ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

箱根駅伝(往路)

2008-01-02 17:29:50 | ときのまにまに
我が家の正月のすごし方において、2日と3日に行われる箱根駅伝はかなりプライオリティが高い。先ず、テレビは駅伝の中継中、流しっぱなしとなり、話題もほぼそれが中心となる。箱根駅伝をテレビで見る楽しさは、ゲームそのもののほかに、周りの美しい景色を眺めることができることである。今までに、何回か箱根に行ったときにも、その都度、必ず駅伝の記念碑の前で「ここだね」という会話を繰り返す。
今年は、どの大学が一位になるだろうとか、どの選手がいいとか、家内などは、早稲田の何々君は卒業後、どこに就職したので、そこの企業の駅伝チームが強くなったとか、非常に詳しく情報を教えてくれる。我が家の有力解説者である。復路において、涙もろいタレントが小田原近辺で、選手一人一人の名前を絶叫して応援するとか、箱根駅伝にまつわるさまざまのエピソードを駅伝を楽しんでいる。
ここ2~3年の傾向は、選手層が二極化し、強い選手と弱い選手の格差がかなり顕著になってきた。一人の有力選手が何人もゴボウ抜きをして、各区間での順位の交代が激しくなってきている。それだけに、走る順番など作戦が重要になってきている。そのことは、同時に各選手へのプレッシャーが強くなってきたということを意味し、そっれだけに無理をする選手が目立つ。今年の、往路においてもゴール直前で、順天堂大学の選手が倒れたシーンがあった。順天堂大学の関係者にとっては、大変なショックであっただろうが、ここらで箱根駅伝のあり方を根本的に見直すことが必要ではなかろうか。マラソンや駅伝というスポーツは、体力の限界への挑戦でもあるが、同時にそれは走るべき全行程において自己の体力をどのように配分するかという「知的スポーツ」でもある。従って、各個人の体力の限界をしっかり把握した上で挑戦であって、無謀さでは絶対ないはずである。どうも、その辺りで、駅伝の場合はマラソンと違って、チームゲームであるということから、「精神性」を強調しすぎるきらいがあるように感じる。

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