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松村克己の三一論について

2017-05-31 16:20:52 | 松村克己関係
松村克己の三一論について

松村克己は三位一体論について、生涯で3つの論文を書いている。(辞書類での執筆、その他小さな文書は省く)。

(1) アウグスチヌスの「三一論」について〜神学方法論についての一考察〜
  (東京神学大学神学会「神学」石原謙博士古稀記念論文集、1952年12月)
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/9c9ad3eeb236da972789644f84551093
(2) 三位一体の神
  (「神学研究」第9号、1959年12月)
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a952d80969fadfd43414657457662115
(3) 古代キリスト論の評価 —今日の神学的課題として—
  (小田切博士献呈論文集「キリスト論の研究」、1968年6月)
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/10e2472c4ef610e7fffb88e3018c499f

松村は1937年4月にアウグスチヌスの若き研究者として颯爽と学会に登場した。京都帝国大学に提出した卒論のタイトルは「アウグスチヌスにおける悪の問題」(1933年)で、この論文は田辺元教授のもとで書かれたが、これを審査した波多野先生の強い要望で、哲学からキリスト教学へ転向することとなった。以後、波多野先生の下で研究を続け、波多野先生が定年で退職した後(1937)、文学部キリスト教学の教員として研究を進め、1938年に専任講師、1942年には助教授に就任したのである。
時代はまさに疾風怒濤の時で、京都大学哲学科自体が戦時体制に巻き込まれたが、当時、松村はキリスト教界から思想界へのほとんど唯一のスポークスマンとして活躍したが、それが禍して、戦後は進駐軍により、1948年に京大での職責を解任させられたのである。それ以後、日本キリスト教団の巡回教師として各地で説教をして回っておられたが、1951年4月に関西学院大学から招聘されて同教授に就任し、同大学における神学部の設立に貢献された。
上記の第1の論文は、ちょうどその頃に執筆されたもので、哲学から神学へ本格的に移った時で、ある意味で松村にとっての神学者としての決意と方法論とを示すものである。この論文の付記にも「アウグスチヌスの『三一論』を神学方法論の観点から見直すことへの示唆を賜ったのは田辺元先生であった」とわざわざ述べておられる。
第2の論文は関西学院大学神学部の論文集に寄せられたもので、本格的に神学という領域で書かれた論文である。その主旨は、京都大学時代に継続的に進められた神学方法論としての「キリスト論」を三一論の広場で繰り広げられた興味深い論文である。松村には、戦中での苦悩の中で「神」の問題に突き当たっており、生涯の最後まで未完成であったが神論との取り組みが見られる。
第3の論文は、三一論は結局、キリスト論へ押し戻されるという自覚のもとで書かれた論文である。
 

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