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松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(01)<1:1~18>

2015-06-13 17:33:02 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(01)<1:1~18>

<解説>本書は恩師、松村克己先生の「ヨハネ福音書註解」(1951年発行)を読み直し、「再話」したいと思います。「再話」とは、牧野紀之氏が波多野精一先生の名著「西洋哲学史要」が絶版になっていることを憂い、「今の若い人」にも読めるように再論述した手法です。わたしもこの手法に倣い、できるだけ原著に忠実に、しかし、必要に応じてわたし自身の注釈も加えながら、名著「ヨハネ福音書註解」を再論述したいと思います。
原書は、松村克己『ヨハネ福音書』(1952(昭和27)年 )教文館発行の「聖書新解」シリーズに属していますが、何しろ時代が時代で、残念ながら現在は絶版になっており、しかも発行部数が少なかった関係で古書でも手に入れにくくなっています。幸い、友人の岡田潔兄が全文をデジタル化してくれましたので、それに基づき、現代語化致しました。私たちは一応習慣的にこれを「註解」としてきましたが、これとほとんど同時に出版された松村克己の代表作『交わりの宗教』(初版、昭和22年12月25日)では「ヨハネの書簡講釈」というサブタイトルがついており、特に松村はこの「講釈」という言葉がお好きだったようです。叙述に仕方もこの書とほとんど同じなので、再話に際しては『ヨハネ福音書講釈』とさせて頂きました。
何しろ発行されて以来すでに65年以上を経過し、資料の取り扱い、解釈等、「古い」ということは否めませんが、もともと2000年近い昔の文書の解説ですから、それと比べれば、その「古さ」は微妙なものでしょう。我田引水になりますが、私はこの書は今でも有効性を失っていないものと思っています。以下全体を14回に分けて、このブログに掲載する予定にしています。

第1章

第1章は18節までの「序詞(プロローグ)」と、それに続く「キリストの証し」との2つの部分に大別される。序詞はいわゆる「ロゴス・キリスト論」として有名な部分ですが、これは、いわば導入部であって文字通りの序詞である。神の子の受肉、ひとり子の恩恵と栄光の真理が光として生命として経験されるという主題がすでに響いているが、まだ十分ではない。後半は、2章11節まで続く部分であるが、前半・後半とも、それぞれさらに3つの部分から組立てられている。

1.序詞(1~18)
ロゴスという言葉は日本語訳聖書においてもいろいろに翻訳されてきたが、現在ではロゴスという原語のままで十分に親しまれている。キリストをロゴスと呼ぶことはこのヨハネ福音書の冒頭の序詞から一般的となったのであるが、この概念を初めてキリスト教会に導入したのは必ずしも本書の著者ではない。当時アレキサンドリアを中心とするユダヤ教の伝統的宗教思想とギリシャの哲学思想とを結びつけようとして見出された便利な概念であって、むしろ著者は当時すでに人々の耳に慣れていたこの概念を用いて、キリストを世界に向かって紹介し、弁証しょうと試みたのである。
何の説明もなしに、いきなりこの概念を冒頭に用いていることは、それが当時の人々に広く理解されていたことを物語っている。わたしたちは歴史的状況を異にする日本において、ヨハネが説明のために用いた概念をさらに説明しなくてはならないわけであるが本末を顛倒してはならない。哲学史・思想史の問題としてロゴス概念を明確にすることがわたしたちの目的ではない。著者がこの概念を用いてキリストをどう理解し、何を人々に訴えようとしたのかということを問うべきである。
後期ユダヤ教においては、神の超越性が強く意識され、主張されて、その親近感が希薄になっており、神と世界あるいは人間との関係はこれを媒介する「第三のもの」によって説明されることが必要になっていた。神の霊(=息)とか、神の栄光、あるいは神の権威、神の知恵、などがそういう中間的な媒介の働きをするものと考えられ、さらにそれらが発展し、次第に具体化されて人格的な独立存在、天的存在と見られるようになっていた。そのような状況の下で、ギリシャ思想と出会い、それらの概念はギリシャ思想における存在の原理、統一の原理としての理(ロゴス)と同視されるようになった。この思弁の過程は、前述したようにアレキサンドリアを中心とするユダヤ人の間において、展開されたものである。たとえば、フィローはユダヤ教における知恵の概念をロゴスという名で呼んでいる。
ギリシャ思想における「理(ロゴス)」の概念はヘラクレイトスに始まりプラトンのイデア説を経てストアの世界理性、世界法の概念にまで発展して来たものである。なおフィローにおけるロゴス概念の源流を探るならば、以上のようなユダヤ教とギリシャ哲学との2つの系譜のほかに当時の人々の間に半ば常識となっていた東方密儀宗教の中に生きていた敬虔など、諸民族宗教の要素にも注意を向ける必要がある。「原人」とか「天人」とかいう思想や、聖なる言葉という語は、これらのうちにあって親しまれていたものである。(註1)
思想というものは、これを単なる概念内容とか骨格として取り上げるだけならば、場所とか時代とが異なっていてもよく似たもの、類似のものを見つけ出すことは難しくない。その場合に、必ずしもどちらがどちらに影響したものであるのかということを実証的に確かめることは困難な場合もある。人間の考えることはどこでもそう違ったものでないのは人間の考え方の構造に根差すものという他はないであろう。
問題は思想相互の間の概念的類似や相違ではなく、それがどのような肉体を持ち表情を示すか、思想が生活感情の中で生かされる生命とその性格とにある。ヨハネ福音書の著者が取り上げたロゴス思想もまたこの中心的観点に立ってとらえられなくてはならない。ヨハネの明確な信仰が、深い理解と広い展望と豊かな共感のうちに詩的表現をとったものがこの序詞である。17世紀イギリスにおける形而上的詩や、今日の象徴詩の先駆をわたしたちはここに見ることが出来る。
ここで、重要なことは、わたしたち自身が著者の言葉に呼びかけられて、何を感じるのかということであり、それがわたしたちの信仰に何をもたらすのか、ということである。


(1) ロゴスの受肉(1~5)
著者は、冒頭で「初めに言(ロゴス)があった」と宣言する。人間の世界は言葉なしには成立たない。言葉において人間は真に人間になる。その言葉には、「存在としての言葉(語られた言葉)」と「働きとしての言葉(語りにおける言葉)」との両面がある。しかも、これら2つの面を1つに統合したところに言葉そのものの生きた具体性がある。ルターが注意しているように、神をそれ自身として、人間との関わりを離れて問うことはキリスト教(厳密にいえば福音)的な態度ではない。わたしたちに対する神、神はわたしたちにとって何であり、いかに働きかけているのかが最初にして根本的な問題とならねばならない。
ところで、言葉が人間とその世界とを根本的に包む根源的な問いとなるならば、種々の人間の様々な言語を超えて、これを包む根源的な唯一の言語ともいうべきものが考えられ、そこで人間そのものの存在と運命とが問われなくてはならない。この(定冠詞を持つ)唯一の「ロゴス」と人間のいろいろな言語との関係こそ、唯一の神といろいろな人間との関係を映し出している筈である。これを図で示すと次のようになる。
 
 <唯一のロゴス:いろいろな言葉=神:人間>

という比例式となる。比例式の中項は、互いに交換出来るので、右の式は
 
 < 唯一のロゴス:神=いろいろな言葉:人間>

と書き換えることが出来る。

「初に」という冒頭の言葉だけでなく、この序詞の全体を貫いて、これを語る著者の心の背景には創世記冒頭の天地創造物語があることはほとんど疑う余地がない。「初に」は単に時間的始めではなく、根源を意味している。創造の神は世界の存在に先立つと考えられるので永遠者とも呼ばれる。神が根源的存在であり永遠者であるならば、ロゴスもまたそう考えられてよい。そして人間の言葉が人間の意志を示し、力と働きとを示すように、言葉は端的に人間そのものである。
また、ロゴスは神の意志であり意味であり力また働きであるだけではなく、神そのものでさえある。従って、「言(ロゴス)は神であった」という言葉が続く。人間の言葉が人間から出て、それを語る人間と区別されつつしかもそれから引き離されないで、その人間そのものであるという関係、「区別における同一」が神とそのロゴスについても当てはめられる。それが「共に」の意味であるが、同時に「対して」という意味も含んでいる。区別されつつ分離しない、一定の緊張関係においてひとつの場を形成する。こういう在り方を人格的関係または愛の共同と呼ぶ。だとすると、言葉はこのような関係を生み出し支える原理である。そしてすべてのものは人格関係を成立たせる内実としてのみ意味を持つと考えられる。だからこそ、ロゴスは神の創造の媒介また担い手となる。「この言(ロゴス)は初めに神と共にあった」と、もう一度確認される。根源的存在としてのロゴスは、このようにして、同時に存在の根源・根拠もなる。人間関係における共同の原理、すなわち人格の原理は同時にあらゆる存在の原理でもある。「すべてのものは、これによってできた」の「できた」とは、成立している、支えられているの意味である。万物の存在意義は人格的共同の媒介であるということに尽きる。従って、「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」という言葉がつけ加えられる。(註2)

そして、4節は、その共同の原理が同時に存在の原理として把えられる場所を示している。それが「生命の世界」であり、「生命の経験」である、と直感される。この直観において「この言(ロゴス)に命があった」という言葉が発言され、また「この命は人の光であった」という生命の根源という理解へと導かれる。
この生命は、人間の経験においては「光」の経験として把えられる、ということは注目すべき経験である。光は生命の顕現であって、人間は生命を与えられることによって、心の内面を照らす光が与えられ、「内なる光」を見ることができるようになる。人間はそれによって神の働き・恵み・力を認めることが出来る。それは先ず外からわたしたちを照らしわたしたちに呼びかけ、いわばわたしたちを光の中に包んで、わたしたちの中の眼を開くからである。この生命の経験は自分自身の心の暗黒を光によって照らし出されて、自分自身を光のうちに明け放って、これを受け入れた者、つまり信仰者だけが経験することである。

さて、5節の「光はやみの中に輝いている」という言葉は光というものの特性を語る。光とは、暗黒を照らすことによって光である。暗黒と光とは相関概念であって暗黒は光の働く固有の場所である。しかし心の暗黒とは物理的関係とは異なる世界に属している。心の世界は人格的世界である。従ってここでいう光とは物理的な力ではなく、それ自身人格的な力を持っている。そのために自分自身を個別化して肉体をとり身体を持たなくてはならない。身体によって覆い隠された光は開眼された眼だけにしか見えないし、開かれた心だけを照らす。従って、暗黒の世に来た光は世に隠れていて知ることができない。
「やみはこれに勝たなかった」。ここに人間の歴史があり、悲劇がある。光と暗黒との対立・相剋の場が人間の歴史であり、歴史は運命の悲劇からにげられない。イエスはここで拒否され、悲劇的な運命の十字架に上がった。しかし暗い運命は、神の光に照らし出されて救いの摂理となる。しかしそれは本書の終結、復活のメッセージであり、この序詞では黙して語らない。「やみはこれに勝たなかった」は、「やみはこれに打ち勝つ(追い付く)ことが出来なかった」とも読める。暗黒は光を認めることが出来ないので、これを無視しょうとしても、光は暗黒の力に阻まれることはなくこれを貫いて輝く。
ロゴスは生命の原理であり人間の間に光として働く。人間は光に対してどういう態度をとるかということによって、生命に与ることができるか、できないかの決定がなされる。光を認めるということは必ずしも信じるということとは同じではない。信じるとは光を受けてこれを自分自身の中に保つことであり、自分を光の中に保つこと、光に歩むことである(1ヨハネ1:7)。このようにしてのみ、信仰者は真理を知るだけではなく、真理において考え、欲し、動き、愛し、生きる。「めぐみとまこと」とが一体化する(ヨハネ1:14)。
永遠の神の子をロゴスとして、言い換えると人の子イエスの姿において、ロゴスの受肉を見ようとする著者は、徐々にロゴスの先在を受肉へと方向づけて来た。4節の改まった言い方が既に受肉のロゴス・イエスを心に描いていることを感じさせる。筆は一転して、この受肉のロゴスを証しする先駆者ヨハネの出現を物語ろうとする。

(2) 世に来たロゴス(6~13)
                              
6節
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った」。マルコ福音書が洗礼者ヨハネの出現をもって「福音の発端」としているように、この福音書の著者もまた彼をどうしても語らなければならないことと考えている(19節以下)。真理はそれ自身によって立ち、人間の内面に直接的に迫り、それ自身を証するのだとしても、とそこに至るまでには、常に外からの呼びかけ(「声」マルコ1:3)という形での証人が必要である。「この人はあかしのためにきた」、その証言によって人はその指し示すものへと顔を向ける。「光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるため」の証人である。証しは人々の注意を喚起するだけではなく、さらに進んでその当のものを人々が信じることを求めている。
歴史の世界においては、どんなことであってもあらかじめ準備されることなしには起こらない。旧約聖書における神の言葉や預言の言葉全体は、この人において凝結し、時は満ちた。ヨハネが「預言者のうち最大なる者」(マタイ11:11、13)であるとするイエスの評価の根拠はここにある。彼が預言者の最後となり、後はイエスと使徒たちと福音書の著者たちとに場所を譲る。しかし使徒の証言を理解し、それが指し示すものを正しく見るためには、預言者の証しは欠かせない。聖書が新約聖書だけでなく旧約聖書と共に正典とされ、イエス・キリストの福音が常に洗礼者ヨハネの活動と言葉とによって語り初められることの意義を見逃してはならない。この道を外してわたしたちはイエスを神の子キリストと本当に信じること、従って生命の道に入ることは出来ない(20:31参照)。

8節
証人というものは何らかの程度において、それが指し示すものの力と栄光とを身に帯びている。従って証しする者と証しされる者とが混同されることがしばしば起こり得る。証人とその証言にのみ注目し、これに固執する者は真のものが来たとき、それに気づかないで、かえってこれを拒否する場合さえある。ここに人間の有限性と罪性とがからみ合い、歴史の悲劇が生まれる。これは過去のことには限らない。今日でも伝道者の偉大な人格と活動とが神とキリストとの前面に立ち塞がって、人々を真にキリストとの生ける交わり(信仰)に至らせない場合がある。従って「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」という8節の言葉は、くどすぎる感じがしないではないが、決して無駄の言葉ではない。

9節
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。ここで言う「まことの光」とは証人のように外から照らすのではなく、内から照らす光である。外からの証言と証人の働きが華々しければ華々しいほど、内から照らす光は人々に気付かれない場合が多い。そこで、さらに追い打ちするように10節の言葉が発せられる。「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」。彼はすでに世に来ている。そして「世の中で」生きている。にもかかわらず、世は彼を認めない。世界を支え、世界の根源であるものが世界に登場した姿は微行者(身分・本名を明かさないで生きる者)のようであった。(註3)
11節でキリストに対するこの世の人びとの反応が描かれている。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」。彼の国はこの世の国ではない(ヨハネ18:36)ので、その支配は外的ではなく内的である。従って見かけと見せかけに生きる世とその人々は彼に気付かず、彼を証する人々に耳を貸さないということも別段に不思議な事柄ではない。
この世の人びとの無関心と否定的な態度に対して、12節で「しかし」と言葉を継ぎ、彼を「受け入れた者」、すなわち証人の言葉に耳を傾け、そこで指し示されているものへ近づき、向かい合い、彼を信じ、彼と共に生きようとした人びとには、「神の子となる力を与えた」と言う。もちろん「力」は力だけでは終わらない。13節において、力に伴う恵みが語られる。それは神ご自身が与えてくださる恵みであって、人間的・個人的な願望や努力、血縁関係などに基づく特権ではない。すべての自然(=肉)を越えて、しかも自然の中に働く霊による新生(ヨハネ3:3、5)の経験である。

(3) ロゴスの受肉(14~18)

神と共にあったロゴス(2節)は、肉体をとり、「おのれをむなしうして僕のかたちを取り、人間の姿になられた。自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:7、8)。神であるロゴス(1節)は、今やわたしたち人間の間に宿られた。「宿る」とは天幕を張るの意味で、イエスの地上の生は永遠のロゴスにとっては短い挿話に過ぎない。しかもこれを信じる者には間違いなくひとり子の神の栄光を明瞭にそこに仰ぐことが出来る。かつて、荒れ野を旅するイスラエルの先祖たちが契約の箱の宿る天幕に神の栄光の留まり輝くのを見ることが出来たように。しかし受肉のロゴスの栄光は輝く雲の類ではなく、見えない天の父とひとり子との間の交わりが彼を信じる者と彼との間の交わりとして実現され与えられる生命の経験である。「めぐみとまこととに満ちていた」「それは父のひとり子としての栄光」である。「父のひとり子」とは「父と共にあるひとり子」の意味であることはいうまでもない。「栄光」とは、神の力と恵みとを意味し、「栄光を見る」とは、生命と光と真理に輝く恩恵の経験である。「見る」は、ヨハネ福音書独特の響きを持つ言葉で「経験する」と同意語である(ヨハネ3:3、1ヨハネ1:1)。「まこと」というのは、この経験において神が真に知られるからである。神より出で神と結合している認識、それは御子との交わり(信仰)においてのみ知られる(1ヨハネ1:3,2:23)。

15節は、著者によって挿入された註のようなものであって、14節は16節へと続く。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」。このキリスト経験は、「満ち満ちているもの(プレローマ)」の経験であって、彼との交わりは信じる者のうちに「泉」(ヨハネ4:14)となり、「永遠に至る水」が湧き出る。この恵みの流れは人間に豊かさを与え、世界を潤す。信仰とは、キリストにある動的人格的な交わりの関係であって、それは恵みより恵へみ、信仰より信仰へ(ロマ1:17)、知識より知識へ、愛より愛へと展開する。交わりとは相互的な関係であって、そこでは恵みはただ受けるだけではない。受けた恵みに応える奉仕に対してさらに恵みは加えられる。愛もまたひたむきな一方向の愛ではなくして、愛されて愛し、愛して愛されることを知る愛であり、知識もまた知られて知る知であり、かくしていよいよ深く相手を知る知識に他ならない。「愛=共同」というのはそのような創造の原理である。それが今、キリスト・イエスにおいて生きた真理として示されたのだと著者は言う。「慈しみとまこととの豊かな神」(出エジブト34:6)は、今や受肉した御子によって示され、わたしたちはその栄光を仰ぐことが出来る。旧約における神は覆面によって隠された神であり、旧約聖書における神の言葉は律法という形に結晶化されている。律法は神の意志を告げ救いへの約束を与えはするが、わたしたちの間にその実現の保証も事実をも与えない。モーセに、神が語られたことは、今やイエス・キリストにおいて事実となる。それが「律法はモーセをとおして与えられ、恵みとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」(17節)の意味である。
「神を見た者はまだひとりもいない」(18節)。見ることが禁止されていた神は、永遠よりその「ふところ」に共にいたひとり子によって、しかも受肉したイエスによって、わたしたちが見たり触れたりすることができる方として示された。
「わたしたちすべての者」(16節)と語り始めた著者は、使徒の証言を力強くこのような言葉で閉じている。それは洗礼者ヨハネによって証しされたキリストの永遠性は、「わたしよりも先におられた」(15節)と呼応する。ヨハネは旧約聖書の預言に従って、メシアを「わたしのあとに来るかた」という言葉で語ってきたが、そこに彼の中心的なメッセージがあるのではなく、人の子としてやがて歴史に登場する方の永遠性を強調することにあった。
ヨハネ福音書が「証言」ということに重要な啓示的意義を与えていることは注目すべき点の一つである。著者はマタイ福音書やルカ福音書を知らなかったとは考えられない。むしろ15節に見られるように洗礼者ヨハネの言葉はマタイ3:11を指すものであって、著者は読者が共観福音書を知っていることを前提として語っている。著者の根本テーマが、ナザレのイエス、人の子が永遠なる神のひとり子の受肉した姿であることを証言する天にあるにもかかわらず、処女降誕に言及していないことは偶然ではない。この沈黙は強い積極的な意味をもっているように思われる。つまり、処女降誕が人の子イエスを神の子と信じさせる根拠ではないこと、言い換えると、処女降誕によらないでもイエスを神の子キリストと信じさせる証しが十分に成り立つこと、むしろしるしを見ないで信じる信仰こそまことの信仰であることを主張しようとしているのではないだろうか。ヨハネ福音書の沈黙はパウロや他の使徒の書においても、それへの言及がないことと相まって、処女降誕の信仰が福音の本来性に根ざすものではなく、使徒の使信に付加された2次的、人為的信仰であることを示しているように思われる。

著者註:
(1) 宗教を理解の対象とするとき、概念や思想形態を支えその背景を形造っている雰囲気に注意することが大切である。ヨハネのロゴス概念もまた、当時広く世界に拡まっていた宗教混淆(シンクレティズム)の波の中から取り上げられたと見る方が自然である。エジプトの古い宗教がゼウスの子ヘルメスを救い主とする信仰と結合して混淆的俗宗教を形造った場所では、ヘルメスはロゴスと呼ばれ、神の啓示者・救済者として、生命・光・真理、等の概念が重要な役割を演じている。救済者をロゴスと呼ぶことはマンダ教にもマニ教にもみられたこと、グノーシス的宗教混淆における共通傾向であったことが次第に明らかにされつつある。原人とか天人とかいう概念はイランの宗教に源を発しているのであるが、この流れが最近人々の注目をひいている。フィローやヘルマス文書のような特定のもののみの影響と考えることは恐らく当たらないであろう。
(2) 3、4節はテキストの読み方によって句点の置き場所が変わると「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。これによってできたものには命があった」となる。有力な写本(シナイとベザ)がこの読み方をとっている。

(3)微行(びこう)とは身分の高い人がこっそりと外出・他行することを意味する。いわゆる「おしのび」である。赤岩栄はその著「微行者イエス」〔昭和12年5月発行)において、この言葉はバルトの初期の著作にしばしばInkognitoという語から、この表題の暗示を与えられたとする。バルトはこの言葉をイエスに適用することをキエルケゴールから学んだものと思う、と説明している。

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