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ぶんやさんの記録

説教「神の国から遠くない マルコ12:28-34」

2015-11-03 19:07:14 | 説教
2015年11月3日  (ハインド協働教会合同礼拝)
説教「神の国から遠くない マルコ12:28-34」

1. 問題の所在

一人の律法学者がイエスとサドカイ派の人々の議論を聞いていました。福音記者マタイは、この部分を読んで違和感を感じたらしい。なぜ、律法学者がここに居るのだろう。マタイの疑問の理由は律法学者であればファリサイ派の人に決まっているという先入観があったようです。それでマタイは自分の福音書では、かなり手を入れて、そこに律法学者がいなかったことにしている。ルカも、この話を全然違う文脈に置いている。マタイとルカとは律法学者といえばファリサイ派だという決めつけがあるようであるが、そんなことはない。それは一種の偏見である。サドカイ派の律法学者もいればファリサイ派の律法学者もいる。丁度、キリスト者の弁護士がいるのと同じように共産主義者の弁護士もいる。マルコはファリサイ派ともサドカイ派とも言っていない、一人の律法学者がいたということだけです。
イエスとサドカイ派の人々との議論のテーマは、「復活はあるか、ないか」、かなり深刻な問題です。この問題は当時、サドカイ派とファリサイ派との間で激しく論争が繰り返されていました。サドカイ派では復活はないと主張し、ファリサイ派ではあると主張していました。この律法学者にとっても非常に関心のあるテーマだったと思われます。サドカイ派の人々はイエスはファリサイ派だと思っていたようです。ここでの「復活」というのはイエスの復活以前の問題で、後のキリスト教における復活信仰とは全く関係がありません。彼らの議論は、現代風にいえば、人間は死んだらどうなるということに焦点があり、サドカイ派の人々は、人間は死んだらそれですべて終わりで、死後の生命などは、夢物語にすぎないという立場でした。それに対してファリサイ派の人々は死後の生命を信じていました。その意味では死は一種の「通過点」だと考えていたようです。

さて、その問題は今日のところではありませんので、そこでストップです。今日のテキストはそれに続く部分です。この議論を聞いていた一人の律法学者が、イエスの「立派な答え」を聞き、感心した上で、イエスに向かって一つの質問を致しました。きっと、律法学者たちの間で激しく議論されていた問題だと思われます。「あらゆる掟のうちで、どれが第1でしょうか」。実はこの問題をめぐって、2つの立場がありました。1つはそういう問いの立て方自体が間違っている。掟というものは一条一句、すべて同じように重要なので、それを総括して「どの掟が最も重要だ」などと問うことは間違っているという立場と、そうではない。すべての掟を総括する「掟」がある、という立場でした。それでこの律法学者はこの問題についての意見を聞きたかったのだと思われます。その意味でこの律法学者はイエス対して決して敵対的ではありません。

ここで一寸余談。私たちはしばしば、人にレッテルを貼ります。あの人はああいう人だから、反対にするに違いないとか、彼は共産党支持者だからキリスト教を嫌っているとかいうように。ここでもあの人は律法学者だからファリサイ派に違いない。ファリサイ派で律法学者なのだから、間違いなくイエスに何か文句をつけているに違いないと思ってしまう。それはこの律法学者へのレッテルであると同時に、実はイエスに対してもレッテルを貼っていることになります。実は、私がこんなことを取り上げるのは、マタイやルカが同じことをしているからです。彼らはこのマルコの物語を自分の福音書に書き込むとき、「イエスを試そうとして」(マタイ22:35、ルカ10:25)という言葉をわざわざ挿入しています。重要なことは、この言葉が一旦挿入されますとこの出来事そのものが一つの方向性を持ってしまうことです。律法学者とイエスとの間に敵対関係があるということを示唆してしまいます。確かにマルコ福音書でもイエスと律法学者たちとの敵対関係を示す描写はあります。例えば本日のテキストのすぐ後にもイエスが律法学者を激しく批判している言葉が見られるます(12:38-40)。しかし少なくとも本日のテキストにおいてはイエスと律法学者との対話は決して敵対的ではありません。むしろ非常に紳士的です。

「あらゆる掟のうちで、どれが第1でしょうか」という質問はユダヤ人なら誰でも答えられるようなものであり、受け止め方によっては人をバカにしたような内容であると思われます。しかしイエスはその質問にまともに答えています。しかも質問者の質問以上に「第2の掟」も付け加えています。イエスの態度とその答えに律法学者の方も襟を正してイエスに対して改めて「先生」と呼び、その答えが正しいことを認め、復唱いたします。今度は律法学者の方が、イエスの答えに、さらにもう一言付け加えています。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と。今度はイエスの方が感心し、「あなたは、神の国から遠くない」と評価いたします。
二人の対話はお互に相手の意見をよく聞き、それを評価した上で、さら自分自身の意見も付け加えており、典型的な律法学者同士の議論という印象がいたします。二人の会話はそこまでです。この会話を聞いていた人たちも満足したのか、もうそれ以上質もをする人はなかった、ということで、この物語は終わりです。

2.イエスの言葉
しかし、私たちにはまだ終わっていません。ここからが本日のメッセージです。この会話でイエスは非常に重要なことを私たちに語っています。それはイエスが律法学者に語った「あなたは、神の国から遠くない」という言葉です。これは一体どういう意味でしょうか。「遠くない」とは一体どういう意味なのか。イエスの教えと律法学者との間は「遠くはない」。しかし、まったく同じだという訳でもない。全然間違っているという訳でもない。まさに「遠くはない」である。神の国まで後一歩。この場合、もちろん「神の国」とは「私と同じ立場」、「イエスの仲間」、教会を意味しています。この一歩を乗り越えれば、あなたと私は完全に一致する。じゃ、イエスのその「最後一歩」とは何を意味しているのだろうか。それを発見する5つのヒントがここでの会話の中に隠されています。

先ず第1のヒント、
(1) 二人の会話の最後に律法学者は「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言い、それに対してイエスは「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです。
単純に考えますと、隣人愛は宗教的儀式よりも優れているという意味です。神への宗教的儀式を否定しているわけではありませんが、それよりも隣人愛の方がもっと重要だ、と律法学者は言いました。キリスト者なら誰でもそう思うと思います。もっとも、実際的な生活を見ていると、そうではなさそうな人もいない訳ではありませんが。当時のユダヤ人たちを考えると、この発言はかなり勇気のある発言だったと思います。イエスもこの言葉を聞いて、もう「後一歩だ」と言はれたのだと思います。

そこで第2のヒント、
(2)「隣人を自分のように愛する」とはどういう意味か。
「自分のように隣人を愛する」とはどういうことなのか。この言葉も議論を始めるとジャングルに迷い込んだようなややこしい問題が出てきますが、要するに「隣人愛」と「自己愛」とを区別しないで、同じレベルにせよ、ということであろうと思います。ところで問題はその「隣人」とは誰なのか。これはユダヤ人の間でもかなり深刻に議論されていたらしい問題です。その結果、だいたいの決着は「同胞愛」、あるいは「同胞になることを希望している人」、いわゆる「寄留者」を含む「同胞」が「隣人」だとされていたようです。ところがイエスはその結論に納得していなかったように思われます。有名な「良きサマリア人の譬え」(ルカ10:25~37)を語り、隣人とは誰かという議論をするよりも、あなた方自身が助けを求めている人の隣人なることが重要であると、ユダヤ人たちに迫りました。ユダヤ人にとってサマリア人は「憎い敵」であり、軽蔑すべき人々で、絶対に「隣人」とは認められない人々でした。サマリア人はユダヤ人にとって実にややこしい相手です。同じヤハウェを信じており、昔は「同胞」でしたが、あるときから敵対関係になり、それがそのまま「敵」だと思われるようになっていました。サマリア人をユダヤ人と同じように愛せるのか。その点でイエスの立場、あるいはキリスト教の立場は明白です。
しかし、その後のキリスト教の歴史を考えますと、あまり誉められたものではありません。一寸した教理上の違いで分裂したり、殺し合ったりということで、イエスの心から離れてしまっていました。これを取り戻すのが大変です。
で、本題に戻ります。「自分のように隣人を愛する」という言葉は言葉としては分かりやすいのですが、いざ実際の場面でこれを実践しようと思うと、それは大変難しいことになります。究極的には命の譲り合い、あるいは命の奪い合いという場面をも想定しなければならなくなるでしょう。勿論、相手次第ということでしょうが、この戒めはそこまで要求しているのであろうか。少なくともこの言葉は甘くはありません。それで、当然のように、隣人愛については「どこまで」という問いが残ります。そこで10章17-21節の金持ちの男の出来事を思い出します。

そこで第3のヒント、
(3)「あなたに欠けているものが一つある」
ここに登場する金持ちの男は十戒における人間に関連する六つの戒めを「子供の時から守ってきました」と宣言いたします。この言葉には偽りはないと思います。イエスもそれを認めた上で、この男に「あなたに欠けているものが一つある」と言われます。イエスは彼に何を求めているのでしょうか。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とイエスは命じられました。この言葉を聞いてこの男は気を落として立ち去ってしまいます。この男も随分、真面目な人物であったと思います。
この物語を読んで、あなた方はどう考えますか。いや、もしあなたがこの男の立場だったらどうします。おそらくイエスの言葉の方が無茶だと思うでしょうし、この男の方がずーっとまともだと思わないでしょうか。ともあれ、いろいろ理屈を考えるでしょう。財産を全部売ってしまったら、もうそれから以後、人々に施すこともできなくなるではないか。それでいいのだろうか。従って、これが現実のことであったら、イエスの方を見限って、一言、批判の言葉でも残してイエスから離れていくだろうと思います。

だから、この問題は未だ解決していないのです。イエスはこの青年を見ていったい何を感じたのでしょうか。この青年はイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」と問いかけることからこの話は始まりました。イエスはこの青年のその問いかけ自体の中にこの青年の問題が隠れていると感じられたようです。おそらくこの青年は真面目なユダヤ人であったのでしょう。この青年は「永遠の命を受け継ぐ」という絶大な恵みを受けるためのいわば条件、あるいは権利を自分の行為によって得ようとしています。自分の出来ること、自分自身の力によってその恵みを手に入れることが出来ると考えていたようです。十戒をキッチリと守れば「永遠の命」を受け継ぐことができる考えていたようです。しかし、この青年はそれでいいのだろうかという疑問を心の中に持っていたようです。まだ何か足らないものがあると感じていたのでしょう。だkらこそ、彼はわざわざイエスの所にやって来たのです。イエスはその青年に「全部施せ」という言葉は非常に酷です。酷であるというより出来ないことである。イエスは出来ないことをこの青年に要求しているように見えます。この青年が隣人を愛するという場合、いくら出せば隣人を愛したことになりますか、とイエスに質問していることになります。いわば「愛の行為」の枠を訊ねているのです。イエスの「全部施せ」という言葉は、愛には限界がないことを示しています。考えてみてください。あなたは自分を愛するのに限界を設けるでしょうか。その意味では自己愛には限界はありません。ユダヤ教徒である律法学者の隣人愛には「ここまで」という限界があります。

この出来事を通してイエスが示している第4のヒント、
(4) 隣人愛の限界を超えるものとは何か。
隣人愛を超えるもの言えば、「敵を愛する」ということが思い浮かびます。その言葉はマタイ福音書によるもので、残念ながらマルコには見られません。よく考えてみると、敵を愛するという愛は実は隣人愛の延長線上にある倫理思想です。それはユダヤ教にも既に見られるもので、必ずしもキリスト教固有のものではありません。さぁ、そこで「遠くはない」という後一歩は何か。

そこで最後の第5のヒント、
(5) ユダヤ教になくて、キリスト教にあるものとは何か。
この律法学者はユダヤ教における隣人愛を示し、イエスはそれを認め「あなたは神の国から遠くはない」と言われました。その「遠くはないもの」とは、ユダヤ教にはなくてイエスにあるものでしょう。それは何か。この点こそすべてのキリスト者はしっかりと自覚しておかねばならないことです。そうでなければ、大きな顔をして、私はキリスト者ですなんて言えません。

正直なところ、私もこの「最後の一歩」については話したくありません。というよりも、話せないというべきでしょう。人間は自分が出来もしないことを語るべきではない、と思う。しかし、もし、牧師が自分が出来ることだけを語っていたら、キリスト教になりません。そこが、すべての牧師が悩む最大のポイントです。牧師は、あくまでも牧師としての私は、私自身が出来そうもないことを話さなければならないのです。それが第5のヒントです。
これがあるからこそ、私たちはユダヤ教徒ではなく、仏教徒でもなく、他のいかなる宗教の信者ではなく、キリスト者なのです。もし、この点を自覚し、それこそが本当の愛であるということを認めるならば、その人はどのような宗教に属していようと、あるいは無宗教であろうと、「キリスト者」である。まさにその点こそ、律法学者パウロがイエスの中に見たものです。「目の前に、イエス・キリストが十字架に付けられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)とパウロは言う。パウロがキリスト者であるのは、これを見たからである。
ヨハネはそれをこういう言葉で言い表しています。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。この言葉はパウロよりも一世代後のキリスト者による言葉ですが、パウロ自身が経験したことでもあります。だからこそ、パウロはキリストの十字架に異常なこだわりを持つのです。すべてのキリスト者が「十字架」に異常に執着しているのも、このためなのです。

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