ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/03/02~03/08

2014-03-09 07:43:08 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/03/02~03/08

2014日々の聖句 03月02日(日)
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。(イザヤ48:21)
イエスの言葉:わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)

私の黙想:
ローズンゲンの編集者は明らかに「水と乾くことがない」ということにポイントを置いているが、私はむしろ「主が彼らを導いて」の方に焦点を置きたい。これはバビロンの捕囚からの解放の預言に関わる預言者の言葉である。捕囚も50年以上になると結構、そこに定着してしまう。そこでバビロンから出て故郷の地に帰るということには大きな不安がある。そんなことは可能なのか。何かの策略ではないのか。ここにこのまま定住してしまっても良いのではないか。捕囚とは言え、バビロンでの生活もそれほど悪いものではないではないか。歴史を見ると事実故郷に帰った者よりも残った者の方が多いようである(それがディアスポラとなった)。ここで預言者は、故郷に帰ろうと呼びかけている(20節)。しかし帰国する際の苦労、不安、故郷までたどり着けるのか。故郷は荒れ果てているではないか。その不安に対して預言者、ヤハウエが帰国の段取りを付け、帰るように導いておられるのであるから、ヤハウエを信頼して帰ろうと呼びかける。その呼びかけの際に、出エジプトの出来事を思い起こさせる。あの時の先祖たちの不安を思い起こせ。その時ヤハウエはどういう風にしてあの困難を乗り越えさせたのかを思い起こせ。
出エジプトという「民族的記憶」がバビロン捕囚からの解放という出来事を重ねられている。この二つの出来事の時間的差は大雑把に言って750年、それは遠い遠い大昔の、ほとんど神話・伝説に類する言い伝えである。その出来事を今さら持ち出して「ヤハウエを信じろ」と言って入るようなものである。むしろ、先祖アブラハムが行き先を知らないで故郷を出発した「信仰」の方がはるかに説得力がある。ともかく、そういう状況の中で「ヤハウエは岩から水を流れさせる」という。

2014日々の聖句 03月03日(月)
主に贖われた人々は帰って来て、(喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、)喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。(イザヤ51:11)
今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。(1ペトロ1:6、口語訳)

私の黙想:
「贖われた人々」をフランシスコ会訳では「買い戻された人々」と訳している。「贖い」という言葉に慣れている人々にとって何でもないだろうが、私にとっては「買い戻された」という言葉の方がしっくり来る。まさにエルサレムに帰還した人たちはバビロンから「買い戻された人々」である。ローズンゲンの編集者は( )の部分を省略しているが、この部分が情景描写として重要であろう。異国に捕われていた経験のない人には分からないであろうが、そこで死んでしまっても不思議ではないところから、奇跡的に帰還するということは、まさに「買い戻された」という経験である。たとえそこが初めて見る祖国であったとしても、「ああ、私の居場所に戻った」という感覚は何ものにも代えられない。それが私にとっては「佐世保経験」である。あの米軍の引き揚げ船から日本の地に足を降ろした瞬間、それまでの「嘆きと悲しみ(恐怖と不安)」が消えて行く経験は今でも思い出す。ここが私の祖国なのだ。その「喜びと楽しみ」があったからこそ、それから始まる貧乏生活は一つも「苦労」ではなかった。私にとって「神による救済」とは霊的な事柄ではなく、まさに「肉体的経験」であった。

2014日々の聖句 03月04日(火)
ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。(1サムエル30:6)
キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

私の黙想:
ダビデが即位する前、宿敵ペリシテ軍との戦いに忙しかった。その隙を見てアマレク族がダビデとその兵士たちの郷里の村ツィクラグを襲撃し、村を焼き討ちし、留守家族を拉致していった。その惨状を見てダビデと兵士たちとは落胆し、泣いたという。この悲劇の責任はダビデにあると兵士たちは考え、ダビデを処刑しようと図った。もはやダビデには頼りにするものは何もない。いや、ただ一人、神である主だけが頼りであった。今日の聖句はそういう状況の中での言葉である。物語は一挙に飛ぶ。その間に色々なことがあったのであろうが、聖書は何も語らない。ダビデは祭司を呼び、神の意志を問う。アマレク軍を追い、反撃すべきか否か。主の答えは追撃せよ。ダビデと兵士たちとは主の託宣を信じて、敵を追う。いろいろな幸運が重なって、見事に作戦は成功し、妻子たちを救出した。
今日の聖句は血なまぐさい。しかしそれがダビデの現実であった。物語は更に生々しい現実を語る。戦いに勝利したダビデ軍は多くの戦利品を手にした。問題はその戦利品の分配である。ダビデの作戦によれば、追撃部隊と留守部隊とに分けられていたらしい。そこでこの2つのグループ間において戦利品を分配問題といういやらしい議論が始まった。追撃部隊は戦利品は自分たちのものであり、留守部隊に分ける必要はないと主張した。その時のダビデの言葉「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ」。この日から、これがイスラエルの掟、慣例とされ、今日に至っている(23~25節)。
現在のキリスト者たちは、この物語から何を学ぶのだろうか。

2014日々の聖句 03月05日(水)
彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと主は言われた。(エレミヤ1:19)
祭司長たちや律法学者たちは、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。(マルコ11:18)

私の黙想:
イスラエルの存亡の危機が迫る中で国論は方向を失った船のように大揺れの中、神は一人の若者を預言者としてたてる。それがエレミアである。エレミヤは若さのゆえに神の召命を断るが、神は執拗に迫る。
今日の聖句の「彼ら」とは民族の指導者たちを指す。指導者たちはエレミヤの言葉に耳を傾けようとしない。ここでのヤハウェがエレミヤを励ます言葉が面白い。エレミヤという個人を民族の指導者たちに対する「堅固な町、鉄の柱、青銅の城壁」(18節)とするという。しかし現実は彼らは若い預言者の言葉に耳を貸さず、預言者を引きずり回わす。そのような状況の中でもエレミヤは涙を流しながらもヤハウェの言葉を語り続ける。預言者がヤハウェの言葉を語り続ける限り預言者は負けてはいない。いや、彼らは「勝つことはできない」。神が預言者を守ってくださる。しかし預言者の言葉を聞こうとしない民族は必ず滅びる。その結果がバビロンの捕囚である。

2014日々の聖句 03月06日(木)
御救いを愛する人が、神をあがめよといつも歌いますように。(詩70:5)
イエスは盲人に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。(ルカ18:42~43)

私の黙想:
「神をあがめよ」という言葉は「御救いを愛する人々」が歌う言葉である。「神を崇めよ」では人々への呼びかけの言葉であって、神を賛美する言葉にならない。フランシスコ会訳で「神は大いなる者」、新改訳では「神は大いなるかな」である。
ここでは詩人は多くの人々から笑い者にされ、辱めを受けている。何か特別な理由があるわけでもなさそうである。つまり「いじめ」のターゲットにされている。詩人自身も自分自身が貧しく、弱く、それらのいじめを跳ね除ける「実力」もないという。ただ、「身を屈めて」、やられっぱなしである。その中で、心の中で「私のヤハウェは強いんだぞ」と呟いている。幼い子供が「うちの父ちゃんは強いぞ」と呟きながら「早く助けに来て」と声なき声で叫んでいる情景である。この詩はこういう情景を描写している。これがまさに列強に囲まれた弱小民族の嘆きだ。

2014日々の聖句 03月07日(金)
彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。(ネヘミヤ8:8)
大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。(マルコ12:37)

私の黙想:
「翻訳し」、フランシスコ会訳聖書では「訳し」、口語訳では「明瞭に読み」、新改訳では「はっきりと読み」。ヘブライ語の「パラッシュ」は難しい。民数記15:34では、安息日違反を下男に対する処分について「(どうすべきか、)示しが与えられていなかった(ので、留置しておいた)」と訳されている。その後、ヤハウェからの示しが与えられている。つまり、これは単に言語的な意味での「翻訳」ではなく、あるいは意味の不明瞭な言葉を明らかにするというようなことではなさそうである。あるいはイザヤ19:8では漁師が魚を取るために「(水の面に)網を広げる」という文脈で用いられている。この単語はこの3箇所にだけ現れている。この言葉は聖書を読む場合の一つの問題点を示している。ここでは、祭司エズラが民衆の前で律法の書を「翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とされる。翻訳によって色々順序はまちまちであるが、朗読、解釈、説明(メッセージ)の3段階を経ているようである。私流にいうと、読むこと、講釈すること、説教することの3段階であろう。この「講釈」の部分で「天啓」というか、「示し」を受ける。これなしでは「説教」は成立しない。

2014日々の聖句 03月08日(土)
主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ねました。(ダニエル9:4~5)
互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:16)

私の黙想:
今日の聖句は預言者エレミヤの預言からバビロン捕囚が70年間に及ぶこと(25:11~12、29:10)を知らされたダニエルが民族を代表してヤハウェに祈る執り成しの祈り。フランシスコ会訳によるとダニエル書において「主(ヤハウェ)」という言葉が用いられているの9章だけであるとのこと。つまり、ここではイスラエルの「罪」に対するヤハウェの判決、つまり70年間の捕囚という「罰」を受け入れ、それを服することを認めた上で、ヤハウェの守りを祈る。罪の「赦し」を祈るのでもなく、刑罰の短縮を願うのでもない。ヤハウェの裁決を素直に受け入れている。
このダニエルの祈りの姿勢はまさにイエスのゲッセマネでの祈りに重なる。この祈りがバビロン捕囚を耐え抜き、むしろそこで民族の再生のエネルギー(イスラエル史の編纂と律法の再構成)を形成した原動力になったのであろう。この70年間は決して無駄ではなかった。

最新の画像もっと見る