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エドガー・スノーが見た「革命以前の中国」

2016-07-12 09:33:23 | 雑文
エドガー・スノーが見た「革命以前の中国」

「壁の中の中国」(102頁〜)

1.4億の人びと

「自分たちのために戦おうともしない四億のでくの坊」ある親日的な出版社のアメリカ人編集者は、満州侵略に対して、長城の南側で中国人がみせた反応の印象をこのようにわたしに語った。それは西欧人から考えれば分かりにくい状況を、きわめてアメリカ風に割り切っていったことばといえよう。
中国とは何か。ここ数年間世界はその問いに答えようと時間と忍耐を費してきたが、その価値があるのだろうか。それは日本人が私たちに語ったように「組織された国ではない」のだろうか。それはあるフランス人が説いたように「ひとつの精神状態にぎない」のだろうか。そうだとす
れば、その状態を維持する価値があるのだろうか。もし国家があるならば、征服に直面し、その国民が殺され、自由が破壊されても、大衆がまったく受動的である現象をどう証明できるのだろうか。そのような国民の中に、宣教師たちが言うように、「守る」べ きものがあるのだろうか。
歴史的にみれば、今日この国を銃剣と砲艦で包囲しているヨーロッパのどの成り上がり者よりも、中国はずっと確かに一つの国家である。日本人が文宇を覚えたよりも500年以上も前の紀元前221年に、秦の始皇帝は、かなり近年までヨーロッパヨ1ロブパを縛っていた封封建主義のより原始的な形態を廃止している。そして彼は万里の長城を築いた。それは今日にいたるまで、諸外国の砲艦よりも国の存在と国民意識のはるかに強力な証拠としてっている。
中国文明が地上最古のものであること、ヨーロッパ人が肉をばらばらに引き裂いて食べていたころに中国人は優雅な陶器で茶を飲んでいたこと、中国の文化は紀元前2300年から存在し、エジプト、ギリシア、ローマ、ビザンチンといった西欧の偉大な時代よりも長く生き延びていることを、私たちはもちろんよく知っている。世界史の中で中国史の長さに匹敵するものは、エジプトおよびバビロニア王朝史だけである。
何世紀にもわたって中国民族は、他の民族にくらべてほとんど改革と変化を知らずにきている。紀元前300年に尭舜(徳で天下を治めた中国上代の模範的君主の尭と舜)が創始した文明は、いくたびかの侵略を受けながらも、つねに衝撃に耐えて生き延びてきた。征服者は大津波のようにこの国土にやってきた。西からはフン族と好戦的なトルコ族が馬を乗り入れ、南では原住民族に対する絶え間のない戦争があった。満州とモンゴルからは本書でさきに述べたように遊牧民騎馬隊が襲いかかった。いくつかの王朝がつくられ、しばらくの間統治して、そのあとにかすかな痕跡を残した。だがはげしい嵐がすぎると海が静かなもとの姿に返るように、どの王朝も消滅してしまった。東アジアのこの広大な空間の中でいくつかの民族が敗北し、葬られ忘れられていった。そして私たちが中国とよび、そして中国文明とよんでいる何ものかが残った。
「そうですがね、この古さが一体何だというのですか」と機関銃を売りこんでいるある外国人がなじった。「そういう皇帝は全部死んでしまって、立派な墓の中で塵になってしまっている。彼は今日では何の意味もない。中国は起ち上って、われわれと同じようになり、孔子のことなんか忘
れてもらいたいね。問題は孔子が2400年も前に死んでから、 何も変っていないということさ」。進歩とは何かと人は尋ねる。この独断的なヨーロツパ人なら、進歩とはもっとたくさん機関銃を買うことだと答えるかもしれない。
この外国商人は彼の家系が精々でジョージ3世の時代までさかのぼれるにすぎないのに、中国人なら易々ともう1000年、あるいは2000年も前にさかのぼれることを知っている。ただ彼はそれが意味するものを認識していない。ここには安定した生殖細胞をもつ民族がいること、彼らに伝えられた生活様式を、今日にいたるまでかなりそのままに保存している人たちであること、どろどろした混沌の中から出現した私たちは、機関銃よりももっと強い浸透力をもち続けた中庸の徳を中国人が見出してからずっと後々まで、方向をつかめなかったことを、彼は忘れている。いま中国が崩壊に瀕しているとか、苦痛にみちた変身の時代にあたって4億の民衆がいけにえに供せられようとしていると考える正当な理由は何もない。
だが今日の中国は強力な中央集権をもっていないから、それは言葉の上の存在、地理学上の表現にすぎないともいえよ。その表現される国土の中に、人類の約5分の1が住んでいる。これらの人々の間の連帯感は、私たちが西欧風に考える単なる国家意識よりも強いかもしれない。共通の人種的起源、共通の芸術、文学、そして歴史、伝統、その人種特有の意識と行動、共通の文字、ただ方言の差がある言語、さらに彼らの伝統と環境からくる特有の美徳と悪徳をもち、きくめて興味深<好ましい民族としての中国人をつくりあげた古典文学と同じように、この連帯感は消し難いものとして存在する。

2.中国という地理環境
中国を定義できないまでも、少なくとも中国人が往んでいる地域を定義づけることはできる。それは大まかな境界をもつ24の省から成り、さらに大まかな属領があって、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積である。人口は4憶ないし5億で、アメリカの人口のほぼ4倍にあたる。地理的に中国をみると、南はビルマとインドシナの国境からはじまり、そこは熱帯的気侯である。西は山岳が多く原始的なチベット・アジアと境界を接し、北方はモンゴルの砂漠と草原につらなっている。少なくとも名目上は満州をふくみ、その北端は北極に近い。これらの諸省が持つ海岸線は、一国民が支配するうちでもっとも長い海岸線をなしている。国境のかなたは、かつて金殿に朝貢してきた国々があり、さらにまた天子の国民という名前だけの1千万の華僑が住む遠い国がひろがっている。
かつての中華王国は川幅広く黄色く濁った揚子江によって、地理的に、またある程度人種的に分断されている。揚子江は青海省とチベツトの大山岳地帯に源を発し、延々3,250マイルを流れ、農作物に水をそそぎ、通商貿易を支え、時にはその肥沃な流城に住む1億以上の人々の生命をおびやかす破滅的な洪水をもたらす。中国では揚子江その他の河川が、今もなおもっとも重要な交通手段になっている。
長城から南の中国にある欽道は、アメリカの鉄道が27万5千マイルあるのにくらべ、廷長すベてを合わせて6千マイル足らず、しかもその大部分はひどい荒廃状態にある。中国では理論上自動車の通行可能とされる道路は3万5千マイル、一方アメリカでは舗装されたハイウエーが約200万マイルもある。「奥深い」国土での物資運搬に、中国は今もなお主として運河、自然の川、二輔車、手押し車、人間や家畜の輸送隊にたよっている。 西欧諸国では1世帯あたりの年間貿易額が約150ポンドに違しているが、最近世界貿易会議で朱子文氏が語ったところによると、中国ではそれがわずか7シリングにすぎない.
中国の人口の90%が農民であり、また人口の90%以上が今だに文盲である。中国で発行される新聞の総部数は約200万部で、有名なアメリカの一週刊紙の発行部数にも及ばない。奥地に住むおびただしい民衆は、新聞を見ることも、記事を説むこともない。彼らのニュース源は聞き伝え、お喋り、うわさ話にすぎない。
彼らの大部分はわらぶきの質素な泥の小屋に住み、南では米を、北では麦を主食とする粗食に甘んじている。彼らの生活は西欧的水準からみれば、信じ難いほど退屈で、原始的で、田舎風で、生きるのがやっとというところだ。
英領インドについで、中国人の1人あたりの収入はどの国民よりも低いとみられている。年間1人あたりの収入は2ポンドをこえないだろう。かなり近代的な工揚といえるものは千足らずで、そのほとんどが条約港にあり、その3分の1近くは外国の投賓によるものである。あらゆる職種の産業労働者を合わせて250万人以下で、彼らの平均日給は現在の換算率で10ぺンスを下回っている。小・中学校、大学を合わせて約1万校あるが、毎年大学に入学できるのは数億の中国人のうち2万人にすぎない。
極端に西欧化された日本人を先頭に侵略的な西欧人たちが、中国は絶望的な混乱の中にあるとか、征服され支配される必要があるとかいった証明を突きつけようとするときに使う一連の統計がこれである。そういう数字は無限に増加させ、増幅させることができる。そこへひどい社会的、政治的不正行為が加わると、それ以上説明するまでもないが、 その印象は途方もなく陰気なものになる。
だが、これらの比率とか比絞とかがどんな意味をもっているだろうか。それをどう解釈すべきだろうか。それらが意味するものは、西欧の国で意味するかもしれないものとは違っている。今日の世界で中国は巨大な異例であると、人々は結輪ずる。国家ともいえない国家でありながら、時
の流れの中で他のどの国よりも長く生き延びた中国のことを、あるものは「母なる大地が産み落した奇型児」(ママ)とよんだ。
地上最大の国であり、最も多い人的資源を擁しながら、中国は軍事的にもっとも弱い国である。中国は巨大な潜在資源をもち、利用されるのをまつ広大な低開発地域であるが、その国民は世界でもっと貧しい。なぜか。 個人としては質素で、慎重で先見の明があり、 勤勉で賢明でもある
が、民族としてはこれらの素質とまったく、反対の行動を近年とってきている。この国では巨富をたくわえる者もいるが、一方で庶民は一生を借金にしばられ、息子たちがまたその重荷を背負うことになる。「4千年の文化」を誇りながら、中国には50年以上の歴史をもつ大学がない。
数だけでいえば、中国は世界最大の陸軍をもっているが、その250万の「兵隊」は10方足らずの日本兵にとても対抗できないようだ。日本兵は実際上抵抗らしい抵抗も受けずに、中国領士の約50万平方マイルを制圧してしまった。中国では1平方マィルあたりの強盗の数が世界のどの国よりも多いが、しかも中国人は地上でもっとも平和を愛好し、法を尊重する国民だと称している。中国と西欧文明との接触は日本の場合よりずっと長かったにもかかわらず日本がある意味で西欧列強の生き写しとなったのにくらベて、中国は主要な点でかたくなに自らを変えようとはしなかった。日本の行勤は西欧人にとって、自分の経験から判断して何とか解釈できるものだが、中国はそこに長年住んでいる外国人にとっても理解を越える国である。
「国民心理学はまだ初歩の段階の科学である」とH.G.ウエルズは言う。中国に関する心理学はもっとも明敏な頭脳をも当惑させる。中国に15年も住んでいたドイツ人がすっかり失望してわたしに語ったことがある。「西欧が地球や星や宇宙空間にあるものについてすべてを知りつくしたとしても、なお中国人の心理を分析する仕事が残っているだろう」。
「彼らは戦わない。彼らは精神的勇気に欠けている」と皮相的にものをみるヨーロツパ人は言う。だがすでに1世紀以上にわたって彼らを支配しょうとするヨーロッパ人の試みに対して、彼らなりに戦い、考えてみると驚くべき成功を収めているのである。「彼らは国家意識をもたない」と社会学者は言う。「彼らの社会的 、政治的認識は家族とその中の個人に始まり、そこで終わる」。
中国の家族制度の害悪は、西欧が中国に求めるもの、つまり進歩や近代化やもっと外国商品を買うことへの道を妨げる大きな障害物のひとつにちがいない。家族制度の中に中国のすベての保守的傾向、知的不足がふくまれている。2千年以上も前に孔子がはじめて社会、攻治制度の中に孝行の徳を成文化して以来、家族に対する忠誠心がつねに改革者の邪魔をしてきた。過去においてもっぱらこの道が中国民族を維持してきたのかもしれない。今後ともそれが民族を維持するだろうと者える人も多いが、新しい条件に応じて修正しないかぎり、それが国家を滅ぼすことになりかねないとみる人もある。中国における社会的、政治的、経済的闘争はつねにこの主要な問題点をめぐって争われてきた。それは家族意識に対する社会意識、集団意識、国家意識の対立である。
1世紀前に中国の門をたたいた西欧が、この問題にとりかかり、今もなお追いつづけている。これまでに経験したことのない強力な新しい変革勢力を前に、新しい方法、すなわち自己保存の方式を暗中模索しているため、中国は現在混乱と動乱の中におかれているのである。中国人が外部からの侵略に対してみずからを守れないのは、この問題がまだはっきりと解決されていないからである。

3.中国の精神面
人はその家族に対して義務を果たしをさえすれば、それでよい、というのが過去も現在も中国人の考え方である。彼らは社会一般に対する義務というものをほとんど認めない。「わが家の玄関先の雪はかいても、隣家の屋根の霜は気にするな」という古くからよく引かれる中国のことわざがある。孤立と内向性、これが儒教的な家庭生活の信条である。キリスト教徒は言う。「みずから欲するがごとく他人に対して行え」。儒教徒は言う「みずから欲せざることを他人に対して行うなかれ」。一生を中国人の間ですごしたのちに、アーサー・H・スミス(アメリカ人宣教師。中国での伝道、教育につくした)は言う。「儒教に対する解答が中国である」。同時に中国に対する解答が儒教なのである。
このような規律の下に、人はその義務を果たし、家族に衣食往をあたえてきた。彼は祭配の日にはちゃんと祖先の墓に詣でた。彼の魂が思い出され、廟の中の彼の位碑の前に線香があげられるように子どもをこしらえた。彼はその家の壁の中で調和を築きあげた。それで世間の凪習に順っ
たことになる。もし皆がその通り同じゆおうにやれば、国民は平和のうちに暮らし、繁栄することになる。そして民族は長く生き残れるわけだ。
このような生活から自然に生まれたのが、忍耐強さ、親切さ、思いやり、礼節、そして他人と折り合う精神だった。彼らが旨としたのは孔子のいう中庸の徳だったのである。「過ぎたるは及ばざるが如し」と彼は言った。つねに中間点で妥協せよ。すこし譲り、すこし強く出よ。他人と付き合うときに、あまり自分の利益ばかりを追うな。他人の生活に干渉するな。これが中国風の社会生活の基本倫理なのである。
孔子よりも半世紀前に、老子という人間がいたといわれる。彼の哲学は道教、「 永遠の原理*」といわれ、中国文明の原型に深い影響をあたえた。彼は真の道、生命の根源的な道にいたる無為、無抵抗、順応によって成功をかちうるとの信条を説いた。力に対する無抵抗から調和が生まれ、
それにさからったり、それを支配しようとすれば、悲しみと争いが生じると説いた。
「野心にまさる罪はない。不満にまさる災いはない。貪欲にまさる悪はない。満足するものはつねに満ち足りて暮らすことができる・・・・・これが賢者の道であり、その行為には一切の争いがない」と老子は説いた。彼の哲学は普遍的な満足感といったもので「存在するものはすベて正しい」という考え方である。
この信条は儒教とともに発達し、それから2500年間、中国人の話し方、行為、思考習慣を支配した。儒教と道教は中国民族の精神となった。道徳と宗教はひとつに融け合い、それですベてが律せられた。
このような思想は統治の面にもあらわれた。昔から中国人には「もっともすくなく統治する政府が、もっともよく統治する」という考え方があった。多くの民衆は税金を払うときと、王の一族に敬意を表するとき以外は、国家となんの接触も持たなかった。「天は高く、天子ははるかかな
たにまします」と彼らは言った。
民衆にとっては支配者が中国人であろうと外国人であろうと大して変りはなかった。彼らは兵士でなかったし、闘争本能をもたなかったのである。彼らは王位を守ったり、侵入者を撃退するしたりする戦いに加わりたくなかった。「官にあらざる者は、為政者がどのようにその義務を果そうとも預り知らぬことである」とは孔子の言だ。それは天子の仕事であり、傭われてその軍隊を構成している者たちの仕事である。統治がそれほど苛酷でなく、民衆の生活があまり干渉されず、その祖先を崇め、その田畑を耕すことができれば、民衆は満足していた。作者不明の中国の古詩は歌っている。
  田を耕して食らい
  井戸を掘って飲む
  天子は遠きにいます
  その政になんの関係があろう
朝廷が腐敗し、民衆の苦しみが耐えがたいほどひどくなったときだけ、彼らは政治にかかわりあったのである。そこで人々は叛乱に起ちあがった。日本人の場合とはちがって、中国の神権政治では、ひとたび民衆がそむけば、いかなる天子も必ず天からあたえられた統治権を失うのだと人々は考えていた。不法な支配者を倒すと、彼らは自分の土地ヘ戻っていった。政治は彼らに関係のないことだった。新しい天子の下で、平和のうちに子どもを生み、田を耕し、井戸を掘り、つつましいしきたりを保っていけさえすれば、それで十分満足だった。
ほとんどの征服者がこの哲学の利点に気づき、それに合せた政治を行なった。つねに民衆は満足し、帝位は安泰な場合が多かった。 中国の歴史の中でいくつもの王朝が300年間、あるいはそれ以上にわたって中断することなく続いたのはこのためである。
しかし国家と国政に対するこの個人の無関心は、中国民族の中に根強い保守性、慣習と古い生活様式の神聖をおびやかすものに対する本能的な敵意をはぐくんだ。中国を支配した論理はいたるところで新しいもの、若いものを支配した諭理だった。また、それは「なぜ人々は慣習に従うの
か」とたずねたのに答えた論理である。「なぜって、私たちは昔からずっとこうしてきたんですよ」と彼らはびっくりして答える。 中国ではこの保守性が他のどの国よりも、広くひろがり、より深く根づいていたのである。それは個々の人間のまわりに小さな殻を、家のまわりに壁を、町のまわりに城壁を、そして中国のまわりに秦の始皇帝の長城を築かせることになった。それは関係者同士の同盟、他国との相互依存、新しい視野、新しい信条、より広い忠誠心を必要とする近代的民主的な政治形態を支持する態度ではなかった。
中国人はその小さな自己充足的な世界に安住し、村の通りの外の世界については何も知らなかったし、知ろうともしなかった。このように広大で古い歴史をもつ国土に住み、国境の外のことは何も知らなかった人々は、ごく自然に中国を全世界だと思いこんだ。中国以外に陸の切れっ端があったとしても、それは彼らにとってどうでもよい物語にすぎなかった。無知な大衆にとって今日でもほとんど物語以上の意味はもっていない。
中国農民がいかに限られた世界に住んでいるかを示す話を、最近ある友人が話してくれた。その友人は国民党がまだ革命的組繊だったころ、党の運動家だったが、彼はある日小さな村へ行って、「中華民国の父」孫逸仙博士が提唱した民族主義と国家の原則について講演した。村の老人たちは熱心に聞いていたが、彼の話が終わるとひとりの白髪でひげを生やした長老が起ちあがって、全員がふしぎに思っていたことをたずねた。「わたしはこの村に70年すんでいて、ここから15里 (5マイル)以内にいるおえら方はみんな知っているが、孫逸仙という方はおられん。それはどなたですか」。それはアメリカ人に「ジョージ・ワシントンとはどなたですか」と聞くようなものである。

4.共和国、中国
1912年に中国は共和国になったが、それはただ名前だけにすぎなかった。孫逸仙に率いられた若い革命家たちが、古来の神権政治の終末を宜言した奇妙な大胆不敵さには、今から考えてみると、何か深い魅力といったものが感じられる。当時はおそらく中国人口のわずか1%が「民国」という言葉の意味を知っていたであろう。宜統帝が退位してからかなりたった後も、この言葉は中国民衆の心にとってなんとなく漠然とした意味しかもっていなかった。わずか2年前にほろ馬車に乗って中国南西部を旅行したとき、わたしは中国がまだ天子のようなものに治められていると思っている人々によく出くわしたものだ。
最初の革命は中国の心にも頭にも訴えるものがなかった。何カ年問もうまくいっていた社会制度と政治組織がくつがえされ、それに代わって、一般の人々が知り、理解できる同じような運用可能な制度はあらわれなかった。新しい形式と新しい名前が採用されたが、人々の社会的、政治的習慣はもとのままだった。かれらは家族主義の古い形式にかじりついていた。
ウォルター・リップマンは政治的忠誠心の進化の過程を3っの段階に分けている。彼の言うところによると、最初のものは族長に対する忠誠心で、中間段階では共同体に対する忠誠心となり、最後の段階で行動様式に対する忠誠心が生まれることになっている。第1の段階では階級制度となり、その中のすべての者は部族の上長者に忠誠をつくし、最高位にある者は神にのみ忠誠を誓うことになる。そうした社会は当然封建的、軍事的、神権政治的なものになる。「それがうまく組織されると秩序ある専制政治となり、神に代わって地上で統治する形態になっていくであろう」。それが現代の日本である。「もしそれがうまく組織されなかったならば、個人的な忠誠系統は、
それぞれの親分をもつ小さな派閥を生むことになり、親分たちはみな絶対権力をめざして争うことになるが、それも成功しない」。それが神権攻治から新しい忠誠心、社会制度と国家に対する忠誠心へと移った中国で起こった状態である。
民主主義または共和政体が成功するためには、組織の要求に対する大衆的信頼と忠誠心から力を引き出す集団、政治的に組織された市民集団の存在が前提となる。中国にはそのような集団が存在しなかった。個人主義、家族主義、政治問題に関する大衆の無関心、鉄道の不足、道路の不足、人口の約96%におよぶ文盲、方言の差異、学校と公共施設の不足、国家に忠誠な理性ある指導者に率いられた近代的で能率のよい軍隊の不足などは、そのような市民集団をつくることを途方もなく難しい課題とした理由の一部だった。一方、民衆自身が法律と制度で治める組織がつくれないとなると、個人が銃と買収と術策と好計をもてあそんで、独裁者にのしあがって支配するようになった。崩壊した帝政のあとを ついだ督軍(辛亥革命後、従来の総督、巡撫に代わって省長と共に各省に置かれた地方官。多くの省長をかねて文武の権をにぎり軍閥となった)もは国家に対する義務の観念は全くなかった。彼らは政権、富、個人の権勢拡大という野望にとりつかれ、社会ヘの忠誠心については全く意に介しなかった。これらの政権は内戦の一時期をもたらし、ますますひろい民衆の間に政治的組織の必要を理解させたほかはまったく役立たぬものだった。部隊の数はふえ、督軍個人は権力を増大し、支配区域の拡大をはかり、皆が最高の地位を占めようと競いあった。
25年にわたって満州族が支配する清朝をくつがえそうと努力してきた孫逸仙は、満州族の王朝を倒したあとに、先例のない人民の政府について何もわかっていない北方軍閥がのさばっているのを見た。軍閥は富と権力を奪い合い、民衆は田畑をふみ荒され、重い税金を課せられ、軍事行動の災厄のあとから寄生山のようについてくる高利貸しのために士地を奪われて、貧困と絶望の底に沈んだ。軍閥は中国が国家として何を必要としているかを理解せず、もっぱら自己の利益を追求し、新しい妾を囲い、富をふやし、一族郎党をもっと高い地位につけて、祖先の位牌をまつることしか考えなかった。
今や孫逸仙には近代的な制度や代議政治を持ちこむ前に、国民の思想を根本的につくり変えることの必要がわかってきた。彼の新しい方法に民衆の同意をえようと努力して、その生涯の最後の12年間を費した。彼は「国民党」とよばれる政治組織をつくり、周囲にいる視野の狭い人々と絶えず語り合い、論争し、説得しようとした。家庭や家族に対する忠誠心をこえて、国家や組織やその目標に対する忠誠心が必要だという彼の基本的な教えを理解させようとつねに努力した。孫の社会、経済、政治イデオロギーは「三民主義」すなわち民生、民族、民権にもとづく一種の初歩
的国家社会主義だった。彼は国家主義と地方自治主義を説き、祖先崇拝、軍国主義、儒教、老子の宿命諭に反対した。彼の言は国民党の教義となったが、それはさらに乱用され、歪曲され、ナザレのキリストの言のように矛盾した多くの解釈があたえられた。
孫は統一中国という彼の理想の実現をみないで1925年に死んだが、死後は英雄となり一種の神と崇められた。今日、彼は中国で他に類をみないほど尊敬されている。彼の名を口にするとき人々がみせる畏怖の念は、ユダヤ教の神秘性に近いものがある。1926年に国民党軍が華中の軍閥と腐敗政治家に対して圧倒的な攻撃をしかけた、旺盛な士気を支えたものは孫の三民主義だった。

著者は、ここで省を改めて、次の章を「革命と反動」とし、「ついに中国は動きはじめた」という言葉で始める。「軍閥支配は終わった。内戦は終わった。目標は違成された。国民党のもとに全国は統一され、復興の時期がはじまった。道路をつくり、鉄道を敷き、鉱山を開き、学校や近代都市が建設されるのだ。これからの5年間に中国は東洋の指導者になるだろう」という一人の青年の言葉を紹介している。それは1928年のことだった。

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