ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/13 「田久盆踊り大会」

2014-08-15 06:12:09 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。ネグリ『叛逆』続読。構成的闘争における闘争原理。ネットの有効性。政党は役に立たない。意思決定システムをどう作るか。練習1時間。聖歌について考える。夜は見るべきテレビ番組なし。たけしの「健康エンタ」をチラチラ見る。10時半就寝、5時起床。体調・快調、チュン、チュン。

Luke Etsuzou Nomahさん、こーる のりこさん、松下 光雄さん、他20人が「いいね!」と言っています。
posted at 05:30:12

文屋 善明
今日の名言:RT @Nietzschebotjp: 095
批判という風を入れよ 批判は風だ。頰には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ役割がある。だから批判は、どんどん聞いたほうがいい。(『超訳 ニーチェの言葉』)
<一言>こうもいう。「批判は疑い深くて意地悪な意見ではない」。実はニーチェは意地悪な批判の嵐の中で生き、理解されないまま死んだ。

Luke Etsuzou Nomahさん、金丸 勝彦さん、金井 由嗣さん、他27人が「いいね!」と言っています。

吉田 実智雄 因みに、批判の風速の心地よさは何メートルがいいのでしょうか?きつすぎても、、、強すぎて飛ばされそうになる。強風に晒されて自ら命を縮めてしまう風に対処するには、批判の風には幾種類もの風がありますね。風は思いのままに吹いて、先日の台風だけはお断りです。ニーチェは理解されないまま死んだ、という批判の風の内容あるいは風力はどのくらいのきつさだったのでしょうか?そこまで、まだ勉強していないもので、勉強しろよ!という批判の風はいつも、自己自身へのいい加減な風を吹かせていますが。

文屋 善明 ニーチェが受けた「風圧」は分かりませんが、今でも理解されないまま一部の人々からは「神を殺した張本人」とされています。
posted at 06:18:34

「昨日のツイート 08/10」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/0ebdc0171058f31b87a9ba0d9ddf019…
posted at 06:33:07

「昨日のツイート 08/11 クルマン『キリストと時』読了」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/792605efac90ce279db156736e3a2f7…
posted at 15:12:29

文屋 善明
お目覚めの花。「僕たち3人は幸せだなぁ」「そうだね、美しい花たちに包まれて」「まるで自然が作った花束のようだね」。
写真: お目覚めの花。「僕たち3人は幸せだなぁ」「そうだね、美しい花たちに包まれて」「まるで自然が作った花束のようだね」。

涌井 幸子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、北村 良輔さん、他38人が「いいね!」と言っています。

真塩 ナナ子 「お目覚めの花」朝一番に美しい花と、花たちの楽しい会話が聞けて、幸せです。

文屋 善明
2014日々の聖句 08月13日(水)
主はわたしを遣わし、貧しい人に良い知らせを伝えさせ、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を告知させる。(イザヤ61:1)
この命は現れました。永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。(1ヨハネ1:2)

私の黙想:
今日の聖句はイザヤ61:1の後半で、前半にはこういう言葉がある。「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた」。つまり、ここでいう「わたし」とは「油を注がれた者」つまりメシアを意味する。イザヤ書の文脈ではそれは誰を指すのか明白ではない。未来の何時かに現れる。ルカ福音書によると、イエスは故郷のシナゴグでこの句を読んだ時、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」と宣言なさった。イエスが何時、神の召命を受けたのかということについては各福音書は曖昧である。おそらく「謎」なのであろう。ルカは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その洗礼の意味を考えるため、荒野で黙想(修練)の時を持たれ、故郷に帰った最初の安息日のことであるとする。その日読まれた聖書のテキストがイザヤ書で、この言葉を聞いた時、私がそのメシアであると自覚なさった、つまり神に遣わされたものという意識が与えられたのだと、ルカは言う。その日にイザヤ書が読まれたのも、ある意味で偶然である。また、その日にイエスが話をするという当番だったというのも偶然であったかもしれない。これをイエスが告白した時、郷里の人たちは大反対であった。イエスは郷里の人々の反対を押しのけて自分に与えられた使命に向かった。

Luke Etsuzou Nomahさん、竹本 耕造さん、金丸 勝彦さん、他23人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。イザヤ書61章は福音書を彷彿とさせますね(^_^)

文屋 善明
聖歌(讃美歌)考(2) <新しい『聖歌集』>
日本聖公会では2006年(第56総会)において、それまで用いられていた『古今聖歌集』(1956年第25総会)に代わる新しい『聖歌集』が承認された。それ以後、各教会で使用されている。新しい聖歌集では聖歌580曲、いわゆるチャントと呼ばれる礼拝用の歌が21曲、聖餐式用の歌が40曲プラス、その他に詩編歌が30曲プラス、それに索引その他だけでも85頁が収録されている。
この『聖歌集』の編纂は1971年から始められているので35年かかっている勘定になる。考えてみると『古今聖歌集』が使用し始めてからわずか15年で次の「聖歌集」の編纂が決議されたことになる。15年と35年の期間をどう考えるのだろうか。15年間における人々の音楽意識と礼拝理解の差と35年間のそれとを比較すれば、日本全体における音楽に対する意識も大きく変わっている。当然、編纂にかかり始めた頃と完成した頃との意識のギャップは決して小さくない。その間には、編纂に関わった人々も入れ替わったことだろうし、その間、新しい聖歌の編纂に直接関わった人々の努力もさることながら、次々と発表される「試用聖歌」を眺めながら、辛抱強く完成を待った聖職・信徒の忍耐も大したものである。
完成された『聖歌集』はA5判で、厚さ3センチ、重量885グラム、両手で抱えてもどっしりしている。
さて、ここらは現実的な話。こんなに嵩張り、重たい聖歌集を抱えて教会に来て、礼拝で聖歌を歌うときは起立して、どっしりした『聖歌集』を両手で捧げて歌う。昔、悪戯をした児童が両手に水の入ったバケツを持たされて廊下に立たされている図を思い起こす。まるで何か苦行を強いられているようである。悪いことに、私などは老眼鏡が必要で、聖歌集を丁度見やすい高さに持ち上げ、焦点を合わせて持たねばなりませんので、それ自体が苦痛以外の何ものでもない。こういうものを礼拝用具として出版し、買わせるというセンスが理解できない。
一般信徒にすると、1年間でどれだけの聖歌を歌うのであろうか。もちろん個人によって聖歌の用い方はいろいろあり、一概に言えないが、一応、この『聖歌集』は主日礼拝用だと想定するとして、主日礼拝等への出席回数は年に最高でも約55回程度、一回の礼拝で4曲歌うことを基準とすると、年間で延べ約220の聖歌が歌われる。毎主日、違う聖歌を歌うとしても220曲もあれば十分である。つまり600曲のうち実際に使われるのは220曲、そのために毎主日885グラムの聖歌と祈祷書、聖書日課を抱えて教会に通うことになる。(余談:従ってほとんどの教会では礼拝出席者の数を推測してその部数を教会で購入することが多く、その場合、多くの信徒は個人用の聖歌を購入しない。そしてますます「聖歌離れ」が進むことになる。)
日本聖公会の法規によると、「公祷、聖奠、その他の諸式の執行は総会の認許した」聖歌をしなければならないことになっている。ということは、日本聖公会の『聖歌集』は想定されるあらゆる場合に備えていなければならないことになるので、そのためにほとんど使用されることもないような聖歌やチャントなどを網羅することになる。その意味では膨大なものになるのは必然である。では、どうしたらいいのか。分冊化も考えられるが、そこにもいろいろ問題があるのであろう。次に、そのことについて考える。(つづく)

東山 富昭さん、渡辺 博史さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他32人が「いいね!」と言っています。

播 稔 わたしは讃美歌集を持っていますが、教会の座席に大判の讃美歌集があるので持参しません。 以前は讃美歌集と聖書をある場所に隠しおいていたのですが、それもやめました。 教会に讃美歌集を置いてある教会は他の教会でももあります。 たしかに老人には重たい。

文屋 善明 『讃美歌21』はなんぼ重い言っても、たったの570グラムですね。885グラムとはエライ違いですね。

萩野 秀子 私の教会は新聖歌です。

畠山 秀明 教会備え付けの聖歌を使用してます。確かに重たいですね。私共の主教さんも「重たい」とおっしゃってました。
段々と手が下がってきますね。

文屋 善明 手が下がるだけならいいですが、頭も口も下がって声が出なくなります。そして魂も下がってきます。

畠山 秀明 他の歌集と比較するのは意味の無い事かもしれませんが、確かに大きくて重たいですね。

浜井美喜 年配の方はみなさん「思いわ…」とおっしゃいます。いろいろなお考えがあるのでしょうが…

Satoshi Mizota 本当に重いですね。重いと祈祷書やら週報やら教区報やら献金袋やらで散らかった手もとの中から見つかりやすいので、その点だけは助かりますが。

石田 聖実 聖公会聖歌集は大きいので見やすいです。
しかしそれを持って歌うとなると、確かに腕力の弱い人には辛いでしょうね。

Satoshi Mizota ちょっとした中辞典の大きさですね。紙は薄く内容盛りだくさんに出来ましたが、それが重さの基でもあります。でもその重さは、いろんな教派から公平に取り入れようとした努力の証拠でしょうから、誇らしくもありますけども。使い方次第だろうなあ(当日の聖歌をコピーして配るとかの対策)、とも思いますね。

石田 聖実 うちは壁面に投影です。

Satoshi Mizota なるほど。聖公会では聖堂の形式から無理なところが多いだろうなあ。聖歌集だけでなく、使用する本が多いというところが聖公会なんですよね。

石田 聖実 当日の聖歌と聖書をプリントしたものも用意しています。が、これだと下を向いてしまいます。

Satoshi Mizota 以外と難しいですね。うちの聖堂では前面に投影ところがなくみんなが横を向きそうで。みんなが上を向くことは大切で、特に聖体を司祭が掲げるときに、上体を聖体に向けて、なんて実践できている人がいないです。カトリックのミサではみんな「お祈り」を覚えていらっしゃいますから、出来るんでしょうけれども。やはり歌もお祈りも、覚えるに越したことはないかなあ。

文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
「季語「コレラ船」について思う」(コメント付き)を記録のためにブログに保存いたしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/6447d38037ecb8b66824ac6c26b80894

季語「コレラ船」について思う 今朝(2014年8月7日)の「天声人語」に「コレラ船」という季語があると書かれていました。「コレラ船」が夏の季語、成る程と思いました。...

Luke Etsuzou Nomahさん、北村 良輔さん、小柳定治郎さん、他7人が「いいね!」と言っています。

佐藤 静代 コレラ船についてをぶろぐで読ませて頂きました。満州ほど大変ではなかったようですが、石家荘(北京から南300k)から、母と姉(5才)兄(3才)私(18日目)を連れて引き上げた話を聞かされてました。やはり佐世保に着いた

佐藤 静代 そうです。ご家族みなさんお元気で帰ってこられてよかったですね。

文屋 善明
今日、夕食後、近所の「田久盆踊り大会」に出かけてきました。この辺りの古くからの共同体です。黙って座ると、顔だけ見知りの方がビールを持ってきてくれました。この雰囲気の中で飲む「冷えたビール」は格別でした。とても楽しいひと時でした。今から、風呂に入って夜のムードに入ります。 (写真6枚)
文屋 善明さんの写真

嶋津 雅彦さん、キタモト ユウコさん、Luke Etsuzou Nomahさん、他34人が「いいね!」と言っています。

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