ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

被献日に当たって思うこと

2016-02-02 09:00:40 | 説教
被献日に当たって思うこと
捧げられたイエス  Lk.2:22-40

1.子ども虐待
母親を含む親が家の中で幼い子どもを虐待し、殺すという事件があった。幼い子どもは保護されなければ生きていけない存在であり、それを殺すということは、どう考えても許されない。特に最近起こった事件の残虐性は人間がここまで悪魔になれるのかと驚かされる。この事件が決して特別ではないことは、このニュースに関連して親子を巡るいろいろな残虐なケースが飛び出してきて、親子の関係についていろいろと考えさせられる。マスコミではそのニュース性の故に、残虐な虐待の事件だけが主に取り上げられるが、事件にはならないにしても、最近の親子関係においてもっと根本的な問題があるように思う。それは虐待とは逆の「愛し方」の問題である。「猫かわいがり」という言葉があるが、最近の親子関係を見ていると、まさに自分の子どもをペットのようにかわいがっている親たちが多い。子どもを「愛する」ということと「可愛がる」ということとが混同され、子どもは親自身の自己満足の対象にされている。つまり子どものペット化である。ペットは飼い主に忠実であり、「言うことをよく聞く」から「可愛い」のである。反抗的になったり、言うことを聞かなければ「可愛くない」。ペットは可愛くなくなれば簡単に捨てることが出来る。子どもに対する親の愛とはそういうものではない。すべての大人には子どもを「責任ある人格に育てる」という責任がある。親としての愛とはその責任感に基づいている。従って親は子どもの言いなりにはならない。服装もそうであるが、食べ物にしても、食べ方にしても、さらには生活のリズムというより根本的な事柄について、子どもをしつけるという責任が親にはある。どうも最近の親子関係を見ているとその責任感が希薄になっているよう思われる。現象としては虐待とは反対の現象ではあるが、その根本においては同じものがあるように思われる。

2.被献日について
2月2日はクリスマス(12月25日)から数えてちょうど40日目に当たる。この日のことを教会暦では「被献日」と呼ぶ。それはモ-セの律法に従って、男の子を生んだ女性は40日目に神殿に参り、清めの儀式を受けるというユダヤ人の習慣を受け継いだものである。この儀式には2つの意味があった。一つは、お産をした女性自身を清めること、もう一つは幼な子を神に捧げるということであった。この儀式そのものは現在では、「産後感謝式」として受け継がれているが、意味はかなり変化している。第1に、お産をした女性は汚れているという思想を私たちは受け入れることはできない。従って母親を「清める」という考えは意味がなくなっている。むしろ、「産後感謝式」では子どもが与えられたことを感謝する、ということに強調点が置かれている。
そういうことを背景にして2月2日はとくに母マリアが幼な子イエスを神殿に連れてきて、献げたということを覚える日として「被献日」と呼ばれる。言葉の意味から考えても、この日の中心は捧げるマリアではなく、献げられる幼子イエスの方にある。ところが、日本聖公会婦人会が大正9年(1920年)の被献日に成立したということで、この日は婦人会の日になってしまっている。つまり「献げられるイエス」から「献げたマリア」の方に重点が移っている。それはそれ、別に悪いことではないが、「幼子を献げる」という意味が薄れてしまっていることには課題がある。

3.親子関係
献げられた幼子の方に重点を置くか、献げた母親の方に重点を置くかは、それぞれの立場とその時の課題あるいは問題によっていろいろある。
先ず、親の方から考えると、子どもは全て神から与えられたものという認識がある。これは信仰があろうと、なかろうと、事実として子どもは神から与えられる。時には、どんなに欲しくても与えられない場合もあるし、逆に欲しくなくても与えられる場合もある。子どもを自分たちで造り出したもの、自分の自由になるものという風に考えているとしたら、それは大変な思い違いと言わざるをえない。また、与えられた子どもは私のものという考えも浅はかである。子どもはやがて自分の胸の中、手の中から、育ち、自分を乗り越え、離れていく。親子関係とは、離れることを目指して、置かれた関係である。それはちょうど夫婦関係が一体になることを目指して始まるのと対照的である。
親子の離れ方にもいろいろある。捨てるという離れ方もあれば、無理矢理に引き裂かれるという離れ方もある。けんか別れという離れかたもあるだろう。極端な場合、殺すという離れ方もある。

4.捧げるということ
一つの、そして最も美しい離れ方が「捧げる」という形である。「捧げる」ということは、捧げてしまったから後は知らないということではない。それでは「捨てる」ということと何も違わない。捧げた子どもがいかに神に用いられる様になるのか、愛をもって見続ける、そして必要な助けはどのような犠牲を払ってでもするが、そのことによって何も返礼を要求しない、ということが献げるということである。
親子の分離といっても、その年齢や成長の度合いによって、分離の程度がある。同様に、「捧げる」ということにも段階がある。生後40日目に献げられたイエスにしても、乳飲み子の間は、母親の胸の中で安らぐのであり、12歳のころには両親と一緒に生活しているのであり、やっと30歳にして独立した。この間の30年間、親は子どもを養育し、共に生活する。否、子どもが独立しても、親は子どもを愛をもって見守り、必要な助けをする。母マリアがイエスを十字架の下から見上げていたのは非常に象徴的である。親のその全ての行為が神に対する奉仕である。捧げるということの具体化である。

5.捧げることの厳しさ
幼な子イエスを捧げたその日、母マリアに与えられた言葉は「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(Lk.2:35)という激しい言葉であった。子どもを捧げた親がその「捧げ」を貫くためには、常に、そして人生のポイント、ポイントにおいて、胸が刺し貫かれる経験をする。母マリアは幾度、この経験をさせられたことであろう。イエスが12歳の時、エルサレムの神殿で、思わず子どもイエスに「どうしてこんな事をしてくれたのです。お父様もわたしも心配して捜していたのです」と言ったとき、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」(Lk.2:49)と言われた時、マリアの心にはぐさりと鋭い剣がささった。注意深いルカは、「母はこれらの事をみな心に留めていた」と記している。さらに、カナの婚礼の時、また忙しく働く主イエスを心配して訪れたとき、そして、最後に十字架上の主イエスを見上げている時、母マリアは剣で胸が刺し貫かれる経験をし、その都度、母マリアはイエスを捧げ直した。

6.捧げられた者としての生き方
「捧げられたもの」ということを、子どもの側から捉えると、私の人生はただ無意味にそこに置かれているのではない、ということを意味している。ただ生まれたから生きている、というのではない人生が私の前にある。それは親の大きな期待というプレッシャ-ではなく、神との関わりの中で、本日の福音書の言葉を引用するならば、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと、定められ、また反対を受けるしるしとして定められています」。要するに私の人生は私だけの人生ではない。隣人、他人のための人生として「定められている」。
「捧げる、捧げられる」という親子関係は、決してそういう儀式をしたとか、しなかったというレベルの問題をはるかに越えて、人間の根源的在り方、根源的生き方を語っている。

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