ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

礼拝で歌う聖歌について

2009-02-08 21:08:09 | ときのまにまに
日本聖公会では2006年に新しい聖歌集が第56総会で承認され、各教会でも使用されている。新しい聖歌集では聖歌580曲のいわゆるチャントと呼ばれる礼拝用の歌が21曲、聖餐式用の歌が40曲プラス、その他に詩編歌が30曲プラスが納められ、たいしたものである。この聖歌集の編纂は1971年から始められているので35年かかっている勘定になる。随分時間と金と人力とをかけたものである。驚くというよりも、あきれる。
35年といえば、人々の音楽意識も礼拝理解も当然大きな変化しており、もちろん編集に関わる人材も入れ替わっている。当然、600曲以上が納められているのであるから、「いい聖歌」もあれば「こんなの使えない」というものもある。
最終的には、礼拝を司る人々の選択で、一回の礼拝ではそのうちの数曲しか必要ないのであるので、「いいな」と思うものだけ使っていれば済むことであるが、そこが聖公会の真面目な人々、せっかくそこに納められているのだから、出来るだけまんべんなく、沢山使おうとする。あたかも、それが聖公会員の義務であるかのように。
聖公会を構成している聖職・信徒には性別、年齢構成、職業、文化的背景が多様であるから、通常の礼拝ではこの聖歌集の中からしか使えないという規定がある以上、いろいろの歌詞や曲があるほうが便利ではある。ということは、各教会で、独自にこの中からせいぜい200曲位を選択して、各教会独自の聖歌集を編集するのがいいのではないだろうか。
だいたい、A5判で、厚さ3センチ、重量885グラム、こんなに嵩張り、重たい聖歌集を抱えて礼拝に出席し、それを持ち上げて歌う、何か苦行を強いられているような気がする。悪いことに、わたしなどは聖歌を歌うときには老眼鏡が必要で、丁度見やすい部分に聖歌集を持ち上げることは苦痛以外の何ものでもない。こういうものを礼拝用具として出版し、買わせ、抱えさせるというセンスが理解できない。
むかし、歌声喫茶が流行った頃、(また、最近はやり始めているらしいが)、それが流行った一つの理由は、そこで提供された小さな「歌集」にあると思う。礼拝で使う聖歌が音符が付いていなければ歌えないということが、そもそもおかしいのではないだろうか。歌詞だけで十分という文化が形成されなければ、聖歌が実生活に密着しない、とわたしは考えるが、その考えはおかしいのだろうか。
ともかく、主日礼拝に出席して、一曲も心から感動して歌う聖歌がないということは本当に寂しい。何か、中学や高校の時のつまらない音楽の時間を思い出す。読めない楽譜を無理矢理に読まされて、たどたどしく歌っている信徒の姿を見ると、やりきれない気がする。

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