ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/06

2016-08-08 06:23:57 | ツイッター
お早うございます。主の平和。リハビリ。次週の黙想「再臨論」を最終チェック。昼食後、2時間ほたっぷり昼寝。熟睡。C・S・ルイス『キリスト教の世界』続読。釣川堤防散策はあまりにも暑いので休む。家内は一人で出かけた。元気ですね。夜、「伝七捕物帖」を見て9時に就寝。5時起床。昨夜のひどい寝汗。今朝は涼しい風が吹いていて気分爽快。今朝の体温:36.6、血圧(138,81:80)・体調・快調。チュン、チュン。

26Izumi Naraさん、北村 良輔さん、他24人
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久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪今朝もまだ体温が高いようですね。どうぞ、お大事になさって下さいませ。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されます様にm(__)m

藤木 冨士子 おはようございます。
またまた結婚式の朝です。今日は二番目の息子です。

村田 多鶴子 富士子さん、ご子息のご結婚式、おめでとうございます!
2016年は、藤木さんのお宅にとって、格別に祝された年になりますね!
若いお二人の道行きを、主が守り、支え、祝して下さいます様にとお祈り致します。

文屋 善明 へ〜、結婚式の2連発、これはめでたいねぇ。

藤木 冨士子 ありがとうございます。秋には2番目の孫が与えられる予定です。

文屋 善明 こういうのを「慈しみに囲まれる」(今日の聖句)ということなんでしょうね。

藤木 冨士子 優しい言葉をありがとうございます。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。良き日となりますようにお祈りします。

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしく、お願いします。


文屋 善明
8月6日 5:32 ·
お目覚めの花。「JR鹿児島本線赤間駅前の花壇」「この駅前に私の通う整形外科があり、散髪屋がある」。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、木、屋外、自然

32北村 良輔さん、Susumu Odaさん、他30人
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糸原 由美子糸原 由美子 ペチュニア、神戸市中央区の花です!


文屋 善明
8月6日 5:55 ·
016 日々の聖句 08月06日(土)
(神に逆らう者は悩みが多く、)主に信頼する者は慈しみに囲まれる。(詩32:10)
願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)
私の黙想:
ローズンゲンではカッコの部分が省略されている。この「囲まれる」という表現が面白い。新改訳は「取り囲む」。何か「ほのぼの」をした雰囲気を感じる。取り囲んでいるのは、人間たちであろう。「慈しみ」や「恵み」(新改訳、岩波)、「憐れみ」(文語訳)が一人の人を「囲む」というのは変だ。要するに、その人を愛し、その人を尊敬し、その人が好きな人たちが、その人を取り囲む。ところが「神に逆らう者」にはそういう「取り囲み」がなくて、お互いに「疑心暗鬼」で、それぞれがその人に近づくことによって、何らかの利益を得ようとしている、情景である。さぁ、あなたはどういう生き方をしたいですか。

26Izumi Naraさん、北村 良輔さん、他24人


文屋 善明
8月6日 6:03 ·
今日の名言: @kitarowords
私は対象論理の立場に於ては、宗教的事実を論ずることはできないのみならず、宗教的問題すらも出て来ないと考えるのである。(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」)
<一言>ここで言う「対象論理」とは普通に人が何かを経験したときに感じる通常の理屈。宗教的な経験は普通の理屈では論じられないということ。そういう当たり前の理屈に到達するために、哲学者は七転八倒の苦しみをする。

16Izumi Naraさん、藤木 冨士子さん、他14人


文屋 善明
8月6日 6:16 ·
「昨日のFB 08/04」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

7Izumi Naraさん、藤木 冨士子さん、他5人


文屋 善明
8月6日 6:18 ·
イミタチオ・クリスチ(207):
自己を改善をするための秘訣は2つある。一つは自分にとって非常に魅力的な事柄から強いて自分を引き離すこと、もう一つは自分に欠けているものを得るために熱心に励むこと、これである。25:18

19Izumi Naraさん、藤木 冨士子さん、他17人


文屋 善明
8月6日 6:23 ·
「断想:聖霊降臨後第12主日(T14)の福音書」をブログにアップしました。

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10Izumi Naraさん、藤木 冨士子さん、他8人


文屋 善明
8月6日 6:45 ·
<昨日の読書から>
読書記録:C・S・ルイス『キリスト教世界』(大明堂、鈴木秀夫訳)
<C.S.Lewis:Mere Christianity,1960.>
この本の重要な点は論じられている内容よりも、執筆意図にあると思う。それで先ず内容に入る前に、著者の意図、および訳者の意図を明らかにしておく。
この書について、著者は次のようにその執筆意図を明確に語っている。
キリスト教徒になって以来,思いつづけてきたことは、私が信仰を持たない隣人に対しできる最善の、そしておそらく唯一のサービスが、そうすしたすベてのキリスト教徒が共通に持つている信仰を説明し、代弁することであろう、ということでした。このように考えるのは、いくつかの理由があります。まず第一に、キリスト教の教派を分けているものは、高度な神学と、教会史の間題であり、専門家以外のものが軽々しく扱うことのできない問題だということです。これは私の力の及ばない範囲であり他人に対して助言を与えるどころか,私自身も教えを受けたい事柄なのです。第二に、論争が盛んなこの問題に関する議論はキリスト教の外にいろ人々にとってはキリスト教を理解することのさまたげにほかなりません。教派の問題について語れば語るほど、そして、書けば書くほど聞く人にキリスト教徒の群れに入ることを躊躇させてしまいます。
キリスト教徒のなかに諸宗派があるという問題は唯一なる神がいまして、そのひとり子がイエス・キリストであるとすでに信ずるようになった人々の間でのみ議論されるべき問題なのです。そして最後に、この問題に関してはすでに多数の、しかももっと有能な方々が論じておられるということがあります。ここではそういう高度な論考ではなく、ある人が「素朴な」キリスト信仰(訳註:原文はMere Christianityで、この書の原題でもあるのだがうまく訳しきれずこのようにしておいた)と表現したものについて弁明をおこなおうとするのでありますが、それは私にとって最も歩を進めやすく、また貢献のできる部分であると考えたためです。
これだけの理由によるにすぎないのでありますから、宗派の問題に、私が沈黙を守ることについてあまり考えすぎないようにしていただけたら、ありがたいと思います。今たとえば沈黙を守るということは私が傍観者の姿勢をとっているということではありません。そうでない時がないとは言い切れませんけれども、クリスチャンの間で意見が分かれている諸問題について,、私自身答を知らないものがあります。決して答えが出ないであろうと思うものもあります。もし仮に私が天国においてそのような質問を発したとしても、かの質問者(訳註:ペテロのこ と、ヨハネ伝21章) が得たように「汝になんの関係あらんや、汝は我に従ヘ」という答を得ることだと思います。問題によっては、明確に一つの立堤に立っているものもあります。しかしそれでも、それについて何も語るつもりはありません.。これから書こうとしていることは私の宗教を解説することではなく、「素朴な」キリスト信仰のあろがままの姿を、また、私が生まれる以前から私が欲しようと欲しまいとずつと存在してきた姿を説き示すことだからであります。(序、3頁)
<訳者あとがきから>
私事にわたるがこの書物を翻訳するに至った経過を述ベさせていただきた。訳者は数年前、『超越者と風土』(大明堂)という書物を著し、人類の歴史のなかにおける、神慨念の時間的・空間的変遷を自然環境の変動のなかで論じた。その書物を『The Transcendent and Environments』(Addis Abeba Sha, 1981)として訳出し国外にも問うたのであるが、それに対し、かつて日本で永らく宣教師をつとめられた Ms Drothy Stout から手紙とともに、この書物が送られてきた。お礼をのべるためにもと、ともかく 一読したが、なかなかおもしろく、おだやかなに理路整然とキリスト教の世界を語っているのに驚きを感ずるほどであったので、日本語に移し変えてみようと思いたって、この訳書の出現となったわけである。
著者C・S・ルイス(1898~1963)は、原書の裏表紙に書かれた記事および Times の紙碑にょよると、ケンブリッジ大学の中世よよびルネッサンス文学の教授であり、聖公会神学院の握原史朗司祭(当時)によると、英国国教会(聖公会〕の中心的な神学者だった人とのことである。(文屋註:日本では『ナルニア国物語』『悪魔の手紙』等の作者として有名)
<中略>
若干、技術的なことまで述ベておくと、まず放送であるために頻発するyouという主語は日本語では落ち着かないので、「われわれ」とした。もちろん状況に応じては直訳をしている。それから Christianity という言葉は、ふつう「キリスト教」 と訳されているが、これは誤択であって、「教え」ではないという考え方があり、この書物にもその考えがあるが、そのため「キリスト信仰」という表現にした所が少なくない。ここでもまた、状況において「キリスト教」という語も用いているが原文では違いがないのであるから、それぞれ特別の埋由があるわけではない。
なによりも、表題の「Mere Chrstianity」という言葉の翻訳に困った。本文中では、「素朴な」という語を一応使ったが語感は相当離れている。書名を『キリスト教の世界』としたのは、この地上に生活するクリスチャンという一群の人々の内的世界をこの書物がよく描き出していると思ったからである。(207頁)
さて、この書の表題「Mere Chrstianity」について、何と訳したらいいのか、というよりも、これをどう理解するか。これは実は私が聖公会の聖職になったことと深く関連する。私が日本ホーリネス教団の正教師から日本聖公会京都聖三一教会の信徒になったのは,激動の1970年代前半が終わって間もなくの1977年1月1日である。その時は、それ以後一生「一信徒」として生きるつもりであった。その年の大斎節に私の尊敬する小谷春夫司祭の配慮によって、京都伝道区の大斎節集会で、講話をする機会が与えられた。私の課題はなぜ,私が聖公会の信徒になったのかという説明である。その時、私は、聖公会を色にたとえると、当時流行っていた「限りなく透明に近いブルー」であるということから話を始めた。私の考える「Mere Chrstianity」とは「限りなく透明に近いブルー」であると、今でも思っている。その時の講話の原稿がそのまま残っているので,是非お読み頂きたいと思う。

1977年大斎講話 「今日に生きる聖公会」 - ぶんやさんち
日本聖公会京都教区京都伝道区大斎集会 1977年3月23日(水) 京都聖三一教会にて 大斎講話 「今日に生きる聖公会」 1. 教会の交わりの中で生きること(自己紹介を兼ねて) 2. 聖公会の魅力 3. 今日に生きる聖公会
BLOG.GOO.NE.JP

16Izumi Naraさん、北村 良輔さん、他14人
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コメント

Mizota Michael Satoshi 以前一度見ましたが改めて読むことが出来ました。これを1976年にお書きになられていたとは思えないですね。新しいと思います。

文屋 善明 あなたの目にとまって、嬉しいです。

Mizota Michael Satoshi それはありがとうございます。

文屋 善明 このブルーも,かなり汚染されて「汚れて」いることを承知していますが、それでも、今なお、私は信じています。無色透明ということが聖公会で、これを幼稚園の園長時代には「普通のキリスト教会」と表現していました。

Mizota Michael Satoshi 大変に実感します。私は『常識』とか『中庸』とかが目標です。

文屋 善明 それが英語では「common」ということでしょう。祈祷書はthe common prayer bookですからね。

Mizota Michael Satoshi そうです。日本はアングリカニズムが薄い、というご指摘ですが同感です。

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