ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 6/6

2010-06-13 07:04:18 | ローズンゲン
6月6日(日)
いかに幸いなことか、裁きを守り、どのような時にも恵みの業を果たす人は。(詩編106:3)
だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。(マタイ10:32)
わたしの黙想
「裁きを守り」という日本語の意味は不明瞭。判決に従うという意味しか考えられない。むしろ口語訳のように「公正を守る」の方がよい。
ドイツの教会暦では今日の主日は「三位一体後第1主日」。わたしはどちらかというと、この方が好きだ。古い祈祷書ではこうなっていた。

6月7日(月)
主に対して怒りを燃やした者はことごとく、主に服し、恥を受ける。(イザヤ45:24)
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(1ペトロ2:12)
わたしの黙想
「主に対して怒りを燃やした者」とは「敵」つまり「主への対抗勢力」、勝負の結果、彼らは敗北し、恥を受ける。しかし、「主」はそのとき「ノーサイド」を宣言する。どこかで聞いた話しに似ている。

6月8日(火)
彼らは主に結びつき、永遠の契約が忘れられることはない。(エレミヤ50:5)
わたしたちは新しい契約に仕える資格をキリストによって神の前に抱いています。(2コリント3:4,6)
わたしの黙想
今日の聖句は単独では理解困難であるが、前後の文脈の中で明確になる。「永遠の契約を忘れないのは」「彼ら」つまりイスラエルおよびユダである。彼らはバビロンが滅ぼされるのを見て、「神の契約」を思い出す。つまり、それまでは「忘れていた」のである。

6月9日(水)
災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ6:5)
百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(ルカ7:6)
わたしの黙想
宗教的な意味での(言い換えると、神の前での)「謙遜」とは何か。それは「汚れているという自覚」、その場合の汚れとは、「俗っぽいこと」。大いに反省する。聖職が式服を着たら浄められているという意識の「俗っぽさ」。それは「安っぽさ」でもある。

6月10日(木)
ヤコブの言葉:さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。(創世記35:3)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。(ヘブル13:15)
わたしの黙想
人生において困ったとき、行き詰まったとき、苦難の時に助けてくれたり、支えてくれた友情を忘れてしまうような人間は信用できない。それは相手が「神」であれ、「人間」であれ同様である。ところが人間はそういう相手をしばしば自分の弱みを知っている相手として遠ざける。

6月11日(金)
姦淫してはならない。(出エジプト20:14)
結婚はすべての人に尊ばれるべきです。(ヘブル13:4)
わたしの黙想
今日の聖句の2つの言葉(OTとNT)では、姦淫と結婚とが対立させられている。姦淫という言葉の守備範囲と結婚という言葉のそれとは、そんなに単純に対立させられるのだろうか。「出来ちゃった婚」が平気で許容されている昨今、姦淫と結婚との境界線は曖昧になっている。

6月12日(土)
あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱いなさい。(レビ19:34)
今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)
わたしの黙想
今日の聖句、なぜこれに続く次の言葉を省略してしまったのであろう。「自分自身のように愛しなさい」。差別はしていないといいつつ、外国人登録証を携帯させるのと同様。ガラテヤ書の方は「特に信仰によって家族になった人々に対して」という限定を省略したのは理解できる。

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