ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降臨節第3主日の旧約聖書

2016-12-09 08:08:43 | 説教
断想:降臨節第3主日の旧約聖書 

速やかに来てください イザヤ 35:1~10

<テキスト >
1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。
2 花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3 弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。
4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
5 そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。
6 そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。
7 熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる。
8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ愚か者がそこに迷い入ることはない。
9 そこに、獅子はおらず獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。


1. 降臨節第3主日の特祷
まず始めに、本日の特祷から考えたい。
<主よ、み力を現してわたしたちのうちにお臨みください。わたしは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください。父と聖霊とともに一体であって世々に行き支配しておられる主イエス・キリストによっておねがいいたします。アーメン>

この特祷のポイントは「速やかに助け、お救いください」にある。その意味は、「早く来い来いクリスマス」ということでクリスマスを待つ気持ちの高揚が感じられる。実はこの特祷は、古い祈祷書では降臨節第4主日の特祷であった。つまり降誕日直前の祈りであった。
なぜ、この特祷が1週間早められたのだろうか。祈祷書改正委員のひとりであった森紀旦主教は次のように説明している。降臨節も第3主日まで来ますと、神の速やかな助け、救いを求める気持ちが高まってきます」。それではこの質問に対する答えになっていない。むしろ降誕日を待つ気持ちの高まりが降臨節の意味であるので、それを短くしてしまったら、降誕日における「待つ」という姿勢が崩れてしまうではないか。要するに、森主教も触れているように、アメリカ聖公会における祈祷書に準じたものだと思われる。しかし、もっと重要なことは、多くの教会では12月25日の降誕日を変更してその前の主日に持ってくるという悪習慣が一般化して、実質的にはこの特祷が読まれなくなる、あるいは読んだとしても、完全に無視されてしまっていることを考慮して、第3主日に持って来たのではないかと思われる。その意味では、降誕日を前にしての降臨節の意味を最もよく示しているのがこの特祷だとも言える。しかしこの特祷を降臨節第三主日に持って来てしまったら、それから実際のクリスマスまで1週間以上離れてしまって、「間が抜けてしまい」クリスマスを待つ高揚感もしぼんでしまいそうである。特に今年のように12月25日が日曜日になると、降臨節第三主日から降誕日までまるまる2週間あいてしまう。
この祈りの中心部は「わたしたちは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください」となっている。この祈りを単純に理解すると、私たちの苦労の原因は罪にある、言い換えると私たち自身が悪いことをしたので苦しんでいるのだということになる。本当にそうだろうか。むしろ問題はその罪とは誰の罪なのか、ということにあるように思う。じっくり読むと、この祈りにおいて苦しみの原因となっている罪とは、私たちを妨げる罪、それは私の外から私と神との間を妨害する罪、要するに私の罪でもあるが、私の罪でもないいうことである。ここでの罪とは「わたしを妨げるもの」であり、私に向かって襲いかかってくる罪である。誰かの罪というよりも、罪という現実の中で私たちは生きている、ということがまずここで認識されなくてはならない。従って私たちは神に助けを祈ることができる。もし苦しみが私の罪の結果であるならば、神に祈る前に、先ず懺悔し、罪を断ち切るということが大切である。ここでは、そういう懺悔の祈りというよりも、神に対して「側に来てください」ということを願っている。罪という現実の中で痛めつけられ、苦しめられているので、私の側に来てください。これは実に切実な祈りである。神が側に来てくださるなら、どんな苦しみでも耐えることができるし、また最後の勝利を信じることができる。

2. イザヤの預言
さて、本日の旧約聖書はイザヤの預言の言葉である。この預言の中心は「雄々しくあれ、恐れるな」である。なんと勇ましい言葉であろう。この言葉は「心おののく人々」(4節)に語られたメッセージである。人生の不条理を嘆き、未来への展望が開かれない、苦しい状況の中で不安に毎日を過ごしている人々に対する神の力強いメッセージである。「見よ、あなたたちの神を」(4節)見上げよ。苦しさの中で神を見上げることが「信仰」である。信仰という漢字は「信じて仰ぐ」、この仰ぐは見上げるといういう意味である。神を求めて頭を下げることはない。頭を上げ、目は天に向く。これが信仰である。日本人の祈りの姿勢は正座して、首をうなだれて祈る。しかし、イエスは常に「天を仰いで」祈られた(マタイ14:19、マルコ7:34、ヨハネ11:41、17:11)。今さら祈りの姿勢を変えなくてもいいが、祈りとは天の神を仰ぐことだということは、肝に銘じておく必要があるであろう。
私たちが天を見上げると、そこにおられるのは「敵を打ち、悪に報いる神」である。その神が私たちの側に来られて私たちと共に住む。これがクリスマスであり、インマヌエルの神である。「神は来て、あなたたちを救われる」(4節)。5節から10節までの言葉は神が私たちのために何をなされるのか、ということが述べられている。
イザヤ書35章は資料的にはかなり複雑で、一応、紀元前8世紀の終わり頃、つまりアッシリア王国によって北のイスラエルが滅ぼされた頃に活動したイザヤの預言の部分に属しているが、実はここで述べられているのはそれから約2世紀後のバビロン捕囚からの解放の記事である。当時、イスラエルの民は祖国パレスチナからバビロンの地に捕囚されていた。祖国を失った民族の悲劇をそのまま経験していた。もっとも、経済的、文化的にはパレスチナでの生活よりは大都会バビロンにおける生活の方が快適ではあったと思われるが、精神的な打撃はぬぐえなかった。何をするにせよ、彼らは常に祖国を思い、望郷の念に囚われていた。それが捕囚というものである。
今日のイザヤ書のテキストはそういう彼らへの励ましのメッセージである。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」。つまりこのメッセージは今日の特祷の「わたしは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください」に対する神からの応えである。特に注目すべき言葉は5節から10節である。
この言葉を、本日の福音書(マタイ11:2~11)において、バプテスマのヨハネが獄中からイエスに対して、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という質問に対して、その答えとしてイエスご自身が引用しておられる。イエスこそ私たちの側に立ち、私たちをすべての罪から守り、元気づける方である。

3. クリスマス
間もなく私たちはクリスマスを迎える。クリスマスとはイエスご自身を私たちの心の中にお迎えすることである。その通りであろう。しかし、それ以上に重要で、確かなことがある。それは、クリスマスにおいて、私たちがイエスを迎えるのではなく、実は私たち自身がイエスから迎えられているということに気付くであろう。イザヤは語る。「主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(イザヤ35:10)。

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