ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

新たな責任の時代

2009-01-21 20:11:37 | ときのまにまに
オバマ大統領の就任演説で、特に強調された点は「今、わたしたちに求められているのは、新たな責任の時代である」という言葉に象徴される責任ということであろう。アメリカの大統領が「責任」という言葉を使う場合には一定の警戒心を持たねばならないと思うが、彼の場合には、今までのアメリカの大統領が言う「責任」とはかなり内容が異なるように思う。いわゆる「大国意識」というより、国際社会を構成する一つの国としての責任である。その意味では、「分担された責任」という言い方が適当なのかも知れない。今までのアメリカの「責任感とは状況からの要請に基づく応答としてのレスポンシビリティというよりも、非民主的な社会に対して民主主義を根付かせる責任、端的に言ってしまえば、「神から与えられた使命に基づく責任」あるいは「民主主義の宣教師としての責任」とでも言ったら、いいのかも知れない。
この演説を機に、「責任」ということについて考えた。もちろん、オバマ大統領はこの言葉を「レスポンシビリティ」という英語で語っているのであり、日本語の「責任」という言葉とはかなりニュアンスが異なる。たとえば、レスポンシビリティという場合には「責任をとって辞職する」という言葉は成り立たない。レスポンシビリティとは、レスポンスの名詞形であり、状況に対する「反応」とか「応答」ということで、そこには状況からの呼びかけが前提となっている。たとえば、「イラクからの責任ある撤退」というような形で語られている。つまり、イラクへの不当な介入を反省して、これ以上イラクあるいは周辺諸国へ悪影響を残さないようにして撤退するということであろう。それが責任である。
ところが広辞苑によると、日本語の「責任」とは「政治、道徳、法律などの観点から非難されるべき責・科(とが)を意味し、それを認めることが責任とされる。つまり自己の行為により他の人が害を受けた場合に、その害を補うのが責任である。そこには状況への応答性という意味でのレスポンシビリティは全くない。あくまでも結果責任である。
それに対して、レスポンシビリティにおいては状況に対するこれからの行動が問われる。この状況に対して、わたしたちはどう行動するのか。
その意味では、最も無責任な態度とは、責任ある立場の人間が「する」と明言していたことを、ちょっと困難に直面するや否や、それを投げ出して、「話し合いに応じない野党」に責任を押しつけたり、あるいは部下である官僚に「無理を承知の上で業務命令」を下して逃げる政治家であろう。しかし、官僚の方が結構賢くて、うまく困難を乗り越え、政治家に「貸し」を作る。

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