ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

スピーチライター

2009-01-23 16:30:17 | ときのまにまに
選挙運動中に見せたオバマ大統領候補の名演説が評判になり、にわかにスピーチライターという存在が注目されはじめました。わたしもスピーチライターという専門職には非常に興味があります。
表現という行為には当然、それぞれ特有の技術があり、それに伴う訓練が必要であることは当然のことですが、今まであまり注目されませんでした。もちろん、伝統的な講談や落語、漫才などでは、かなり厳しい訓練と技術が要求されることは知られておりましたが、いわゆる「スピーチ」にはほとんど配慮はされていなかったように思います。
しかし、それは、最近のことで、数十年前までは高校や大学などに「弁論部」というものがあり、かなり厳しい訓練がなされ、講演内容についても研究がなされておりました。早稲田の弁論部は政治家への近道だというようなことがささやかれていたほどでした。わたしが小学生の頃には、校内弁論大会というような催しがなされ、各クラスから代表者が講堂などで演説をしたものでした。そういう場合に、ヤジは「演説の花」などと言われ、ヤジにも一定のルールとか品位が問われました。現在の国会などを見ていましても、演説もさることながら、ヤジのレベルが非常に低くて聞いておれません。
そういう「弁論(スピーチ)」というものへの感心が、何時の間にか、消えてしまい、「語る」とか「話す」ということについての技術とか、訓練が忘れられていたように思います。オウム真理教が問題にされたとき上祐史浩外報部長が大学のディベート部で訓練を受けていたということで、多少そのことが取り上げられましたが、それも、何時の間にか忘れ去られてしまいました。
しかし、人々に何かを語るということは決して簡単なことではありません。それなりにスピーチ術とでもいうべき理論(レトリック)と技術、それにそれを語る発声法や訓練が必要でしょう。
教会の説教などを聞いていると、聞いておれないような説教があまりにも多すぎます。準備不足ということもあるでしょうが、それ以前に、発声法やジェスチャーなど会衆に向かって語る場合のベーシックな訓練ができていません。しかし、それは当事者の責任というよりも、残念ながら現在の日本の神学校ではそういう訓練はほとんどなされていないのが現状です。
オバマ大統領とスピーチライター・ファブロー氏との間でどのような作業がなされたのか非常に興味があります。
昨日の朝日新聞のコラムで、その間のことが次にように報告されていました。
先ず、オバマ氏がファブロー氏に自分の考えを口述する。おそらく、この段階でも両者の間でキャッチボールが繰り返されるのでしょう。そのプロセスを経て、オバマ氏自身も自分の言いたいことがより明瞭になり、無駄なことが整理されます。その上で、今度はファブロー氏がそれを文章に仕上げるます。当然、そこでもオバマ氏はその文章をチェックして、本当にそれが自分の言いたいことなのか確認するでしょう。つまり、ここまでのスピーチライターの役割は、「聞き手」ということでしょう。説教の場合の難しさは、この「聞き手」と「語り手」とが対立関係にないということです。まぁ、それは仕方がないこととして、ともかく、そこからが本格的なスピーチ作りの中心です。一言一言、それに関わる過去の大統領の言葉や出来事が検討され、反対者からの反論を予想し、知的階層から中学生まで、人種、宗教、学識、イデオロギーに対して配慮される。その作業は、ほとんどファブロー氏が行ったのだろうと推測されます。それが「専門職」だからです。今回の演説のためには、昨年の11月から取り組み初め、最近はほとんど徹夜状況であったと言われています。今回の演説は、選挙運動中のような華やかさや、激しさは見られませんでしたが、実に細かい配慮が隅々まで行き届き、一つ一つの言葉は選び抜かれ、パーフェクトという感じでした。
教会の説教の場合も、そこまで徹底されないとしても、そのプロセスが非常に重要で、それを抜きにすると、メッセージがボケてしまいます。もっとも、初めからメッセージなどないなら、それは単なる「時間つぶし」で、お話になりません。

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