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断想:聖霊降臨後第10主日(特定14)の旧約聖書(2017.8.13)

2017-08-11 08:24:40 | 説教
断想:聖霊降臨後第10主日(特定14)の旧約聖書(2017.8.13)

神からの逃走   ヨナ書 2:1-9

<テキスト>
2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、
3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。
4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えて行く。
5 わたしは思った、あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。
8 息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き聖なる神殿に達した。
9 偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも、
10 わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。

<以上>

1.特定14
特定14の福音書はマタイ14:22~33で、例の5つのパンと2匹の魚で、5000人の群衆を満足させたという出来事の後、ガリラヤ湖で向こう岸に行こうとしたとき、嵐になった。そこへイエスが水の上にを歩いて船に近づいてこられたというエピソードがしるされている。
それを受けて、この日の旧約聖書はヨナ書が取り上げられている。恐らく、ただ雰囲気が、何となく似ているということであろう。

2. ヨナ書について
教会暦でヨナ書が取り上げられるのはA年だけで、聖霊降臨後の主日の特定14と特定20の2回だけである。それで少々詳しく紹介しておく。
ヨナ書は一応12小預言書に属し、伝統的には預言書の一つと見做されてきたが、ここには他の預言書にみられるような「預言の言葉」はなく、独りの預言者と呼ばれる人物ヨナについての物語であり、わずか4章しかない短い文書である。預言書というよりも、神と預言者との戦いを語る文学と言う方がふさわしいと思う。
預言者ヨナについてはほとんど何も知られていない。恐らく、「昔、昔とても偉い預言者がおりました」という話で、預言者の名前を特定する方が迫力が出るということで、たまたま何をしたのか分からない預言者の名前「アミタイの子、ヨナ」(列王記下14:25) の名前を持ってきたのだろうと思われる。また、「大いなる都ニネベ」も、どこのニネベかはっきりしない。恐らく皆がよく知っているだろうと思われる大都市ニネベ(バビロンの都市)ということに設定したのだと思われる。魚にしてもただ「大きな魚」というだけでそれ以上の資料はない。
要するに、主人公預言者ヨナにせよ、ニネベにせよ、大きな魚にせよ、歴史的な情報は好い加減で、この物語全体が一種の昔話である。
物語は非常に面白い。先の方を読んでしまうと、面白さが半減する。後半(3章以下)については9月24日の聖霊降臨後第16主日(特定20)で取り上げられるので、出来るだけそこには触れないで、ここでは前半だけを取り上げる事とする。主題も前半と後半とは異なる。前半では神の命を受けた預言者が神から逃走する物語である。後半については9月までお預けとする。ということで、この日の「語り」は少し趣向を凝らして昔話風に語ることとする。

3.ヨナ物語(前半)
昔、むかしヨナという名の預言者がいました。ある日のこと、ヨナに神さまが現れて語りかけました。「あなたのよく知っている大都市ニネベに行って説教してきなさい。あそこの町では王を始め、大臣も官僚も腐っており、喧嘩・暴力は日常茶飯事。昼日中から強盗・殺人など当たり前。それを取り締まるべき警察も上からの言いなりで、正義など爪の先ほどもない。だから、女性や子ども、身体の不自由な者が小さくなっている。その人たちの心の叫びが、私の耳にも入っている。だから、あなたはニネベに行って人びとに神の道を伝えてきなさいの」。
このお告げを受けた預言者は困ってしまった。そんなところに、見も知らない外国人が出かけていって説教でもしたら、どんな目に遭うか予想が付く。たちまち、町の連中に捕まり、踏んだり蹴ったり、殴られ身ぐるみはぎ取られてしまうだろう。下手をすると殺されるかも知れない。さぁ、困った。しかし、神さまからの命令には従わなければならない。
そんな心の状態でも、ともかくニネベに行くために家を出て港にまで出かけた。ニネベには船に乗っていかなければならないのだ。
港に来てみると運良く、というか、運悪くというか、ちょうどニネベとは反対方向のタルシシイ行きの船が出航するときであった。その時、預言者の心に悪魔がささやいた。とにかく、船を乗り間違えたことにして、その船に乗ってしまえ。後はなんとかなるだろう。ヨナは急いで船賃を支払い、人混みに紛れてタルシシ行きの船に乗り込んだ。船は順調良く、定刻通りの出港し、港がだんだん遠くになる。ヨナの心では港から離れることは、まさに神さまから離れる感じがして、これで神の命令から自由になれる。それで、この数日の緊張のためか船に乗ると出来るだけ人目に付かないように船底に進み、そこに横になるとほとんど同時に寝込んでしまいました。
しばらくすると、風が激しくなり波が大きくなり、船は揺れ始めた。だんだん嵐は激しくなり、船の乗組員たちは何とか船が沈没しないように頑張るが、波はますます激しくなり収まる気配はない。乗組員も乗客も必死になって船のバランスを保つために船から積み荷を捨て始めました。しかし、どうにもなりません。船長は全ての乗客にそれぞれの神さまの祈ってくれと頼みました。乗客もそれぞれ必死になってそれぞれの神々に祈りましたが、どうにもなりません。船長は最後の手段として、これは乗客の誰かが神に呪われていると、考え乗客に問いかけますが、誰も返事をしません。その頃、預言者ヨナは船の騒ぎも知らず、船底でぐっすり眠り込んでいました。船長はヨナにも祈ることを要請しますが、ヨナは返事もしません。それで船長は最後の手段として、受客全員が籤を引き、それに当たった人間が神に呪われているのだと言い出し、仕方なしに乗客は全員籤を引きます。
そして籤の結果、それはヨナに当たりました。船長は心配して、何か心当たりがあるかヨナに尋ねたことでしょう。もう、逃げられません。ヨナは観念して正直に、自分が神さまから命じられたことが恐ろしくて逃げ出したこと。しかし、まさかこんなところまで神さまの手が伸びようとは思いもしなかったことを告白します。
それは船長への告白であると同時に、ヨナにとっては神さまへの告白だったのです。それで人びとはヨナにどうしたら良いのか。あなたの罰のために皆が死んでしまうのはイヤだと言い出します。覚悟を決めたヨナは私の手足を縛って海に放り込めば海は静まるだろうと言います。さすがに預言者。腹を決めたら潔い。ヨナにとっては神の命令に従わなかったのは自分自身であり神から罰を受けるのは当然のことだと思いました。
面白いことに、こうなると逆に乗り組員や乗客たちの方が心配になって、神に祈ります。その祈りが14節に見られます。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」。そして人びとはヨナの言う通りにヨナの手足を縛って海に投げ込みました。すると、あれほど荒れていた海も静まりました。ヨナのうらみが残らないように、生け贄を捧げて祈ったとのことである。以上が第1章である。第2章では海に放り込まれたヨナの運命やいかに。
船の中の様子を天からご覧になっていた神が動き始めます。先ず、海の中の大きな魚に命じてヨナを呑み込ませます。そんなことヨナは知りません。船に乗っていた人たちも気が付かないことでしょう。ともかくノアは魚に呑み込まれました。面白いことに聖書はヨナが三日三晩魚の船の中にいたといいます。その間、ヨナは死んだつもりでした。死んだつもり、というのも変ですが、死んでいるのか生きていたのか、起きていたのか寝ていたのか、分かりません。ヨナは自分は神から見棄てられ死んだものだと思っていました。ふと、ヨナは誰かから名前を呼ばれたような気がして目を覚ましたました。そしてここが地獄かと思っていたのかも知れません。こんなところに神さまがいるはずがないと心で思っていました。ところが、今度ははっきりと「ヨナよ」というあの声が聞こえました。それは懐かしい、神の声でした。「ヨナよ、お前はいまだどこに居るのか」。ヨナにはここがどこか分かりません。とにかく「神よ、ここにいます」と答えました。神さまはこんなところにまで私を追いかけてこられる。地獄だと思っていたところにも神さまがおられる。これはヨナにとって大発見でした。ここはどこか。地獄ではなさそうである。まだ、よく分からない。もう、神から逃げるという気持ちはなくなっていました。預言者ヨナは神の前に完全に敗北しました。そしてここから出して下さいという祈りが始まりました。それが今日のテキストである。

4.地獄の底からの祈り
マタイは12章40節で魚の腹の中のことを「大地の中」という。これは明らかに死者の世界を意味している。ヨナは死者の世界から神に祈る。そのときのことをヨナ自身は「神から追放された」(5節)という。いや、「追放されたと思った」という。ところが、本当は追放されたのではなかった。じゃ、「追放」でなかったとしたら何なのか。「逃走」なのだ。ヨナは神から追放されたのではなく「逃げた」のである。だが実際には逃げたつもりであって、逃げられなかった。「追放」とは罰である。しかし、この物語は罰ではない。ヨナは初めは「逃げた」つもりであったが、嵐の中で海に放り込まれる覚悟を決めたとき、神から逃げたことの当然の報いとして「罰」として受けとめた。

5.神よりの逃走
「神から逃げたから、神から罰を受けた」というテーマは、旧約聖書の最も大きな問題の一つである。というよりも、人間の有り様を問う最も根本的な問題といってもいい。最初の逃走物語はアダムとエヴァから始まる。あれは、確かに神からの逃走劇だった。彼らは「隠れた」のである。そして、神からエデンの園追放という物語が続く。マックス・ピカートというスイスの哲学者は「神よりの逃走」という名著を著した。人間は人間の本能として、神から逃げる。人間は自分自身の判断によって生きようとする。黙って、自然のルール(本能)に従うことに我慢ができない。人間の本能とは自然の本能に逆らう本能である。言い換えると、人間は神が作られたままの人間であることに止まることができない。人間は常に自分を越えて自分になろうとする。それが、神からの逃走である。神から逃走した人間は神の顔を避ける。そして、絶えず不安の中に生きることになる。それは追放された人間の不安である。
ヨナの物語は、神から追放された人間として、この世に何の未練もなく、この世に対する使命もなく、生きる意味を持たないと思い、そう信じて生きている。魚の腹の中とは、まさにそういう状況である。そこには、一切の希望が断ち切れた状況である。神なき世界である。とヨナは信じて生きていた。彼は、そういう状況の中で、絶望の中で、無意味な祈りを捧げる。誰に。無い神に対してである。ともかく、そういう理屈は一切切り捨てて、ともかくヨナは祈る。
ヨナ物語のメッセージはここから始まる。ここまでは神話である。ここまでは伝説である。しかし、何時までも伝説ではない。ここからヨナ物語のメッセージが始まる。ヨナの無意味な祈りが神に届いた。無い神がヨナの祈りに応えられた。この経験がヨナを変える。ヨナは大きな魚の腹の中からこの世に帰還する。腹の中から帰還しただけではない。神からのメッセージを携えた人間へと帰還した。

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