ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ジョージ・オーウェル『牧師の娘』

2008-10-12 17:32:41 | 雑文
一昨日、カンタベリーとヨークの二人の大主教が揃って、現在の株価の暴落について発言したことを述べ、英国国教会はその膨大な資産を運用しているらしいということを述べたが、その関連で思い出したことがある。
わたしが、まだ日本クリスチャンアカデミー関西セミナーハウスの主事をしていた頃、もうそろそろアカデミーでの仕事にも見切りをつけようか、どうか迷っていた頃、偶然、京都の町の古本屋でジョージ・オーウェルの『牧師の娘』(三沢佳子訳、お茶の水書房、1979、初版)という本と出会いました。1984年がもう間近という頃でした。その頃、わたしはオーウェルのことについては何の興味も関心もありませんでしたが、ただ『1984年』という小説の作者だという程度の知識で、もうすぐ1984年だなぁと思っていたぐらいでした。
そして、第1章を読み出して驚きました。まるで虫眼鏡でなめるように、英国国教会の内情や牧師の生活にを描き出しています。もっとも、それは現代ではなく1930年代初め頃の英国における状況です。しかし、50年という時間差を飛び越えて、現在の状況だと言っても、不思議ではない感じがしました。というのは、わたしにとって、1930年代も1980年代も「行ったことがない」という意味では同じことだったからでしょう。ただ、ハイ・チャーチやロー・チャーチのことや、聖餐式に対する司祭や信徒の態度は本場英国と異教の地日本との格差はあってもその違いを超えて、「あまり違わない」という驚きです。とにかく、この本は文学的興味というよりも、英国の教会のことや牧師という人間の生き方について、非常に面白い本です。この本の内容については、これからもときどき触れようかと思っています。ただ、本日、この本を取り上げて紹介したい点は、英国国教会における資産の投資ということについて、この本の主人公である「牧師の娘」ドロシーの父親であるチャールズ・ヘア司祭のことです。著者はこの司祭のことについて、こう述べています。
「一人の牧師としてみた場合、彼がひどい牧師だったというわけではない。単なる聖職者の職務においては、彼は良心的に正確であった」(17頁)と紹介している。つまり、普通の、平均的な司祭であったのだろうか。ちょっと、意地悪なところを引用すると、「23年かかって、彼はセント・アセルタン教会の会衆を、600人からざっと200人足らずまで減らすことに成功した」(18頁)といわれています。このこと自体は必ずしも彼の責任というより、英国における大衆の教会離れというのは一種の社会現象でもあったようです。当然、教会の財政は破綻状態となり、聖堂の補修もできないありさまで、牧師給も充分ではなく、家計を担当する娘ドロシーは食料品の支払いに苦労していました。しかし、ヘア司祭は教会の財政や家計にはまったく関心がありません。肉屋への支払いも「無視しなさい」という具合でした。
ヘア司祭の「金銭的苦労の中心」(26頁)は株の売買における損失です。彼自身は「准男爵(バロネット)の次男坊」で、「成人に際して、4000ポンドを相続」しましたが、それも株のおかげで200ポンドぐらいなってしまっていました。つまり、遺産のほとんどを「すってしまって」いましたが、ますますその損失を株で取り戻そうと躍起になっていました。
この描写の中で、著者はこんなコメントを語っています。「実に奇妙なことだったが、この『うまい投資』への誘惑は、他のいかなる職種の人間にもまして執拗に牧師たちにとりつくのである。おそらくそれは、中世暗黒時代に女の姿をかりて隠者にとりついた悪魔に相当する現代の魔物なのであろう」(27頁)。
この小説を初めて読んだ当時、非常に驚くとともに、聖公会の司祭とは「こんなものなのか」と呆れるいうよりも、「別世界のこと」という感じでした。その頃は、まさか自分自身が聖公会の司祭になるとは思ってもいなかったからです。そして、むしろ関心は、その後の主人公ドロシーの遍歴と牧師館への回帰ということでした。
この小説については、いろいろな評価や批判があります。著者自身も必ずしも「いい作品」とは思っていないようですが、わたし自身は、読みながら「胸が締め付けられるような」思いをしましたし、「そうだ」と思わず声を出す場面もありました。翻訳者も「訳者解説」で、「この小説は、社会的、風俗的な観点から読んでも、かなり興味ある問題を提供してくれる」と述べているように、聖公会という教会の「習慣」や牧師館内部での出来事など、非常に興味ある問題を提供してくれます。若い聖職者にはぜひ読んでもらいたい作品です。

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