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断想:聖霊降臨後第15主日(特定19)の旧約聖書(2017.9.17)

2017-09-15 08:27:48 | 説教
断想:聖霊降臨後第15主日(特定19)の旧約聖書(2017.9.17)

復讐と寛容 シラ27:30~28:7

<テキスト>
30憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。
1復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。
2隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
3人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
4自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
5弱い人間にすぎない者が、 憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
6自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
7掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人の おちどには寛容であれ。

<以上>

1.旧約聖書続編およびシラ書については、今年の顕現後第6主日(特定1、2月12日)の断想においてかなり詳しく聖津瞑しているので、ここでは省略する。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/6bab7ea2d52f70863609b5f7d5927c80

2.シラ書におけるキラリと光る言葉
聖餐式の日課においてシラ書が取り上げられているのは、も、A年で2回(特定1、特定19)、C年で1回(特定17)読まれるだけなので、滅多にお目にかからない。それで、本日は少し変則的な説教のスタイルになるが、シラ書を紹介する意味で、「キラリと光る」いくつかの言葉を紹介したいと思う。

(1) 先ず、最もわかりやすい言葉から始める。
「もらうときに手を出すなら、返すときには出し渋るな」(4:31)。
日本の諺で言えば、「借りるときの地蔵顔、返すときの閻魔顔」である。英語でも、似かよった言葉がある。「An angel in borrowing, a devil in repay」。どこの国にも同じような格言があるものである。事柄自体が、万国共通なのだろう。しかしシラ書の言葉には「行動」がはっきりしている。この「手を出す」という言葉を「握手する」と解釈すると、いろんな場面が想像される。こういう言葉ならば、何も聖書から学ぶ必要はない。日本の格言にも多く視られるものである。
(2) それで、次ぎにいかにも聖書的な言葉を紹介しよう。
「『罪を犯したが、何も起こらなかった』と言うな。主は忍耐しておられる」(5:4)。
何か悪いことをして、それがばれないか、どうか、冷や冷やしていたが、結局何事もなく過ぎてむしろいい結果を生んだ場合、私たちはホッとして、悪いことをしたことを深く反省しない。こういうことは、私たちはしばしば経験する。しかし、ここで、「主は忍耐しておられる」という事実を忘れてはならない。
(3) 次の言葉は「誠実な友」(6:5~17)というサブタイトルのもとに語られている。この部分はすべて紹介したほどであるが、とくに「キラリと光る」14節だけを紹介しよう。
「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見出せば、宝を見つけたも同然だ」(6:14)。
先ず、私自身がそういう友人でありたいと願う。
(4) 次は、女性について(9:1~9)の教訓のなかから、少しセクハラ、ギリギリという感じがする。しかし男女の関係についての知恵が光っている。時代と民族性とを考慮して理解したい。
「おとめをじっと見つめるな。慰謝料を払わされるはめにおちいるかもしれない」(9:5)。
人間には「男」と「女」だけだという思想は、現代では通用しない。それを考慮しても、男女関係というものは複雑である。とくに「引き合う関係」と「反撥する関係」とは個人の制御能力を超えて働く。
(5) 次ぎに紹介する言葉は、私の現在の心境を語っている。この言葉だけでも覚えておいて欲しい。
「どんな人に対しても死を迎えるまでは、その人のことを幸せだと言うな。人間は、その子供によって、本当の姿が知られるのだ」(11:28)。
この言葉は、その人の人生は「死」で終わらないことを語る。「生きざまと死にざま」は子どもへと受け継がれる。その子どもにおいて、総括される。信仰は、孫に伝承されて初めて伝承される。
(6) 次の言葉は特定1(今年の2月12日、顕現後第6主日)で取り上げられている。
「主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する力をお与えになった。その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる」(15:14~15)。
このことはイスラエル史においてかなり問題にされた言葉と想像される。パウロなどは、人間は神の掟を守る能力がない、ということからキリスト者になったのである。
(7) 次の言葉は私自身に向けられた厳しい言葉である。
「黙っていて、知恵ある人と見られる者もあり、しゃべりすぎて、憎まれる者もいる」(20:5)」。
実に、厳しい。
(8) これと類似している言葉をもう一つ。
「愚か者の心は口にあり、知恵ある人の口は心にある」(21:26)。
この言葉は理屈で考えると理解不能であるが、直感的に理解したい。
(9) おまけにもう一つ、
「時をわきまえない小言は、葬式のときに、にぎやかな音楽を流すようなもの」(22:6)。
これは面白い。
(10) 最後に、思わず笑い出す面白い言葉を紹介しよう。
「愚か者に説明するのは、うたた寝をしている人に話すようなもの。説明したのに、『何のこと』と問う」(22:10)。
場面を想像してください。
これだけ紹介したら、是非自分自身で読みたくなるだろう。シラ書にはこういう言葉が1章から51章まで、105頁にわたって、ぎっしり詰まっている。まさに、これぞ聖書という感じである。

3.本日のテキスト27:30~28:7
さて、これで終わってしまったら、今日の説教はただ単にシラ書を紹介しただけの講義である。それでは説教にならない。最後に本日のテキストを取り上げて、共に考えたい。本日のテキストは、27:30~28:7である。新共同訳では「憤り」というタイトルが付けられている。この憤りという感情の処理の仕方が「復讐か寛容」である。
この言葉の背景には前提になる一つの思想がある。この思想は日本人にはなかなか理解できない。つまり、人間は神の寛容なくしては生きられないという思想である。そして、今日の言葉はその神の寛容を得るための手段が述べられている。「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」(28:2)。相手の立場を考えてとか、普遍的な正義を求めてという寛容ではない。つまり、相手のためを思っての赦しとか寛容ではなく、あくまでも自分が神からの寛容を得るための寛容である。その意味では、ロマ12:17以下のパウロの復讐の思想と通じる。(この言葉は先週の使徒書で読まれた。)「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ロマ12:20)という思想である。
実はこういう感覚を日本人は軽蔑する。要するに「打算的」な寛容で、本当の寛容ではない、と日本人は思う。こんな寛容は本物ではなく、偽善的である。心から許すのでなければ許したことにならない、と思うのが日本的な感覚である。
さて、そうすると聖書の教えと日本人の感覚とがかなりずれがある。いや、ズレというより正反対と言ってもよいほどである。そして日本人の感覚の方が正論だと思うのだ。恐らく、それは日本人だからというよりも、その方が普遍性があると思う。
とすると、聖書の考えと普遍的な価値観と何が違うのか。ここでは、明らかに「神」の介入がある。シラ書の方の寛容については、相手に対する寛容が、神からの寛容の根拠となる。パウロの場合の復讐については、復讐することを神に任せるという思想である。
自分自身の人生や人間関係の中に神の介入を認める。私たちが生き、関わる世界を人間と人間との関係だけで完結するのだろうか。もしそうだとしたら、日本人が考える感覚の方が説得力があるが、果たして現実にそれで全ての問題が解決するだろうか。害を与えた相手を誠実に赦すことができるだろうか。寛容と赦しにおける不完全性、不可能性の前で私たちは悩んでいる。それが現実ではなかろうか。聖書においては、そこに神の介入を要請する。要請というより、神なしでは成立したいという前提に立っている。この神は、私に対しても働きかけ、私が他者に対して寛容である体に応じて神も私に寛容であることを宣言し、私に害を与えた相手に対して、私が報復するのではなく神が報復すると宣言することによって、私の怒りを抑える。それが人間社会に介入する神の現実である。
「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ」(28:6)。平安な人生の最期を迎えたいと思ったら、心安らかにこの世を去りたいと願うなら、寛容であれ。人間は墓場まで憎しみと復讐心とを持ち続けることは出来ない。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と神は言われる」(ロマ12:19)。本当の意味で、復讐するのは神の仕事であり、人間の復讐などは知れている。むしろ、人間が復讐することによって、神の復讐が終わってしまう。復讐は神に任せよ。それが、私たちの寛容心の根拠である。

《人生の知恵のかたまりシラ書なり、読めば喜び泉のごとく》


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