ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/12 讃美歌は楽譜を見ないで歌うもの

2014-08-14 09:32:18 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。『キリストと時』読了。これでクルマンの再読は完了。ネグリ『叛逆』に戻る。ジムに行く。練習1時間。夜は「ペテロの葬列」はよく分からない作品だ「HERO」はキムタクとキタガワの掛け合いが面白い。10時過ぎ就寝、5時起床。体調・快調、チュン、チュン。

金丸 勝彦さん、平野 宏さん、西堀 俊和さん、他23人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。整形外科にいきます。良き日となりますように。お祈りします。

こーる のりこ ペテロの葬列は、わたしも頭をひねりつつ、見る事があります。かっこいい(?)ネーミングは、ゲームからの援用ではないかな、とか思っていますが。。。。
posted at 05:26:31

文屋 善明
今日の名言:RT @VEbot1:
神が人間に期待するのは苦しみではない。レモンからレモネードを作っておいしく飲むことだ。(V.E.フランクル)
<一言>考えれば考える程、いい言葉ですね。神さまがレモンを作り、人間がそれをレモネードにする。神さまはレモネードがお好きなのでしょうね。さぁ、美味しいレモネードを作りましょう。

金丸 勝彦さん、宮脇 温子さん、舟田 譲二さん、他33人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 今朝、焼きたてのパンに、お知り合いが下さった天使音(あまね)メロンで作ったコンフィチュールをぬって頂きましたが、それは、それは絶品でした!! 朝から幸せな気分でPCに向かっております~(^_-)-☆

西堀 俊和 感動したんでシェアいたします。
posted at 06:30:12

文屋 善明
お目覚めの花。「誰が、何のために、どうして、こんな名前を付けたの?」「分からんけど、そんなに悪くはないよね」「どこか豪華で厳粛で美しくて、これから始まる結婚式を思わせるじゃない」「でも、このマーチの終わりには厳しい切断が待っているのよね」「司式司祭が父親の手から女性をもぎ取って『この男との結婚のために、この女を委ねるのは誰ですか』なんて残酷ですよね。でもそれがウエディングマーチでしょう」。
文屋 善明さんの写真

宮脇 温子さん、寺田 由志子さん、後藤 喜美江さん、他31人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 観ているだけで幸せな気分に誘われる素敵な名前のダリアですね~♪
気になって調べてみましたら、八女市というところに、ダリアが咲き誇る公園(星の〇公園)がある様で、9月中旬からダリア祭りが行われるようです~(^^♪ そこでは、「お色直し」とか「喜びの詩」といった名前のダリアをはじめ、素晴らしいダリアの数々が見られるようです~♪(^^♪それにしても、ダリアたちのつぶやき、愉しいです~(^_-)-☆

文屋 善明
昨夜といより今日の午前2時のスーパームーン。私のカメラではこれが限界です。 (写真4枚)
文屋 善明さんの写真

木下 海龍さん、秦 純子さん、石田 聖実さん、他47人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 神戸も満月9時に見ました。

文屋 善明 ちなみに、私のカメラは名刺大のデジカメで、Sony Cyber-shotで国産のCarl Zeissレンズを装備しています。ポロシャツの胸ポケットに収まりますので、外出時には常に携帯しています。

播 稔 良く撮れています。Carl Zeissのレンズはいまは全て日本製です。多くは諏訪湖の横にある、500人程度の中小企業が作っています。テストだけはツァイスが行っているようですが。ライカは30数年前にカナダに移りました。ライカM4の時代です。ライカは非球面レンズがうまくできなかったのです。

文屋 善明
2014日々の聖句 08月12日(火)
人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。(エレミヤ31:34)
トマスはイエスに言った。「わたしの主、わたしの神よ」。(ヨハネ20:28)
私の黙想:
人から教えられなくても知っていることがある。逆に人に教えられても理解できないこともある。これを「知識」といえるのだろうか。つまり言語化不能の知識、理性を媒介にしない認識、純粋経験。「『主を知れ』と言って教えることはない」は実は「教えられない」。エレミヤ書ではその内容を「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということとし、なぜ教えられないかというと、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と説明されている。つまり神がその人の心に直接書き込む。人間の出る幕はない。それを禅の公案では「不立文字」というらしい。

金丸 勝彦さん、鄭華さん、宮脇 温子さん、他30人が「いいね!」と言っています。

森内 幸春 「主を教えられない」は実感します。主を感じた時の幸福感を言葉にすることができないからです。

播 稔 なるほどすばらしいご説明です。

文屋 善明さんがBliss 104.2さんの動画をシェアしました。
いいね。町の雰囲気と第9とがピッタリ。

You're gonna get goose bumps after watching THIS! Enjoy :)

https://www.facebook.com/photo.php?v=620881131294244&set=vb.551249781590713&type=2&theater

動画を再生5:33

金丸 勝彦さん、小柳定治郎さん、加藤 治さん、他28人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 この動画を見ていて思うこと、それはどこまでが合唱団員であるのか通行人であるのかわかりませんが、「歌」とは暗唱して歌うもの、楽譜を見ながらでないと歌えないというのが異常だということです。教会の礼拝の時重い賛美歌を手に持って読めない音符を必死になって追いながら歌うのは「賛美」ではないということです。一回の礼拝に出席した時、せめて一曲でも心から(音符なんか見ないで)歌えるならば、その礼拝がどれほど楽しいものになるのだろうか。

吉田 実智雄 最近、大学でも、教会でも、(どこでも、お店でも)パワーポイントあるいは薄型TV版の映像を使っての視覚教材が幅を効かせています。教室内ではレジュメと伴に映し出される映像から名曲が流れる工夫は一昔前では見られないものでした。上記の、街角での「第九」の演奏は拝見したことがありましたが何度見ても感動ものです。パウロもシラスも心から溢れる慰めの曲が胸底に響いたのでしょう。文屋先生これからも宜しくおねがいいたします。

玉城 豊 シェアさせてください。

文屋 善明
<讃美歌(聖歌)は楽譜を見ないで歌うもの>
使徒言行録に、パウロと同僚のシラスとがフィリピで伝道していた時、突然、官憲によって逮捕され、投獄された記事が掲載されている。その時、パウロとシラスは真夜中の獄中で「賛美を歌い」、他の囚人たちはこれに聞き入っていたという(使徒言行録16:15)。その情景はまるでどこかの静かな別荘のような雰囲気がただよっている。その時、突然大地震が起こり・・・と、物語は意外な展開をする。ともかく、この時、パウロとシラスは讃美歌を手にしていただろうか。おそらく、薄暗い牢獄で、他の人たちが聞き入っていたぐらい、ちゃんと歌ったのであろうが、彼らは楽譜なしで歌ったに違いない。
讃美歌を手にしなければ歌えない、などということはどこか変である。そのような賛美などは、イザという時に力にならないし、他の人々を感動させる歌にはならないであろう。演歌であれ、童謡であれ、民謡であれ、シャンソンであれ、楽譜に依存しないで歌うのが本当の心の歌である。
楽譜はあくまでもその歌を覚えるまでのマニュアルである。音符を見ながらその音符に合った音を出せる人は余程、訓練された人であって、歌というものは基本的には「口移し」で覚えるものである。現在では「口移し」の代わりに楽器を用いることが多いが、楽器を演奏できない人は演奏できる人の助けによって覚えるのである。あるいは教会の礼拝で皆んなと心を合わせて歌ったその感動が、その歌を覚えさせるのである。特に讃美歌などは自然に口に出てくるぐらい歌い込んで、初めて「賛美」になる。その意味では、音符をたどりながら、やっと歌うのは「賛美」ではなく、「練習」である。
いつ頃から礼拝での賛美が讃美歌あるいは聖歌集と睨めっこしながら歌うようになってしまったのであろう。原因はいろいろあるのだろうが、その大きな原因の一つが、讃美歌や聖歌が充実しすぎて、曲数が多くなり、同じ歌を繰り返し聞くことが少なくなったからだと私は思っている。
むかし、路傍伝道が盛んであった頃、ほとんど毎週のように野外の公園や街角で太鼓、タンバリン、アコーデオンで、同じ聖歌が繰り返し歌われたものであった。たとえば、その頃よく歌われた歌に「ただ信ぜよ」(福音派の1958年版『聖歌』424番)などがあり、町の人々までもが口ずさむほどであった。また、毎週開かれる伝道集会などでは「いつくしみ深き友なるイエス」という聖歌が定番で、それを歌うときには誰も楽譜など見なかったように思う。それだからこそ、そこに集まっている人々は大声で力強く歌い、それを聞く求道者の人々も感動したものであった。
ところが、現在のように讃美歌や聖歌が充実し、歌うべき歌が増えてくると、殆どどの曲も1年に1度ぐらいしか歌わなくなり、そのために礼拝の中での賛美が、中学校の音楽の時間のように、音符をたどりながら頼りなく歌うということになってしまったように思う。しかも、ほとんどの信徒が主日礼拝にだけ出席し、そこで讃美歌を歌う。当然、その讃美歌は常に「新しい歌」で音符を頼りにたどたどしく歌うのでは、礼拝が盛り上がらないのは当然である。大きな礼拝などでは聖歌隊が促成で結成され、そこで多少「練習」をして礼拝に臨むので、会衆も何とか声を上げて歌えるが、まぁ、普通の礼拝ではそれは無理であろう。(つづく)

金丸 勝彦さん、鄭華さん、加藤 治さん、他33人が「いいね!」と言っています。

Kinue Itou なるほど、その通りですね。訪問看護で関わっていた高齢の女性の方から路傍伝道の話を伺ったことがあります。また、ある集会で路傍伝道のことが話題となり、それをきっかけに信仰の道に入った方が少なくなかったとも聞きました。私自身、最近は知らない讃美歌が多く楽譜を追いながら歌いますが、歌集なしでも歌える曲を訪問看護では利用者さんとよく一緒に歌いましたね。

石田 聖実 文屋先生、大事な指摘をありがとうございます。二つのことを感じました。
(1)現代の人は日常生活の中でどれほど歌を歌うのでしょうか?
歌謡曲でもかつては「国民的」ヒットソングがあったようですが、今や次々と新曲が登場し、誰でも歌詞を見ずに歌える歌はないと思います。
聖歌の世界も同じようです。
更に加えて、原歌詞の同じ歌を何通りもの翻訳で歌っています。
私は専ら「聖歌」(日本福音連盟)を歌う教会で育ち、「讃美歌」のみの教会に移り、その後「讃美歌21」を導入し、最近は「教会福音讃美歌」を多用しています。どの歌集にも載っているけど、全て訳が違うということもあります。これも覚えにくい原因の一つです。(訳の問題は聖句の暗記にも言えます)
(2)御説は説教にも言えるのではないか。
原稿から目を離せないような説教ではいけないのではないか。語ろうとするみ言葉から十分に恵みをいただいてそれを語るべきなんだろうと思います。

文屋 善明 歌詞のことについては、後ほど論じる予定にしています。私の頭のなかにあるのは「歌声喫茶」の思い出です。

石田 聖実 期待しています。

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