ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村日記より、松村の社会的関心

2009-01-22 20:17:53 | ときのまにまに
1925年10月、当時三高の学生の間で、「進化会」という名称で社会主義の活動があり、学校当局より解散を命じられたようである。10月13日、進化会は「檄」を出して一旦は解散を決議したが、解散式の会場問題で学校当局と対立し、最終的には関係学生8名を停学処分にした。それに対して、松村とその仲間は彼らの復学を要求し、教授たちの署名を求めて個別訪問をしている。
この問題をめぐって、10月28日(水)に室町教会の牧師館で三高の学生たちの懇談会が開かれた。この懇談会には当時三高学生であった和田洋一も参加した。和田洋一は、松村より5歳年上で、父親は同志社の教授で室町教会の長老であった。従って、松村は教会に行き始めた頃から和田洋一とは当然顔見知りであったが、学年も違い初めの頃はそれほど親しかったわけではないが、結局生涯の友となる。後に、和田洋一は同志社大学の講師となり、1938年治安維持法違反で検挙され、有罪判決を受けた。
この会合は松村にとっても非常に有益であったらしく、その日の日記に、感想と松村自身の社会革命に対するスタンスが記されている。文章は当時の高校生らしく稚拙で、思想的な深まりもあまり感じられないが、松村の一生を見渡す立場から読むと、その後の成長の中で深められたもの、変わらないものが見えてくるので興味深い。

以下日記より
夕食後、6時半よN、I、W、Hと日高さんのお宅を訪問したら和田君がやって来た。今夜の会合は非常に愉快で色々と教えられ教会以上に得るところが多かった。種々お話の中に
―――創世記のアダム、イブの話の禁断の実を食って人間が悪くなったというのは宗教上の象徴をもって表したもので、神は人性に良心を与え、これに人間としての規矩を定め同時にまた意志の自由を与えられた。人間は何事もなしに善良に過ごすということは平凡で面白くないと考えられるのも一つの考え方だ。そして悪に対しては心から惹かれる。つまり罪を犯して見たいものだ、(そうしたら)どうなるだろうという好奇心を起こす。これが誘惑である。つまり、この話は良心に自由意志を与えられた我等の祖先が誘惑されて一定の限度を超えてこれを濫用した為に罪を犯し、悪くなったことを表現しものである。―――
―――この社会を不合理と考え、一方贅沢を極めているブルジョアが金を湯水の如くに使うのを見、また一方には明日の食にも困っている多くの無産階級を見、これに同情して、この社会を不合理と見、ブルジョアに対して憤慨するのは一種のセンチメンタリズムで浅薄な考えである。或人曰く。君は社会主義を認め賛成しながら何故この運動を共にせぬかと。併し私は主義には賛成しても一緒にやるのはいやだ。何故ならばその主義はよいがその方法がいけないからその運動を共にすることはいやだ。革命等によってこの社会組織を変えたとしても必ずしも多くの人が幸福にはならない。むしろ、現在よりも多くの不幸な人を出すとも考えられる。又、そうした所で今のロシヤのように、又逆戻りをする。我等は人心を根本的に魂から改造して徐々に進んで理想に近づきたい。その時には総ての矛盾はなくなる。主義に賛成してもその運動を共にするのを肯んぜざるは丁度盗賊は悪いもので、これを捕まえる刑事はよいということには異存はないが、刑事の仕事をやらないのと同じである。われわれ基督者にはもっと高遠な理想使命がある。故にこの運動には加わらない。われわれにはこれらを超越してもっと高い立場に立って人類社会の改造に進まねばならぬ。この運動そのものの中に入ってしまい、一方に偏して階級闘争をするのはくだらぬセンチメンタリズムである。ブルジョア必ずしも幸福ならず。彼らは却って哀れむべきである。魂的には彼らもまたブロレタリアと同じくそれ以上に多くの悩みがあり、欠陥を有している。大きな立場に立って考えるなら、これら両者は共に哀れむべきものである。われわれはこの闘いの中に加わって一方に偏せずしてもっと高遠な理想よりこれら両者を根本的に救っていかねばならない。―――
―――人は他人が自分に対して何と思っているだろうと他人の思惑のみを気にして生活する程不愉快なことはない。如何にしてこれらの人を愛し得るかと常に心がけて生活するときは愉快にして且つ少しも恐れ躊躇することはない。かくして神によって高められた完全な生まれ変わった自己というものが本当に発現する。―――
―――信仰生活は常に緊張した生活ではない。われわれは却って現在より受洗前の生活の方が遙かに真剣な緊張した生活であったことを思い、現在が不信仰状態に非ざるかと心配する。併し、信仰の生涯は学校の過程の如く段階あるもので常に緊張しているということはあり得べからざる事である。ある高潮した時期が過ぎると学期の初めのごとき穏やかな時が続く。そして又、ある問題にぶっつかって再び真剣に緊張してそれが済むとまた平穏になる。かくして次第次第に信仰生活は発展するものである。

受洗後まだ数ヶ月の三高生(17歳)の文章である。寛容な目で読んでもらいたい。

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