ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

創造信仰について

2009-02-07 17:15:47 | ときのまにまに
すごい文章に再会しました。以前読んだときには、先を急いでいたためか、あまり注意を向けませんでしたが、今回はじっくりと読み返し、味わっています。田川建三さんの『キリスト教思想への招待』(勁草書房)です。この本の第1章で田川さんは「人間は被造物」ということについて論じています。そこで、田川さんはテルトゥリアヌスと同時代(3世紀)の護教家ミヌキウス・フェリクスの以下の文章を紹介し、かなり詳しく解説をしています。非常に参考になるので、メモしておきます。はずかしながら、この護教家のことは、この本を読むまで全く知りませんでした。こういう護教家の思想がもっとキリスト教信仰の本流に流れていればキリスト教の歴史もかなり違ったものになったかも知れません。

≪ 2世紀から3世紀の移り目ごろの創造信仰を表現したものとして、最も有名なものの一つがミヌキウス・フェリクスの『オクタヴィウス』である。まず中身を紹介しよう。以下はこの著作の中でも特に有名なくだりである(Minucius Felis,Octabius, XVII,5-11)。

天そのものを見よ。いかに広くひろがっているか。いかに速く回転しているか。あるいは夜になると星がちりばめられ、昼には太陽によって照らされる。だからそこに、最高の管理者による驚くべき、かつ神的な調整が働いていることがわかろう。また太陽の回転がいかにして年を作るか、また月が大きくなり、欠けていき、新月にいたることでいかに月々を作るかを見よ。闇と光が順にうまくめぐってくることについて、何と言おうか。おかげで我々には労働と休息が交互に更新するのである。星について詳しく語ることは、天文学者におまかせするのがよかろう。星々がいかに航海の道筋を示し、また耕したり収穫したりする時を教えてくれるか、ということを。そのそれぞれが創造され、作られ、管理されるには、最高の働き手と完全な理性とが必要である、というだけでなく、それらを感知し、観察し、理解することは、最高の巧みさと理性なしには不可能である。
どういうことか。季節と収穫とが恒常的な変化によって区別される時、その主宰者であり父である者の存在を証明しているのではなかろうか。春はその花によって、夏はその収穫によって、秋の有難い実りが、そして冬の必需品オリーヴが。この秩序は、もしも最大の理性によって支えられているのでなければ、容易に混乱してしまうだろう。どれほどの摂理によって、冬だけが氷によって凍てつかせたり、夏だけが灼熱によって焼きつくしたりしないように、秋と春の温暖な気候を間に入れるために、くり返しもどって来る一年の歩みによって、目に見えぬ穏やかな変化が作られていることか。
海を見よ。海岸の法則によってさえぎられている。どんな木であろうと見るがよい。いかに大地の内側から生気を与えられていることか。大洋を見よ。定期的な潮によって満ちたり引いたりしている。泉を見よ。絶えることのない水脈によって安定している。川に注目してみよ。常に活発な流れで動いている。では、山々のきっちりした配置、丘のうねり、平野の広がりについてどう言うべきか。動物たちが互いに対して身を守るためのさまざまな防具の一つ一つについてはど言おうか。あるものは角で武装し、あるものは歯で身を守り、あるものは蹄の上に立つ。あるいは刺を持ち、あるいは足の速さや翼で飛んで逃げ出す。しかし何よりも、まさに我々人間の形の美しさが制作者である神をあかししている。まっすぐな姿勢、立った顔、眼は見張台の上みたいに身体の最上部に位置し、他の器官もすべて砦の中のようにうまく配置されている。 ≫

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