ダニエル・ボヤーリン著(土岐健治訳)『ユダヤ教の福音書~ユダヤ教の枠内のキリスト教の物語』(教文館)読了。2月25日から読み始めたので、12日間かかったことになる。なかなか内容が濃い。丁寧な論述で説得力がある。最後の注で著者は次のように述べている。「私自身は、これらの事柄に関するキリスト教の宗教的な見方の妥当性を否定するつもりは毛頭ない。これは信仰の問題であって、学問の係る問題ではない。私はそれを歴史学的文献学的な説明として否定しているのである」(171頁)と述べている。この注は復活信仰に関する注ではあるが本書全体についての注でもあるだろう。
本書について分析したり、批判したりする力は私にはない。以下は、あくまでも読書ノートで、気がついた点を抜書きしたものである。
序論 キリスト教とユダヤ教との境界線
ヒエロニムス(347~420)はキリスト教徒でもありユダヤ教徒でもある人々をキリスト教から排除した。「ミーニーム(異端)」と「ノツリーム(ナザレ人)」はキリスト教からもユダヤ教からも追放された。
キリスト教がユダヤ教から明白に分離してのは、ニカイア公会議(325年)とコンスタンティノポリス公会議(381年)との50~60年の間で「正統的」キリスト教が確立されてからであるし、そのレに刺激されてユダヤ教側でも「正統派」ユダヤ教が成立した、とされる。従って、それ以前の両者の関係は「ユダヤ人とキリスト教徒との関係よりも、カトリックとプロテスタントの関係に似ていた。つまり両者は一つの宗教集団の構成員」であった。26頁
家族とは必ずしも一群の同じ特徴を共有しているとは限らない。個人はそれぞれ共有しない個性を持っている。
●ユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者とはキリスト者としての共通点を持っている。
●ユダヤ人キリスト者の宗教生活はキリスト者よりもユダヤ人により近い。
●ユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者との宗教理解は必ずしも同じとはいえない。
「ユダヤ人」と「キリスト教徒」を分ける境界を曖昧にすることは、初期の「ユダヤ教」と基督教との発生と展開の歴史的な実態をより明瞭にすることにつながる」(32頁)。
第1章 神の子から人の子へ
「神の子」はイスラエルの王、ダビデの王座に座るこの世の王を指し、「人の子」は人間でない天的(神的)な人物を指す。36頁
「人の子」という称号はイエスが神の一部であることを示しており、「神の子」という称号は彼の王なるメシアとしての身分を示している。
「神である救済者としての人の子」
ダニエル書第7章の解釈
ダニエルは二人の神の幻を見る。「日々の老いたる者」(老人)としての神と「人の子のような」姿をした第2の神、(ダニエル7:13~14)
古代イスラエルにおける最古の神観(再構成)
<エルはカナン宗教に広く認められる「いと高き神」であり、ヤハウエは南部カナンの少数民族ヘブル人の(バアルのような)神であり、エルはこれらのヘブル人にとっては遠く離れた神であった。いくつかの民族グループが合併してイスラエル民族が生まれると、バアルのイスラエル版であるヤハウエは「いと高き神」としてのエルと融合して、エルはヤハウエから好戦的な嵐の神の特徴を受け継ぎ、二神の性質が大幅に溶け合って両神の特徴を備えた一神となったのである(58頁)。>
唯一神崇拝は遅くとも前7世紀後半のヨシヤ王と申命記改革の時代以降イスラエル宗教の特徴となっている。
ダニエル書第7章における「人の子のようなもの」
エルとヤハウエの二柱の神→→年老いた神と若い神→→賢明な裁きの神と戦争と刑罰の神
年老いた神がYHWEと呼ばれるようになる。そうなるとヤハウエの立場と名前が失われる。
一旦、YHWEがエルに吸収されると、ヤハウエは最上位の天使等になる。
ユダヤ教における二位一体(binitarian)信仰が成立する。
ナザレのイエスを神(の子)と信じるユダヤ的背景
高キリスト論と低キリスト論
多くのユダヤ人がイエスは神であると信ずるに至ったのは、彼らがイエスが現れる前から既にメシア/キリストは神にして人であると期待していたからである。(64頁)
イエスは自分自身を神である人の子とみなしていた。
マルコ2章の二つのテキストの解釈。ダニエル書第7章の「人の子」との関連。
「地上でもろもろの罪を赦す権威」
「人の子は安息日の主でもある」
第2章 1世紀における他のユダヤ教のメシア
モーセも神の座に座っている。参照:出エジプト7:1
「エチオピア語(第1)エノク書」の『たとえの書』(聖書外典偽典4、教文館、村岡崇光氏は紀元後270年頃の執筆とする)
著者はほぼマルコ福音書と同じ頃にまとめられたと見る。当時のパレスチナのユダヤ人の間における、このような宗教思想の存在を裏付ける独自の証言である。85頁
ほぼ同時代の福音書におけると同じように、この「エチオピア語エノク書」の中には、人間として地上に現れることによって人間に明示された神(神顕現)と、神のレベルへと高められた人間(神格化)という二つの見方(側面)の結合ないし総合が認められる。95頁
メシアという観念は普通の人間であるダビデ家の王を中心として生まれて展開したものであり、神である救い主という観念はこれとは別個に生まれて来たものである。96頁
これら2つの観念が結びついて「神であるメシア」という概念が生まれた。
エノクの神格化(創世記5章21~24節)
21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。
22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。
23 エノクは三百六十五年生きた。(太陽年の日数と一致!)
24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
ここで「いなくなった」という表現は、気にかかる。
新共同訳続編、エズラ記(ラテン語)における「人の子」思想
第13章1節から10節まで。この箇所はダニエル書7章よりも福音書に近い。
「宗教的な想像力の2つの流れ、一つはイスラエルの神の古来の2神性をを基本的の保持しつつ変容され、もう一つはその二神性を見事に隠し通している」。
「メシアに関するあらゆる思想は古く、新しいのはイエスである。福音書のキリスト論の中には、この人(イエス)こそ人の子であるという宣告を除いて、新しいものは何一つない」(111頁)。
第3章 イエスの律法観
多くの人(キリスト者)はイエスはユダヤ教の律法を廃棄したと考えているが、実はイエスはユダヤ教の食物規定(コシェル)を守っている。
「イエスのユダヤ教はエルサレムのパリサイ派と律法学者たちに由来するトーラーの急進的(過激)で革新的な解釈に対する保守的な反動であった」(115頁)。
マルコ福音書7章の分析の中で、食事の前に手を洗うという規定が、実は衛生問題ではなく、ファリサイ派による食べ物を汚さないようにするための儀礼なのだ。イエスはその拡大解釈を否定している。
「一般的に言って、古代ユダヤ教とキリスト教において「偽善者」とはそのトーラー解釈が自分自身の解釈と異なる者のことである」(Joel Marcus)。
ファリサイ派的な律法解釈によれば、汚れた食べ物が身体の清らかさを損なうとする。
第4章 受難のメシアという思想
イザヤ書53章の解釈
受難する主の下僕とは「メシア」であるという思想は古代、中世、近代初期のユダヤ教の中に脈々と生き続けている。162頁
結び
キリスト教は旧約聖書のみならず新約聖書をも乗っ取り、これの全くユダヤ教文書を後1世紀のパレスチナのユダヤ教共同体という文化的(宗教的)な起源から引き離して、それをユダヤ人の諸伝統に対する攻撃の武器としている。169頁
イエスに従っていた者たちはイエスが立ち上がった(甦った)のを見たのかもしれないが、それは彼らにこのような体験を期待させるような物語をすでに知っていたからであって、その体験がその物語を生み出したのではない。171頁
本書について分析したり、批判したりする力は私にはない。以下は、あくまでも読書ノートで、気がついた点を抜書きしたものである。
序論 キリスト教とユダヤ教との境界線
ヒエロニムス(347~420)はキリスト教徒でもありユダヤ教徒でもある人々をキリスト教から排除した。「ミーニーム(異端)」と「ノツリーム(ナザレ人)」はキリスト教からもユダヤ教からも追放された。
キリスト教がユダヤ教から明白に分離してのは、ニカイア公会議(325年)とコンスタンティノポリス公会議(381年)との50~60年の間で「正統的」キリスト教が確立されてからであるし、そのレに刺激されてユダヤ教側でも「正統派」ユダヤ教が成立した、とされる。従って、それ以前の両者の関係は「ユダヤ人とキリスト教徒との関係よりも、カトリックとプロテスタントの関係に似ていた。つまり両者は一つの宗教集団の構成員」であった。26頁
家族とは必ずしも一群の同じ特徴を共有しているとは限らない。個人はそれぞれ共有しない個性を持っている。
●ユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者とはキリスト者としての共通点を持っている。
●ユダヤ人キリスト者の宗教生活はキリスト者よりもユダヤ人により近い。
●ユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者との宗教理解は必ずしも同じとはいえない。
「ユダヤ人」と「キリスト教徒」を分ける境界を曖昧にすることは、初期の「ユダヤ教」と基督教との発生と展開の歴史的な実態をより明瞭にすることにつながる」(32頁)。
第1章 神の子から人の子へ
「神の子」はイスラエルの王、ダビデの王座に座るこの世の王を指し、「人の子」は人間でない天的(神的)な人物を指す。36頁
「人の子」という称号はイエスが神の一部であることを示しており、「神の子」という称号は彼の王なるメシアとしての身分を示している。
「神である救済者としての人の子」
ダニエル書第7章の解釈
ダニエルは二人の神の幻を見る。「日々の老いたる者」(老人)としての神と「人の子のような」姿をした第2の神、(ダニエル7:13~14)
古代イスラエルにおける最古の神観(再構成)
<エルはカナン宗教に広く認められる「いと高き神」であり、ヤハウエは南部カナンの少数民族ヘブル人の(バアルのような)神であり、エルはこれらのヘブル人にとっては遠く離れた神であった。いくつかの民族グループが合併してイスラエル民族が生まれると、バアルのイスラエル版であるヤハウエは「いと高き神」としてのエルと融合して、エルはヤハウエから好戦的な嵐の神の特徴を受け継ぎ、二神の性質が大幅に溶け合って両神の特徴を備えた一神となったのである(58頁)。>
唯一神崇拝は遅くとも前7世紀後半のヨシヤ王と申命記改革の時代以降イスラエル宗教の特徴となっている。
ダニエル書第7章における「人の子のようなもの」
エルとヤハウエの二柱の神→→年老いた神と若い神→→賢明な裁きの神と戦争と刑罰の神
年老いた神がYHWEと呼ばれるようになる。そうなるとヤハウエの立場と名前が失われる。
一旦、YHWEがエルに吸収されると、ヤハウエは最上位の天使等になる。
ユダヤ教における二位一体(binitarian)信仰が成立する。
ナザレのイエスを神(の子)と信じるユダヤ的背景
高キリスト論と低キリスト論
多くのユダヤ人がイエスは神であると信ずるに至ったのは、彼らがイエスが現れる前から既にメシア/キリストは神にして人であると期待していたからである。(64頁)
イエスは自分自身を神である人の子とみなしていた。
マルコ2章の二つのテキストの解釈。ダニエル書第7章の「人の子」との関連。
「地上でもろもろの罪を赦す権威」
「人の子は安息日の主でもある」
第2章 1世紀における他のユダヤ教のメシア
モーセも神の座に座っている。参照:出エジプト7:1
「エチオピア語(第1)エノク書」の『たとえの書』(聖書外典偽典4、教文館、村岡崇光氏は紀元後270年頃の執筆とする)
著者はほぼマルコ福音書と同じ頃にまとめられたと見る。当時のパレスチナのユダヤ人の間における、このような宗教思想の存在を裏付ける独自の証言である。85頁
ほぼ同時代の福音書におけると同じように、この「エチオピア語エノク書」の中には、人間として地上に現れることによって人間に明示された神(神顕現)と、神のレベルへと高められた人間(神格化)という二つの見方(側面)の結合ないし総合が認められる。95頁
メシアという観念は普通の人間であるダビデ家の王を中心として生まれて展開したものであり、神である救い主という観念はこれとは別個に生まれて来たものである。96頁
これら2つの観念が結びついて「神であるメシア」という概念が生まれた。
エノクの神格化(創世記5章21~24節)
21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。
22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。
23 エノクは三百六十五年生きた。(太陽年の日数と一致!)
24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
ここで「いなくなった」という表現は、気にかかる。
新共同訳続編、エズラ記(ラテン語)における「人の子」思想
第13章1節から10節まで。この箇所はダニエル書7章よりも福音書に近い。
「宗教的な想像力の2つの流れ、一つはイスラエルの神の古来の2神性をを基本的の保持しつつ変容され、もう一つはその二神性を見事に隠し通している」。
「メシアに関するあらゆる思想は古く、新しいのはイエスである。福音書のキリスト論の中には、この人(イエス)こそ人の子であるという宣告を除いて、新しいものは何一つない」(111頁)。
第3章 イエスの律法観
多くの人(キリスト者)はイエスはユダヤ教の律法を廃棄したと考えているが、実はイエスはユダヤ教の食物規定(コシェル)を守っている。
「イエスのユダヤ教はエルサレムのパリサイ派と律法学者たちに由来するトーラーの急進的(過激)で革新的な解釈に対する保守的な反動であった」(115頁)。
マルコ福音書7章の分析の中で、食事の前に手を洗うという規定が、実は衛生問題ではなく、ファリサイ派による食べ物を汚さないようにするための儀礼なのだ。イエスはその拡大解釈を否定している。
「一般的に言って、古代ユダヤ教とキリスト教において「偽善者」とはそのトーラー解釈が自分自身の解釈と異なる者のことである」(Joel Marcus)。
ファリサイ派的な律法解釈によれば、汚れた食べ物が身体の清らかさを損なうとする。
第4章 受難のメシアという思想
イザヤ書53章の解釈
受難する主の下僕とは「メシア」であるという思想は古代、中世、近代初期のユダヤ教の中に脈々と生き続けている。162頁
結び
キリスト教は旧約聖書のみならず新約聖書をも乗っ取り、これの全くユダヤ教文書を後1世紀のパレスチナのユダヤ教共同体という文化的(宗教的)な起源から引き離して、それをユダヤ人の諸伝統に対する攻撃の武器としている。169頁
イエスに従っていた者たちはイエスが立ち上がった(甦った)のを見たのかもしれないが、それは彼らにこのような体験を期待させるような物語をすでに知っていたからであって、その体験がその物語を生み出したのではない。171頁