ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/07/31~08/06

2016-08-07 09:55:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/07/31~08/06

016 日々の聖句 07月31日(日)
耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。(レビ19:14)

宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。(ルカ14:13~14)

私の黙想:
障害者の問題を一般化するのはあまり感心しないが、あえて言うなら、「弱者の弱点」を突くことはフェアではない。一人の人間に対して大勢で襲い暴力を振るったり、素手の人間に武器をもって闘うとか、それは卑怯である。ここで、注目すべきことは、これらの卑怯な行動に対して、「神を畏れよ」と戒めていることである。逆に言うと、神を畏れるということの具体的な行動として卑怯であることを戒めていることである。

016 日々の聖句 08月01日(月)
(主は、)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。(申命記10:18~19)

お前たちは、見知らぬ旅人であった私をもてなしてくれた。(マタイ25:35)

私の黙想:
チョット無理な解釈だと思うが、前半の言葉を後半の言葉とつなぐと、「主が孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」。だから、あなたたちも寄留者を愛せよ。そうすれば衣食住が与えられる、と関連づけることが出来るであろう。「権利と衣食住」が保証されているのは弱者なのだ。弱者を「愛する」ことによって、そのことによって、ただそのことによってのみ、あなた方の「権利と衣食住」が保証される。あなたたちが弱者を養っているかのように思っているが、実はあなたたちは弱者によって養われているのである。ここに「神」が介在している。ここに「愛しなさい」という言葉の重みがある。普通ならば「養いなさい」であろうが、そのことを「愛しなさい」ということによって、私たちの生き方が問われている。

016 日々の聖句 08月02日(火)
人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。(詩145:4)

すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:11)

私の黙想:
「告げ知らせますように」、聖書においては、信仰の伝承ということが一つの重要な課題として語られる。元々は親から子へ,子から孫へという民族内の伝承であったのが、いつの日か諸民族への「宣教」に変わっている。その中心メッセージは神の「力強い御業」である。彼らにとって信仰とは個人的な事柄ではなく、みんなが参加すべき公共の事柄であるという強い確信があったようだ。この伝統が,キリスト教にも受け入れられた。というよりも、信仰とはそういうものだという「前提」があった。
その点で現代のキリスト者はどうなんだろう。

016 日々の聖句 08月03日(水)
天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。(ダニエル4:32)

この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。(黙示録11:15)

私の黙想:
今日の聖句は難しい。私の手におえない。新共同訳と口語訳とでかなり文脈が混乱している。ふらんしすこ会訳も新改訳も同様である。おそらくヘブライ語原文に混乱が有るのであろう。
バビロンの権力者ネブカデネザル王が、自分自身の権力に酔って狂っている。ある日、王が王宮の屋上で自分自身が築いたと思っている国の偉大さを誇っているとき、突然、ヤハウェの言葉が臨む。今日の聖句はその時のヤハウェの言葉か、ヤハウェの言葉によって突然「理性が戻って来て」王自身が悟った言葉かである。語れていることの論旨は明瞭である。
人間は自分自身の権力に酔いしれ、狂う。それは文字通り狂気である。今日の聖句の直前に、「すべて地に住む者は無に等しい」という言葉がある。これは誰の言葉であるかということを越えて、重要な一句である。人間の権力がどれ程大きくても、それは無に等しい。いずれ短期間である。ナチの権力もそうであった。結局は正義が勝つ。

016 日々の聖句 08月04日(木)
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。(イザヤ55:6)

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

私の黙想:
文語訳では「汝ら逢うことうる間にヱホバを尋ねよ。近くにゐ給う間によびもとめよ」。この歯切れの良さが好きな聖句だ。こういう句は歯切れの良さが求められる。その意味では、口語訳以下どの訳も魅力的ではない。全然、別次元のお話。孫娘が、私の両親の結婚式の写真を見て、そこに「我と我家とは共にエホバに事えん」という字を見出し、お祖父ちゃんのお父さんとお母さんとは「エホバ(の証人)」だったの」と聞く。家内は思わず笑って、この「ヱホバ」は文語訳聖書では「主(ヤハウェ)」のことを言っているのよ」と説明していた。ああ、時代は変わったのだとつくづく思う。その意味では「逢うことをうる間に」も「「ゐ給う間に」も分からんだろうなと思う。「ヱホバ」の「ヱ」はワ行の「ヱ」で、「ゐ給う」の「ゐ」もワ行の「ゐ」で、昔は、ワ行の「い」と「え」は「wi」「we」と発音していた。その名残が「を」でこれも正確には「wo」と発音する。等々、孫娘に説明した。今気が付いたのだが、「を」をローマ字変換する場合に「wo」と打ち込む。それではと思って「wi」と打ち込むと「ゐ」が出てくるし、「we」と打ち込むと「ゑ」が出てくる。さすが、コンピューター、良く出来ている。「トーボー」だ。
という訳で、今日の黙想は遊んでしまいました。「今や、恵みの時、遊びの時」でした。

016 日々の聖句 08月05日(金)
どうか主が民に力をお与えになるように。(詩29:11)

(御心に適うことを)イエス・キリストによって(わたしたちにしてくださり、)御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。(ヘブル13:21)

私の黙想:
「民に力を与えてください」。この「力」は武力ではない。「平和のための力」である。この節の後半にはこういう言葉がある。「主が民を祝福して平和をお与えになるように」。この前半と後半とがそれぞれ独立した文章であることが問題だ。口語訳では一つの文章になっている。「主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう」。決して「富国強兵」ではない。「平和のための軍事力」などという誤魔化しはない。岩波訳は面白い。「ヤハウェが、守りを彼の民に与え、ヤハウェが、彼の民に平安で祝福したまえ」。まさに「専守防衛」である。
さて、ここで「翻訳」とは何かということを考えさせられる。原文の通りに訳すことが翻訳であろうか。おそらく、原文でも前半と後半とはそれぞれ独立しているのであろう。しかし、それでは原文の意味が誤解される恐れのあるときには、そうならないように工夫することも翻訳者の役割ではなかろうか。
ここで岩波訳では面白い注釈がある。ここでの「民」とはイスラエルの民というよりも1節の「神の子らよ」を指しているという。岩波訳では「神々の子らよ」と訳している。これもチョット間違うと、大和民族神国論に歪められる。ここでの「エリームの子ら」とは「異教の神々、さらにはこの世で神々のように振る舞う権力者らを指したのであろう」と言う。つまり、この世の権力者たちの支配下に置かれている人びと、神は彼らにこそ「力」を与え、平和を保障される。まさに「安全保障」である。(私は、かなり意図的に、無理に解釈していることを自覚している。)

016 日々の聖句 08月06日(土)
(神に逆らう者は悩みが多く、)主に信頼する者は慈しみに囲まれる。(詩32:10)

願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

私の黙想:
ローズンゲンではカッコの部分が省略されている。この「囲まれる」という表現が面白い。新改訳は「取り囲む」。何か「ほのぼの」をした雰囲気を感じる。取り囲んでいるのは、人間たちであろう。「慈しみ」や「恵み」(新改訳、岩波)、「憐れみ」(文語訳)が一人の人を「囲む」というのは変だ。要するに、その人を愛し、その人を尊敬し、その人が好きな人たちが、その人を取り囲む。ところが「神に逆らう者」にはそういう「取り囲み」がなくて、お互いに「疑心暗鬼」で、それぞれがその人に近づくことによって、何らかの利益を得ようとしている、情景である。さぁ、あなたはどういう生き方をしたいですか。

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