ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/06/08~06/14

2014-06-15 08:27:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/06/08~06/14

2014日々の聖句 06月08日(日)
主よ、瞳のようにわたしを守ってください。(詩17:8)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

私の黙想:
「瞳のように」申命記32:10では「ご自分の瞳のように守る」という言葉がある。ゼカリア書2:12ではイスラエルの民は「わたしの瞳」だと言われている。瞳とは身体の中でも最も弱い部分であると同時に最も攻められやすい部分である。瞳がやられたら、全体が危険にさらされる部分であり、保護されなければならない部分でもある。どの日本語訳でもほとんど無視されているが(岩波訳を除いて)、実はヘブライ語原文では重要な「説明句」「バット・アイン」(目の娘)が付加されている。この説明句をどう理解すべきか。「目の中の娘」つまり「目に入れても痛くない娘」という意味か、命をかけても守るべきものという意味か。ともかく、瞳とはそういうものだという。

2014日々の聖句 06月09日(月)
わたしたちは、自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。(ホセア14:4)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マタイ16:26)
私の黙想:
ホセアは北のイスラエル王国でアッシリアに滅ぼされる直前頃の預言者。北のイスラエルの問題点は異教の神に走ったこと。「自分たちが手が作ったもの」を神としない。これはもはや「異教の神々」でもない。まさに自分たち、つまり「人間が作ったもの」である。この句の直前にある言葉は「わたしたちはもはや軍馬に乗りません」で、これは戦争放棄の誓いであり、さらにその直前には「アッシリアはわたしたちの救いではありません」、つまり強大国にも依存しないという国際宣言である。少し強引に読み取ると、「原発」崇拝をやめ、軍備を放棄し、強大国の核にも依存しないということになろうか。しかし、このような預言者の言葉も無視して、アッシリアに隷属し、軍備を強化し、国民の精神統合政策を進めたため、北の王国は世界史から完全に消え去ってしまった。

2014日々の聖句 06月10日(火)
わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。(1列王8:57)

わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示し、怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブル6:11~12)

私の黙想:

神殿の献堂式におけるソロモン王の祈りの1節である。神殿の建築ということは先王ダビデの宿願であり、ダビデは建築材料を整えその建築事業を全て後継者ソロモンに委ねました。従ってソロモン王にとって神殿の建築は最初の大事業であり、それが完成した喜びも一入であったことであろう。ソロモン王にとって神殿はダビデ王の遺志の継承であり、同時に自分の権力の誇示である。
同時に神殿の存在そのものは神が「共にいてくださる」という保証である。神が共にいてくださるということは大きな祝福であり恵みであるが、時には「鬱陶しい」ことでもある。これだけの権力を継承したのだから少しは自由に振る舞いたいという気持ちが働く。そこから堕落が始まる。

2014日々の聖句 06月11日(水)
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。(詩51:5)

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

私の黙想:
「背いたこと(ペシャ)」という言葉は、従来「咎(とが)」と訳されてきた(文語訳、口語訳)。ほとんど「キリスト教用語」に違い。咎を広辞苑で調べると「とがめられなければならない行為、あやまち」と説明されている。説明文の中に「咎」という単語が用いられていて説明にならない。確かに「とがめる」という言い方は割合一般的である。むしろ「科」という字も用いられるらしい。これは「前科」というような表現で今でも生きている。つまり「原罪」などという行為以前の「罪」ではなく、誰かに対する具体的な行為としての罪を意味している。岩波訳の補注では「神に対して深い負い目があり、神から見捨てられたと思う心」と説明されている。
この詩篇の場合の設定では、ダビデがボト・シェバと不倫関係になったことを指している。「あなたに背いたことをわたしは知っています」。この具体的な行為を神に対するペシャとして自覚し、認識しているということが、この詩篇の眼目である。フランシスコ会訳では「わたしは自分の咎を認めます」と訳している。余分なことになるが7節(5節)の「咎」という言葉が「原罪」を意味する言葉として理解されていることが問題である。ここではペシャではなく、「アーヲン」という単語が用いられている。いずれにせよヘブライ語における「罪」という語の多様性は日本語では表現しきれない。

2014日々の聖句 06月12日(木)
わたしは、行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。(イザヤ42:16)

キリストの言葉:見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。(黙示録3:8)

私の黙想:
節電ということで、商店などでトイレの電気が普段消されている。そのシステムを知らない客はスイッチを探す。外に無ければ中だ、ということで恐る恐る真っ暗なトイレの中に足を踏み入れる。その瞬間、点灯する。長い廊下などでもそのシステムがあり、人間が通ると次々と点灯し行く手を明るくする。
どれほど科学技術が進歩しても、人間は未来を予想を出来ても、完全に知り、支配することはできない。一瞬先も見えない。闇だ。近頃、道路にブロックや木材を置いて自動車の通行を妨げるのが流行っている。真っ暗な高速道路を走る時、カーブの先に何があるのか解らない。こんなところに障害物があるはずがないと信じて、高速で走行する。夜寝る時、明日があるかどうか人間には知り得ない。その意味では人間は「信仰」によって生きている。


2014日々の聖句 06月13日(金)
神よ、守ってくださいあなたを避けどころとするわたしを。(詩16:1)
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。(ヘブル11:23)

私の黙想:
詩16、何と美しい詩であろう。短い言葉で信仰者として生きる全てが凝縮されている。「信仰者として生きるとはどういうことですか」という質問に、この詩を読めば、信仰者の気持ちが全て述べられている。神への信仰告白、全世界に向かっての宣言。与えられた「私の分」に満足している私、日々の幸福感、死の恐怖の克服。過去も現在も将来も、すべて神において安心している私。

2014日々の聖句 06月14日(土)
主よ、あなたはさまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。(詩104:4)
船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。(使徒言行録27:15)

私の黙想:
神の偉大さを言い表す表現の一つ。神は天地万物を創造しただけではなく、それらを全て手足のように用いられる。「風を伝令とする」。実に面白い表現である。現代風に言い直すと「電波」であろう。同様に「雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り」などは飛行機を想像する。古代ユダヤ人は大したものだ。まるで手塚治が鉄腕アトムを描くように、神の偉大さを自由に生き生きと描いている。詩104には神の偉大な業がいろいろと取り上げられている。その中でも、私は15節の前半が好きだ。この句を読めば「禁酒禁煙の教え」なんか吹っ飛んでしまう。これも神の偉大な恵みの一つなのだ。(注:「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」)
23節の言葉も見逃す訳にはいかない。「人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」。人間にとって労働とは神から与えられた恵みであり、喜びなのだ。それが本来の労働なのだ。その労働を「苦役」に変え、人間が人間を搾取する手段としてのは、人間の欲である。

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