ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降臨節第1主日(2017.12.3)

2017-12-01 05:09:36 | 説教
断想:降臨節第1主日(2017.12.3)
目を覚ましていなさい マルコ13:(24~32),33~37

<テキスト、私訳>
◆人の子が来る(13:24~32)
「その日には、これらの災害に引き続き、太陽が暗くなり、月は光らなくなり、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。まさにその時、人の子が大いなる力と栄光とをもって、雲に乗って来られるのが見える。その時、人の子は天使たちを各地に派遣し、地の果てから天の果てまで、四方から選ればれた者たちを呼び集める」。
「いちじくの木が示していることを学びなさい。その枝が柔らくなり、葉が出て来れば、夏が近い。それと同じように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると悟りなさい。しっかり覚えておきなさいよ。これらのことが全部起るまでは、この時代は滅びません。天地は滅びるでしょうが、私の言葉は滅びることがありません。これらのことが何時起こるか、その日、その時は、誰も知りません。天にいる天使たちも、また人の子も知りません。ただ父なる神だけが知っておられることです」。

◆目を覚ましていなさい(13:33~37)
気をつけて、目を覚ましていなさい。あなたがたはその時がいつなか、わからないからです。それはちょうど、旅に立つ人が家を出る際し、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目を覚ましておれと、命じるようなものです。だから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、わからないからです。主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているところを見つけるかも知れないからです。もう一度言いますよ。目を覚ましていなさい。私があなたがたに言うこの言葉は、すべての人々にも言っているのです」。

<以上>

1.降臨節第1主日について
教会暦は降臨節第1主日から始まる。4回の主日の次が降誕節である。この4回の主日がいわゆる「アドベント」と呼ばれ、クリスマスに向かって準備をする期間とされている。その中でも第1主日はただ単にクリスマスに向かう主日というより、何と言っても1年の最初の主日であるから、特別な意味づけがなされている。福音書はA年がマタイ24:37~44、B年はマルコ13:(24~32),33~37、C年はルカ21:25~31で、それぞれキリストの再臨についての記事が読まれている。3つの個所に共通することは、キリストが再臨される「時」がいつか分からないということが強調されている。だからこそ、私たちは、マタイでは「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(24:42)、マルコでは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(13:33,34)、ルカでは「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(21:26)。要するに、キリストの再臨は何時のことかよくわからないが、とにかく恐ろしいことが始まる。だから、目を覚まして、それが何時それが起こっても大丈夫なように「目を覚ましておきなさい」と述べられる。
使徒書でもA年ではロマ13:8~14で、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(13:11~12)、B年では1コリント1:1~9で「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(1:8)、C年は1テサロニケ3:9~13「わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」(3:13)で、要するに終わりの日に向かって生活を整えることが勧められている。
これらのテキストを並べて考えると、降臨節第1主日の課題は、(1)世界はいつか分からない終わりに向かっている、(2)いつか分からないから,ないことして無視するわけには行かない。(3)私たちの現在は素も子に向かって目を覚ましていること、その日に向かって私たちの生活を整えることがテーマである。それは必ずしも「再臨」が主要テーマであるというよりも、そこに向かって「時」を意識することである。「時間を意識して生きる」。私たちが生きるということは、実は「トキを経過すること」、ただ、ぼんやりと過ごしているときは私たちは時間を意識していない。

2.マルコ13:(24~32),33~37
この日のテキストでは、マルコ13:(24~32),33~37であるが、24~32節は括弧の中に入れられており、その部分は読んでもいいし、読まなくてもいいと言うことになっている。その最後の「その日、その時は、誰も知りません。天使たちにも子にも知らされていません。父だけがご存じのことなのです」を受けて、33節が「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないから、眠り込まないように目を覚ましていなさい」という言葉続く。おそらく、これがこの日のメッセージである。
つまり、終末の日時については、誰も分からないが、それに向かって、私たちは「気をつける」ということがこの日のメッセージである。つまり主題は終末にあるのではなく、終末に向かって生きるいま「今」が主題である。これを1年の初めに考えるということは、今年のすべての日々が終末に向かうものとして規定されている。

3.「今」という時
一般的には「時」は無限から始まり、無限へと向かう一本の線で考えられている。それに対して、聖書における「時」の理解の特徴は、すべての時には始まりがあり、終わりがあるということである。天地創造から始まり終末に至る。一人の人間の人生も誕生から始まり死に至る。地球にしても誕生があり、崩壊がある。2週間前の聖霊降臨後第28主日において、「終わりの日」のことを学んだ。しかし、そこでの重要なポイントは、その「終わりの日」は「この世」の終わりではあるが、すべての終わりではなく,同時に、それは「新しい天と地」の始まりでありということであった。始まりから終わりに至る一つの期間がアイオーンであり、一つのアイオーンの終わりは新しいアイオーンの始まりであり、私たち人間は「この世」と呼ばれる一つのアイオーンの範囲内のことしから知り得ない。その意味では神にとっての時間とは、一つのアイオーンを一つのリングとするチェーンであるというのが聖書的な時間理解である。
それと同じ時間構造が現実の私たちの時間にも当てはまる。教会暦では1年を降臨節第1主日から始まり降臨節前主日までを一つのリングとしている。また、それは1週間という時について主日から始まりその7日目の土曜日で終わる。そういうチェーンによって私たちの時間生活は営まれている。同様に、私たちの一日も、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)で区切られている。ここで「朝から始まり夜で終わる」という一日の考え方の違いが鮮明になる。1日をただたんなる平板な24時間で考えるのではなく、夜と昼という一つのアイオーン(期間)として生きる。これが私たちの時間感覚の基本である。夜と昼についての考察は,またの機会に譲る。

4.神の時と人の時
聖書はまた時間についてこういう言い方もする。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(2ペトロ3:8)。これは神の時は長く、人の時は短いというだけではなく、人間の時の方が長く、神の時の方が一瞬というとも言えるということで、神と人間との時間感覚の違いを語っている。つまり神のアイオーンと人間のアイオーンを時間の長さで語ることは出来ない。これを普通「永遠と時」という対比で考えることもしばしばあるが、基本的には哲学で考える「永遠と時」との関係とは異なる。むしろ神学的には「永遠の今」という言い方の方が相応しい。つまり「今」が「永遠」に直結している、あるいは神における「今」が人間における「永遠」というべきか。

5.「時が満ちる」
最後の,聖書にしばしば用いられている「時が満ちる」という感覚について考える。これがただたんなる物理的な時間が経過したということではなく、「一つのアイオーン」が充実したという意味であろう。最も有名なところが、マルコ1:15 で、そこでは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」書かれている。この場合の「時は満ち」とは、イエスが登場し,洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野でトレーニングを受けた後である。しかし、マルコの文脈を読むと、イエスの真の登場はそれらの事柄ではなく、「ヨハネが捕らえられた後」であり、イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたというニュースを聞き、そのときに「時が満ちた」と、自覚されたのである。これは他の福音書には見られないタイミングである。マルコの師範筋に当たるパウロの書翰によると、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。つまりイエスが生まれたのは「律法の下に」であり、マルコにとってはヨハネの逮捕ということは、この世の律法(権力)が牙をむき出ししてきた出来事と見たのだろうと思われる。イエスはこの世の権力が牙をむき出してきたときが「時が満ちた」というであった。
もう一つ注目すべき言葉は、イエスが十字架上において、すべての事柄が「成し遂げられた」と言って息を引き取られたと言われている(ヨハネ19:30)。この「成し遂げられた」をいう意味は文字通りには「成就」、「完成」を意味するが、それはほとんど「満ちた」と同じ意味である。こうして見るときにイエスのいわゆる「公生涯」が、始まりがあり、終わりがある一つのアイオーンとして見ることができる。イエスの公生涯の「終わり」が「新しい始まり」である。パウロはそれを次のように言う。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1:10)。ここから神の新しいアイオーンが始まった。

《寝ても良い起こされたならすぐ起きろ、寝込むとみ声聞こえなくなる》

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