ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 06/13 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」

2014-06-15 07:55:11 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。私も家内もその部屋の前を通る度に「空虚さ」を確かめているのが面白い。ネグリ『叛逆』第3章を続読。「おのおのの世代は自らの憲法(=政体)を創出しなければならない」。ジムに行く。「MOZU」(最終回)を見て10時半に就寝、5時半起床。体調・快調、チュン、チュン。

大脇 友弘さん、木下 海龍さん、望月 克仁さん、他18人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。面接にいきます。良き日となりますように。お祈りします。
posted at 05:37:29

文屋 善明
今日の名言:RT @meigennavi:
若さを保つ秘訣。正直に生きること、ゆっくり食べること、そして、歳をごまかすこと。(ルシル・ボール、米国の個性派女優、コメディアン、1911~1989)
<一言>ということは、彼女は私と同じ歳で逝去したのか。その時、彼女は何歳だと言っていたのだろう。

小栗 龍男さん、宮脇 温子さん、鈴木 宏昌さん、他18人が「いいね!」と言っています。

糸原 由美子 i love Lucy のルシルですね。なつかしい!我が家にTVが来た頃父とよく見ました。

文屋 善明 そうか、あのルシーか。

糸原 由美子 えー!当然ご存じとおもっていました。

文屋 善明 いや、結びついていませんでした。
posted at 06:13:55

「昨日のツイート 06/11 バチカンとNTTデータ、想像を絶する交渉の舞台裏」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/8b1bb9d06d2a9d786d549ba52657e3f…
posted at 06:36:48

文屋 善明
NHKこころ旅。新潟最後の日、長岡駅前より。心の風景、新潟の街の中心を流れる信濃川に架かる万代(ばんだい)橋から眺める風景。新潟市へ向かう。荻川(おぎかわ)駅まで輪行。正平さんのファションがいい。美女にコーヒー屋を尋ねる。きれいな店だ。自転車専用車線ができている。日本一の大橋の風を感じる。

文屋 知明さん、岸本 望さん、北村 良輔さん、他10人が「いいね!」と言っています。

野間光顕 ばんだい橋は、数年前から旧漢字の「萬代橋」になりました。古くから川によって寸断されていた新潟の町が、「この橋によってよろずよに(萬代)に栄える」事を願って作られたという逸話があります。実際、50年前の新潟地震の時にも崩れずに、新潟の復興を支える希望の橋となりました。

文屋 善明
お目覚めの花。
写真: 「今朝は久しぶりに太陽が輝いていますね」「眩しいぐらいですね」「あなたも輝いていますよ」。(夢タウンの花屋さんにて)

Su Suさん、細谷 民子さん、森田 美芽さん、他42人が「いいね!」と言っています。

Yasuo Hirose もうヒマワリですねえ。

文屋 善明
2014日々の聖句 06月13日(金)
神よ、守ってくださいあなたを避けどころとするわたしを。(詩16:1)
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。(ヘブル11:23)
私の黙想:
詩16、何と美しい詩であろう。短い言葉で信仰者として生きる全てが凝縮されている。「信仰者として生きるとはどういうことですか」という質問に、この詩を読めば、信仰者の気持ちが全て述べられている。神への信仰告白、全世界に向かっての宣言。与えられた「私の分」に満足している私、日々の幸福感、死の恐怖の克服。過去も現在も将来も、すべて神において安心している私。

森田 美芽さん、宮脇 温子さん、鈴木 宏昌さん、他21人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんが大脇 友弘さんの近況をシェアしました。
心が洗われます。

★「おお!詩人かよ!」
最近の四女は、反抗して離れたり甘えてくっついてきたり。今日、遅く帰ったらくっついて来た。
「私の詩のノート読みたい?」と可愛いノートを見せる。・・・素直に「読んで!」っていえばいいものを・・・。

一人で何か夢中になって書くことが好きなようだ。
それは自分の世界をつくることで自分を守っているように思えます。
どこかで聞いたようなことを・・・、幼いと言えば幼いけど、自分なりに考え自分に言い聞かせながら書いてるんやろうな・・・。

「どう?」
「おお、詩人やん、感動!」

いくつか、読んであげてください。
四女(21歳、知的障害)、精一杯生きてます。 (写真5枚)
大脇 友弘さんの写真

文屋 知明さん、木下 海龍さん、北村 良輔さん、他10人が「いいね!」と言っています。

大脇 友弘 文屋さん、ありがとうございます。

小川 圭一 精一杯のお姿に、心が洗われました。感謝します。

村田 多鶴子 『五体不満足』の著者・乙武洋匡さんは、「失敗」と書いて、「けいけん」と読むと仰っておられます~♪(^^♪

糸原 由美子 素敵な詩と絵ですね。うちの二男はパニック障害やらうつやらを患っていましたが今、障がいのあるかたのヘルパーをして逆に癒していただいているようです。

文屋 善明 私はこれが病床にある人がベッドの上で読めるような「小さな絵本なれば」と願っています。彼女はキリスト者ではありませんが、何とかならないでしょうか。

大脇 友弘 過分な評価、文屋さん、私は信教には頓着がありませんが、人生をよく行きたいといという思いは通じあえると思います。


文屋 善明

「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」
イエスの譬え話について福音書の読者にとって悩ましい問題がある。この問題をどう考えたらいいのか。そのことについてはっきりと文字化したのがマタイである。弟子たちはイエスに問う。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」。この問に対してイエスは次のように答える。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(マタイ13:10~11)。

この問題について福音書の専門家でない立場から、つまり一人の牧師としての視点から、私がどう考えているか、以下にまとめてみた。

この問いと答えはマルコ福音書に発すると思われる。マルコのその箇所を読むと次のようになっている。
「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである』」。(マルコ4:10~12)
よく読むと、そのとき弟子たちは「尋ねた」とあるが、何を尋ねたのか明記されていない。しかしイエスの応答は明らかに、何故イエスが公開の場では譬えでしか語らないのかという問いに対する答えになっている。それでマタイはマルコにおける質疑を補う上で、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」という質問の言葉を補ったのであろう。ルカはやはりマルコの文章における「尋ねた」という質問の内容を、「このたとえはどんな意味か」(ルカ8:9)と解釈している。そのために質問と答え(11節以下)とが直結し、10節のイエスの言葉は保持されているが、悩ましい問題には触れようとしない。その後もこの問題には一切触れない。
ともかく、このイエスの言葉は厄介な文章である。何時、誰が、どういう目的で、イエスに「何故、あなたは公開の場では譬え話しかしないのですか」と問いかけたのか。またそれに対するイエスの言葉の意味は何か。遠い過去のことでよく解らない。だからルカのように言葉は残すが完全に無視することもできる。
この時のイエスの厄介な言葉の主旨は、要するに「私が譬えで話をするのは、話をしてもわからない人たちには、あえてわからないようにするためなのだ」ということになる。本音を隠すために譬え話をする。そんなことアリかという感じがする。それなら話さなければいいではないかと言いたくなる。人に何かを語るのは理解をさせるためである。だからこのイエスの言辞には何か重要な中間項が落ちている感じがする。それは何か。はっきり言ってイエスの言葉は私たちの理解を超えている。ともかく、3人の福音書記者は理解できないまま、この伝承を書き残している。分からないから切り捨ててしまうというのではなく、分からないことは、分からないまま後の時代に継承するということも大切なのである。
ただマルコは密かに「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(マルコ4:33~34)という言葉を挿入し、自分の考えを述べている。「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。つまり「神の国の秘密」は弟子たちにだけ開示した。これが使徒の権威の源泉となったというのであろう。しかし、このマルコの言葉には33節と34節との間に重要な矛盾がある。それは「聞く能力に応じて」という言葉は、「分からせる」という目的があればこそ成り立つ言葉である。
マタイもこの悩ましい問題については基本的にはマルコと共有しているが、マルコの「弟子たちだけには」という部分については納得していないようである。マタイ13:16~17で「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と語り、読者に(キリスト者)にとってはすでに経験している事柄だと語る。つまり世の人々にとっては「謎」であるが、あなた方にとっては謎ではなく自明なことであるという。つまりイエスの譬えを理解できる人間と理解できない人間とに分かれる原因は、語り手であるイエスの側の問題ではなく聞く側の問題なのだということであろう。従ってマタイはマルコ13:34の言葉を削除する。
この問題についてのマタイの視点の重要性は次の言葉に見られる。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ13:35)。この部分はいわゆる定形引用であるが、ここで「預言者の言葉」とされている言葉は詩78:2~3の引用である。ここでの「たとえ」という言葉は詩編の方では「箴言」と訳されているが、要するにマタイはこの句をメシアは譬えによって民衆に「天地創造の時から隠されていたことを告げる」のだと解釈する。もちろんマタイはイエスの話が譬え話に限らないことを知っている。例えば「山の上での説教」など、譬え話ではない。その意味であマタイが「(イエスは)たとえを用いないでは何も語られなかった」というとき、それは単にイエスが群衆に向かって話をするその話が譬え話であったということを意味しているわけではない。むしろ個別的な説教とか行為とかが譬え話であったかどうかではなく、イエスの活動とその生そのものが「天の国の秘密」を語る譬えなのだという理解である。イエスが山の上で群集に「幸いなるか」と語りかける言葉がたとえなのではなく、イエスと共にいるその場が、天の国のパラボレー(比喩)である。イエスが病人を癒す時、そこに「天の国」が比喩的に存在している。その意味ではマタイにとってイエスの生き方に従っている「イエスの集団」つまり教会そのものが「天の国の比喩(アナロギア)」なのである。
これがマタイが到達した譬え話論への解答であろう。キリスト者はすでにそのことを経験しているが、イエスの言葉を受け入れない人たちには、「まだ」、隠されている。つまりイエスの集団「教会(B)」と「天国の奥義(A)」との関係が、まだ謎のままである。

播 稔さん、林 巌雄さん、東山 富昭さん、他19人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。お寺のお坊さんも、難しい仏教の哲理の話をせず、講話という形で、お話しされますが、そういうものではないでしょうか?(^^)

清水 行雄 宗教と学問が、現代のように完全に分離している社会では、宗教者は、学問的知識を背景にしながら、しかも宗教的真理について語らざるをえないという困難を抱えながら、存在しているのでしょうね

文屋 善明 イエスの場合、「宗教的真理」というような高邁なことではなく、もっと身近な事柄を主題にしているように思います。

清水 行雄 それはそうです、先生。謎のようなたとえ話をしても、難しい哲理をもっては、一言も語っていません。^_^

播 稔 「たとえ話」は具体的理解に役立ちます。

文屋 善明さんがRaymond Salausさんの写真をシェアしました。
これが根性というものだ。This is the GUT.

写真: Try with any style we wanted to be...just move forward. ...
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=833102390052726&set=a.552457664783868.135076.100000589182295&type=1&theater

Su Suさん、播 稔さん、東山 富昭さん、他21人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 僕でしたら、Then you must sleep and rest. とします(^^)

清水 行雄 ちょっとperseveranceが、足りませんでしたか(^^;)

糸原 由美子 Me too, Shimizusan!

文屋 善明 つまり、人間性を脅かされるような屈辱(苦労)を経験したことがないということですか。

糸原 由美子 私の場合、単にlazy なのでしょうね。

清水 行雄 要は、僕が極めてくたびれやすい人間だということです(^^)

文屋 善明 そこではじめて、Me too. と言えます。

清水 行雄 話は飛びますが、根性論や精神論で、日本は先の大戦で、圧倒的物量の前に、敗戦を余儀なくされたのではないでしょうか?

文屋 善明 話は飛んでいるのではなく、すり替えられているのです。私は根性論を賛美しているのではなく、マルチ・ルサー・キングの生き方と言葉に込められた反人種運動の粘り強さを賛美しているのです。『欲しがりません、勝つまでは」というのは根性論ではなく、国家の国民に対する締め付けです。

清水 行雄 そういう粘り強さとか、本物の根性は稀ですね。^_^

文屋 善明 これは本当に稀です。だから、M.L.キング牧師は偉大なのです。インドのガンジーも。だから、この言葉は偉大なのです。

清水 行雄 キング牧師もアメリカを舞台に活動しましたし、ガンジーもイギリスに留学しています。いわゆるアングロサクソン的な伝統には、不思議な力強さがありますね^_^

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