教(イエスの時代のユダヤ教)を克服したのがイエスの信仰、それはアブラハムの信仰に直結している。キリスト教は(特にパウロは)アブラハムの信仰の継承者、という構造です。

門叶 国泰 文屋先生:有難うございます。良く考えます。私の頭の中にあるのは、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」です、が、FBでは無理ですので、これで閉めます。感謝!

日々の聖句2013 05月08日(水)
牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしわが民は悟らない。(イザ1:3、口語訳)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(エフェ5:17)
私の黙想:
イザヤ書は冒頭から激しい。近親憎悪という言葉があるが、この冒頭の言葉にはそれに近い。親が自分の子供に対する激しさがある。そんな筈がない。そんなことはあり得ない。信じられない。ここには親の子に対する絶望的な響きがある。この激しさ、絶望感は大きければ大きいほど、逆説的に親の子に対する愛情が表現されている。子は親の気持ちを悟れるのか。「悟れよ」。 これを「見分けない」なんて訳したら、台無しである。良いリンゴと腐ったリンゴを分別するのとはわけが違う。エフェソの言葉は「無分別」に対して「悟り」を対置させている。何という皮肉。

日々の聖句2013 05月09日(木)
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。(エレ32:39)
イエスの言葉:わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
私の黙想:
今日は昇天日だ。イエスが弟子たちの元を去った日である。残された弟子たちはどれ程不安で淋しかったことだろう。先日の昇天前の主日でそのことを説教した。今日のエレミヤの言葉は聖霊降臨日に実現したことを示している。もちろん、それはその日に突然起こったことではなく、その日までに準備された弟子集団の祈りの結果である。「120人ほどの人々が一つになっていた」(使徒1:15)。今日のエレミヤの聖句に続く部分がいい。「それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる」。これ聖霊降臨日に成立した教会である。

日々の聖句2013 05月10日(金)
主は、御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を固く据え、英知をもって天を広げられた方。(エレ10:12)
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブ11:3)
私の黙想:
神のスケールと人間のスケールの違いを知れ。隣人があるいは隣国の人がどんなに豊かだ高級品を揃えていたかと言って羨むことはない。同じようになろうと思うことはない。人間の世界において最大級のスケールも神のスケールとは比べものにならない。あなたたちは、すなわち私たちは神の元にあり、神によって支えられ、神と共に生きる民族ではないか。この思いが腹の底にドーンと据えられていなければ、このふわふわした世界でキリスト者として生きることは出来ない。これがキリスト者の意地である。キリスト者としてこの世を生き抜く、つまり信仰を貫徹するエネルギーは「意地」である。隣の家でスキヤキを食っていても、こちらは貧しいおじやを食べながら、こちらの方が幸せだと思う。それが、わたしが育った家庭の信仰であった。天国には我が家の財産が蓄えられている。これが私の両親の口癖だった。

日々の聖句2013 05月11日(土)
大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。(エレ22:29)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。(コロ3:16)
私の黙想:
エレミヤを通してユダの王に告げられる最終通牒。王なるものが主に従わないとき、国は滅び美しい郷土は荒れ果て廃墟となる。王に対する主の言葉、つまり権力の座に座る者がなすべきことは「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(3節)ということに尽きる。これを実行しない権力者は子孫と共に永遠に追放される。しかし権力者の堕落の原因は全国民の責任でもある。権力者への異議申し立て、反抗、革命は国民の責任でもあり、それこそが民主主義の土台である。(一寸、今読書中の小室直樹『日本人のための憲法原論』に影響されすぎているかな。)

最新の画像もっと見る