ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 03/17 『痴愚神礼讃』読書ノート中間報告3

2014-03-20 06:38:59 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。終日マタイ福音書の<講釈>で苦しむ。「ダビデの子」はユダヤにおける一般庶民のメシア観か。マルコとマタイのスタンスの違い。聖ザビエル教会のミサに参加。昼食を抜く。読書なし。夕食はおかゆと梅干し。夜は「軍師官兵衛」と「S-最後の警官」最終回を見て10時半就寝、5時起床。体調快調、チュン、チュン。
野間 悦三さん、加藤 治さん、鄭華さん、他16人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。次男は熱が下がり多分インフルエンザではなく咽頭炎だと思います。チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。
posted at 05:41:25

文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw: 男は法律をつくり、女は風俗をつくる。 (セギュール夫人、19世紀のフランスの童話作家)
<一言>男たちによる「戦争」によって翻弄された一人の女性の力強い言葉。この場合の「法律」とは戦争を、「風俗」とは日常的な社会生活を意味するのであろう。

野間 悦三さん、大澤 恵太さん、鄭華さん、他21人が「いいね!」と言っています。

糸原 由美子 これが変わるのは何年後?少しずつですが入れ替わりつつあるような気がしています。私は「フェミニスト」ではないし、それぞれ性の区別はあり、差別でなく、それに伴う役割の制限は当然双方にあると思っていますが、その制限が人為的なものである部分は入れ替わっていたりすると思います。あえて女性がそこへくい込んできているともいえると。

播 稔 4,000年以前の昔からつずいてきたことだからなー。 これこそ究極の男女の役割分担。 男は子供を産めない。
posted at 06:46:07

「昨日のツイート 03/15 内田樹これを「独裁」と呼ぶんです」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/bb9f4aa21e8371f39d427c8e95b14cf…
posted at 08:17:21

「今週のローズンゲン 2014/03/09~03/15」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/3b2a5196f91202beeb6109ea41bc6c2…
posted at 08:24:37

お早う。で、本日のご予定は?RT @ptkoike: おきた。
posted at 09:53:36

お天気もいいし、それはいいことだ。
RT @ptkoike: 洗濯しよう
posted at 09:54:21

頑張っているね。RT @ptkoike: @ybunya 今日は昨日撮影した分の編集
posted at 10:26:54

文屋 善明
写真: お目覚めの花。「お早うございます。私はまだ頑張っています」「最後の1本まで大切に」。

野間 悦三さん、加藤 治さん、山名 正彦さん、他32人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
2014日々の聖句 03月17日(月)
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。(エレミヤ7:3)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。(ルカ6:36~37)
私の黙想:
本日の聖句は預言者エレミアが行った神殿での説教の核心部分で、いわゆる申命記的神学が明瞭に打ち出されている。時代的背景はさておき、ここでは神殿を背景にして宗教と倫理、とくに社会倫理が問われている(4~6節)。「神殿、神殿、神殿」といくら口で唱えても、宗教の本質が見失われると、(社会的)倫理が弱まり、社会的弱者が無視され、虐げられるに至り、神殿は社会的強者の「強盗の巣」(11節)となる。この説教において注目すべきことは、(社会的)倫理が崩壊する時、宗教は形骸化し、偶像宗教化するという点である。9節の「バアルに香を炊き、知ることのなかった異教の神に従い」とはその点を突いている。宗教は倫理の土台であり、倫理は宗教を活かす力である。

野間 悦三さん、鄭華さん、高橋 和子さん、他15人が「いいね!」と言っています。

濱 和弘 プロテスタンティズムと社会倫理の問題は、私の研究課題のひとつでもあり、黙想興味深く読ませていただきました。

文屋 善明さんが野間光顕さんのリンクをシェアしました。
じっくり読みました。これは非常に重要な記事です。

原発の避難計画「有効策作れず」 新潟知事が見直し要望:朝日新聞デジタル
東京電力柏崎刈羽原発のある新潟県の泉田裕彦知事が、東日本大震災発生時に米政府の原子力規制委員長だったグレゴリー・ヤツコ...

vhttp://digital.asahi.com/articles/ASG3G7GPJG3GUUPI009.html?iref=comkiji_redirect

玉城 豊さん、塩澤 紀子さん、金井 由嗣さん、他10人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 日本の原子力規制委員会はここのところを誤魔化している。地元自治体も、政府も、分かっていて、見て見ぬふりをしている。これは人間軽視以外のナニモノでもない。何千人死のうと何万人被害を受けようと、自分たちの利益さえ上がればいいという電力会社のエゴイズムだ。

濱 和弘 ちなみに、日本の原子力規制委員会は実質的には原子力促進委員会ではないかと…。

文屋 善明
エラスムス『痴愚神礼讃』読書ノート中間報告3
53節では神学者が「まな板の上に並べられて」いる。私とも関係が深いので、丁寧に読んでみました。

当時の宗教改革の前夜の神学的状況が描かれている。
というわけで、特別に詳しく読むこととする。以下のことを語っているのは全て痴愚女神なのですからお許しいただきたい。
まず最初に、神学者と呼ばれている連中は「恐ろしく傲慢で怒りっぽい人種である」。彼らがこんなに威張っておられるのは、私が彼らには特別に「うぬぼれ(ピラウティア)」を与えているお陰である。彼らは「自分たち以外の人間すべてを地を這う野獣とみなし、高きところより見下ろしている」。彼らの手法は、ややこしい定義や、結論や、推論などを並べて身を固め、逃げ道を準備している。その上で「秘められた神秘の世界」を形成して人々をたぶらかしている。それが原罪論であったり、処女降誕論であり、「聖体の秘跡」なのであるが、それらのことはもう既に議論しつくされている。それで新しもの好きな神学者たちは色々に工夫して新しい問題を作り出している。それは最早クイズ問題のようなもので、たとえば「神による創造には定められた瞬間というものがあった?か」、とか「神は女だの、悪魔だの、驢馬だの、かぼちゃだの、火打ち石だの形をとって姿をあらわすことができたであろうか?」(p144)云々というような議論をしている。なのである。(面白ですね、もうこの時代に女性神学のような議論があったなんて)。
要するに、「こういう微細に輪をかけて微細な論議を、スコラ学派の数多くの論法がいっそう微細なものにしていますから、実在論者、唯名論者、トマス派、アルベルトゥス派、オッカム派、スコトス派など、これでもまだすべての学派を挙げたわけではなく、そのおもなものだけですが、こういうもろもろの学派のごちゃごちゃ縺れ合った世界よりも、迷宮から逃れ出るほうが容易なくらいです」。こういう連中と議論するとなると「使徒たちご自身でさえも、もう一つ別の聖霊を必要とするだろうと思われますね」。(これらは一応、痴愚女神の言葉ですが、むしろエラスムスの実感が吐露されているように思われます。議論はまだまだ続きます)。
彼らの議論から比べるとパウロの信仰論のほうがはるかにスッキリしている。パウロはコリントの信徒の手紙13章で、愛について語っているが、決して「弁証法を用いて分類したり定義したりしていない」。また、使徒たちは、聖体の秘跡について「変化の瞬間は何時か」などという議論もしていない。またペトロ自身は「天国の鍵」を授けられたが、そのことについてペトロ自身は一言も触れていない。
例えば、洗礼について、形相因、質料因、能動因、、目的因について「一度たりとも教えたことはなく、洗礼を受けたことによる資格が、消失すのかしないのかということについては、どこでも言及していません」。まぁ、いろいろなことを議論するものである。(要するに、使徒時代の「神学?」はエラスムス時代の神学とは比較にならないほど粗野なものであったということでしょう)。
にも拘らず、「当節の先生方」が使徒たちの議論を「論難しない」のは、「古い時代のもの」でるということと「使徒の名前」の権威を尊重してのことである。(こういう話を長々と話した上で、結論として次のように言う。ここらあたりがエラスムスの本音であろう)。
「ところが、わが神学者先生たちときたら、自己満足にひたって得意満々、みずからを褒めちぎって、昼夜を分かたずこの心楽しいたわごとに没頭していますから、一度もたりとも福音書やパウロの書簡を繙く暇もありません。それでいて、学校でこんな馬鹿げた遊びに耽っていながら、、自分こそは三段論法で全教会を支えており、さもなくば教会は崩壊するであろうと考えている」(p151)。
(ここでも、面白い実例を一つ)。「尿瓶よ、お前は臭い」という文章と「尿瓶は臭い」という文章とは同じことを意味していると言ったら、その人は直ちに異端とされたなんていうことがありうるだろうか。(ところが当時、実際にそれに類することがあったらしい。訳注によると、「ソクラテスよ、汝は走る」と「ソクラテスは走る」とは意味することは同じだと断定した修道士が異端とされたという事例があったとのことである)。
「神学者の威厳とは、まったく驚くべきものです。もっとも、そんな程度の威厳なら、多くの人足風情も同じく持っていますけれどね」p154)。

以上のように痴愚女神は、当時の神学者について痛烈に語っている。

野間 悦三さん、金井 由嗣さん、こーる のりこさん、他14人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、人文主義者のエラスムスの面目躍如というところですが、現実の聖と俗の関係は違っているのではないでしょうか?

門叶 国泰 遠慮していました! P.146の「パウロは自らの信仰を証明することができましたが、信仰に関しては[信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです]と、少しも学者でない定義を下しております」との箇所もいいですね。

清水 行雄 そこが、当時商業国家として、ヨーロッパの先進地だったオランダの学者だからこそ、持ちえた人間観で、ルネッサンス期の新しい人間観の胎動が、宗教改革によって揺り戻されたのに、何らかの影響を持ちえたのでしょうか?

門叶 国泰 「(望んでいることを)確信し」はルター訳(hoffen)に基づいていますね。多分、エラスムスの本文は新改訳・フランシスコ会訳のように「保証し」でしょうね。ギリシャ語「ヒュポスタシス」はラテン語で何と言うのか?こうなると私の力ではどうにもなりませんが。

清水 行雄 たぶん、僕のような堅苦しい思考を笑うのが、エラスムスの真骨頂なんでしょうね(笑)

門叶 国泰 ラテン語は「substantia」でした。英語に訳すとKJは「substance」、RSVは「assurance」。

溝田 悟士 substantiaおよびヒュポスタシス自体が三一論の基礎概念ですから、そのからみですかね。tres personae in una substantia.

溝田 悟士 >ソクラテスは走る
意味は同じですよね。何で同じと認識されるのかの仕組が違うわけで。

清水 行雄 もしエラスムスが生きていたら、字句や教義に拘泥する聖職者や学者として描いているでしょうね(^^)

文屋 善明 エラスムス自身もラテン語教師であり、その意味では俎上に載せられている一人でしょうが、ただ少し異なる点は、彼はギリシャ語新約聖書の校訂という仕事があり、原始キリスト教への憧れのようなものがかなり強硬な感じがします。そこらあたりが宗教改革よりもルネッサンス文化を重視した姿勢なんでしょうかね。

清水 行雄 先生、エラスムス自身キリスト教にかなり密接な関係があったんですね。ご教示ありがとうございます。

文屋 善明 彼はカトリックの司祭でもあり、神学者でもありました。英国の宗教改革の時にはヘンリー8世に招かれて英国のトマス・モアの所で居候していたようです。その間に書かれたのが『痴愚女神礼賛」です。

清水 行雄 トマス・モアと親交があったとは知りませんでした。(^^;)

清水 行雄 いづれにせよ、深い学識と洞察がなければ、書けそうにない書物のようですね。

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